11月2日(土)から岩波ホールほか絶賛公開中の『少女は夜明けに夢をみる』。イランの少女更生施設に密着した本作は、ベルリン国際映画祭でアムネスティ国際映画賞を受賞し、世界各国の映画祭でも数多くの賞を受賞した崇高なドキュメンタリー映画だ。

まるでジャン・ヴィゴの『新学期・操行ゼロ』(33)そのままの純粋で溌剌とした少女たちの姿と、その胸の奥深くに刻まれた悲痛な傷跡が観る者の心に焼きつく。「見えない存在(インビジブルピープル)」として疎外されてきた彼女たちの姿は、スクリーンの上で「確かな存在」として現れている。そのような少女たちの姿を通して監督メヘルダード・オスコウイが問うているのは、スクリーンのこちら側で「見えない存在」として安穏と暮らしている私たちの生き方と姿勢にほかならない。

巨匠フレデリック・ワイズマンが合衆国アメリカのスモールタウンや地域をひとつの自律した小宇宙として描き出すように、オスコウイは更生施設をひとつの「世界」として見つめている。映画と現実、可視と不可視の立場を逆転させたその眼差しは、カメラの向こう側で少女たちを隔離し「見えない存在」にしている社会の罪業を問い、私たちを内省と想像へ向かわせる。そんな思慮深さとを厳しさをたたえた眼差しと、優しく人間味溢れる声を響かせる監督に話を伺った。

画像1: ©Oskouei Film Production

©Oskouei Film Production

――作品を拝見し、監督が映画に出てくる少女たちとしっかりとした信頼関係を築いているのがよく伝わってきました。また、観ているあいだカメラの存在を忘れるほど私たちもあの更正施設のなかに入り、少女たちとともに過ごしているようでした。なかでも印象的だったのは、施設に赤ちゃんがやってくる場面です。赤ちゃんに対して優しく穏やかに接する少女もいれば、赤ちゃんを抱いて泣いてしまう少女もいる。赤ちゃんという純粋ですべてに対して開かれている存在が現れたことによって、家庭や社会の軋轢から犯罪や薬物に走ってしまった彼女たちのあいだにも光が射し込んでいるように見えます。

メヘルダード・オスコウイ(以下、オスコウイ)
施設にあの赤ちゃんが入ってきたとき、そこにはまるで20人の「母親」がいるようでした。あの場面では彼女たちのあいだに母性が生まれ、一人ひとりがとても純粋に見えます。

――彼女たちも元は赤ちゃんであり、メーテルリンクの『青い鳥』のように、誰もがこの世界に降りていくときには必ず神様から「ギフト」をもらっている。さまざまな事情を抱えている彼女たちから愛情をたくさんもらい、にこにこと笑っている赤ちゃんを見て、そんなことを考えました。ほかにも印象的な瞬間をカメラに収められたと思いますが、76分という完成された本編以前に編集前の段階ではどれくらいカメラを回されたのでしょうか。

オスコウイ
更生施設からは3か月の撮影期間をもらいました。そのうち、実際に撮影をしたのは20日間で、合計するとおよそ90時間分の撮影素材がありました。

画像2: ©Oskouei Film Production

©Oskouei Film Production

――編集にはどれくらい時間をかけられたのでしょうか。

オスコウイ
撮影は連続して20日間撮ったのではなく、その3か月の期間のなかで合計した日数が20日間だったということです。ですので、撮影の合間にラッシュを見ながらシーンやカットの取捨選択をするなど、ラフな編集はしていました。作品が完成するまでに全体でかかった編集時間は約1年間です。

――ドキュメンタリー映画は編集の力がとても大切な要素だと思うのですが、編集をされる際に指針となるようなものはあったのですか。

オスコウイ
本作は3か月という限られた時間のなかで撮影をしなければなりませんでした。法務局から私たちに与えられたその制約期間は、たとえ1日であっても超過することは許されません。ですから、後になって撮り直したりすることはできないのです。とはいえ、長年私と一緒に編集を手がけている編集者からは「あなたはつねに撮りたいものを撮っている」とよく言われます。どの作品もそうですが、私は自分が撮りたいと感じたものはすべてカメラに収めています。ですから、編集段階で「あのときに撮っておけばよかった」という後悔は絶対にありません。逆に今回の編集では撮りためた素材を削っていくのに大変苦労しました。

私はいま『Anthropology』というひとりの人間についてのドキュメンタリー映画を撮っていますが、編集者を4回変え、4年間ものあいだ編集を続けて、いまだに完成していません。監督はつねに正しいストーリーテリングをしなければなりません。本作を手がけた編集者と再度組み、それで上手くいかなければ製作を中止しようと考えています。私にとっては、それくらい編集という作業は大切なものなのです。

画像3: ©Oskouei Film Production

©Oskouei Film Production

――感心したのは〈名なし〉の少女が電話をかけている場面で、揺れ動く電話コードだけを捉えているところです。あの場面は撮影のときから考えて撮られていたのですか。

オスコウイ
まず本作ではあらかじめ施設から外へ出ることなく、内部のみで撮影しようと決めていました。そうすることで、施設の鉄格子の門の外と内という刑務所の境界を観客に想像してほしかったからです。それを踏まえたうえで、あの場面は部屋のなかすべてをカメラに収めるのではなく、できる限り最小限の対象を撮ろうと撮影監督と話し合いました。施設では少女たちに外から電話がかかってくると、彼女たちをあの部屋へ呼ぶのですが、その際にソーシャルワーカーが私たちにも声をかけるようお願いしていました。そこでまず少女たちが部屋に入る前に、私たちが部屋のなかで自分たちの立ち位置を把握していたのです。また撮影はアングルを変えたりすることなく、必ずフィックス=固定で撮ろうと決めていました。そこであの電話コードを撮ったわけです。彼女と大切な家族を繋ぐものは、あの一本の電話コードしかありません。あの場面はヨーロッパの映画人にも注目を浴びました。

――本作に出てくる少女たちは完成した作品を観てどのように感じたのでしょうか。

オスコウイ
彼女たちは完成した作品を観てはいません。なぜなら、本作が完成するまでには2年間近くかかりましたが、そのあいだに彼女たちは施設から出ているからです。施設を出た後の彼女たちの行方は分かりませんし、もしかしたら作品を観ているかもしれません。彼女たちは映画のなかで自分たちの顔が映し出されることに反対はしていませんでしたが、私自身は彼女たちの顔を多くの観衆の前で見せることにはためらいがありました。本作を含めて、私は今までに刑務所を舞台にしたドキュメンタリーを3作品撮りましたが、目下新たに4作目に取りかかろうとしているところです。

――少女たちが雪遊びをした後、誰もいなくなった風景のなかで雪が降り積もるショットなど、時折挿入される空ショットのリズムや呼吸に小津安二郎監督に繋がるものを感じます。小津監督は出演俳優が自前の演技プランを持って現場へ入ると、それが見え透いてつまらないので、照明をすべて消し、まさに現実のドキュメントとして俳優がその場になじむまで撮影をしなかったといいます。

オスコウイ
そういうお話を伺うと、敬愛する小津監督のことをもっと知りたくなりますが、あいにくイランで翻訳されている書籍が少ないのでとても残念です。

画像: ©︎Oskouei Film Production

©︎Oskouei Film Production

画像4: ©Oskouei Film Production

©Oskouei Film Production

――オスコウイ監督は小津監督のみならず、ドキュメンタリー映画の巨匠フレデリック・ワイズマンのワークショップで多くのことを学んだとおっしゃっていますが、ナレーションや解説を用いないというワイズマン作品の特色であるスタイルは本作にも共通していますね。

オスコウイ
ナレーションもドキュメンタリー映画を語るひとつの方法ではありますが、私はそのようなありきたりなスタイルは好きではありません。カメラの前に人物を置いて撮影するということは、目の前の相手を監督している自分がいると同時に、監督である私自身も、その相手から監督されているということなのです。映画監督である私は決して独裁者ではありません。映画はカメラの前と後ろにいる相互の存在や関係性から生まれるのですから。

――カメラの背後から少女たちに話しかけるオスコウイ監督の声がとても素敵でした。あの温かい声音があるからこそ、彼女たちがまるで本当の父親に話すように素直に語りだす心情が、観ている側にもよく伝わってくるのだと思います。

オスコウイ
優しいお言葉ありがとうございます。もしも本作の監督が女性だとしたら、彼女たちはあれほど自分のことを話してはくれなかったのではないでしょうか。彼女たちは私のことを映画監督としてではなく、まさに父親として見ていたのだと思います。私は自分には彼女たちと同じ年頃の娘がいること、そしてさまざまな問題を抱えながら過ごしてきた幼少期から現在に至る人生のすべてを彼女たちに打ち明けました。そうすることで、私と彼女たちのあいだにあった緊張が少しずつ解かれていきました。

――少女が施設へと収監される冒頭のタイトルクレジットで、指紋を採取された少女と同じく、監督名の横にもオスコウイ監督の指紋が提示されます。そのようなところにも、撮る側と撮られる側の非対称な関係性を自覚し、特権的な立場からではなく、彼女たちと対等な立場であろうとする監督の姿勢が伺えるように思います。そしてまた社会的な管理拘束の象徴である指紋採取が、声なき彼女たちの「私たちはここにいる」ということを伝える、確かな存在の証しとしても映し出されているように思います。

オスコウイ
細かなところまでよく観てくださって感謝します。日本の観客の皆さんは非常に熱心に作品をご覧になる方が多いですね。本作を各国で上映した際に、何となくアッバス・キアロスタミ監督や小津監督の作品を彷彿とさせるという指摘はよくされたのですが、日本の方は映画を細部に至るまでしっかりとご覧になっている。それは大変うれしいことです。私はドキュメンタリーの映画作家ですので、劇映画から映画づくりを学んだというと違和感を持たれるかもしれません。しかし、実際には劇映画の映画監督から私は数多くのスタイルを学びました。映画のスタイルや撮り方に決まりはなく自由です。それがたとえ現実を追求するドキュメンタリー映画だとしても。

(聞き手=羽田野直子、野本幸孝)
(文・構成=野本幸孝)

画像: 少女たちの声なき叫びが胸を打つ渾身のドキュメンタリー『少女は夜明けに夢をみる』メヘルダード・オスコウイ監督インタビュー
画像: メヘルダード・オスコウイ監督

メヘルダード・オスコウイ監督

メヘルダード・オスコウイ
1969年、テヘラン生まれ。映画監督・プロデューサー・写真家・研究者。「テヘラン・ユニバーシティ・オブ・アーツ」で映画の演出を学ぶ。これまで制作した25本の作品は国内外の多数の映画祭で高く評価され、イランのドキュメンタリー監督としてもっとも重要な人物の1人とされている。2010年にはその功績が認められ、オランダのプリンス・クラウス賞を受賞している。イラン各地の映画学校で教鞭を執り、Teheran Arts and Culture Association(テヘラン芸術文化協会)でも精力的に活動している。2013年にフランスで公開された『The Last Days of Winter』(11)は、批評家や観客から高く評価されている。

『少女は夜明けに夢をみる』予告編

画像: ベルリン国際映画祭でアムネスティ国際映画賞を受賞『少女は夜明けに夢をみる』予告 youtu.be

ベルリン国際映画祭でアムネスティ国際映画賞を受賞『少女は夜明けに夢をみる』予告

youtu.be

ストーリー

雪が黒い土や建物を覆う、クリスマス前の少女更生施設。雪が降り積もり、無邪気に雪合戦に興じる、あどけない少女たち。その表情は、ここが高い塀に囲まれ、厳重な管理下におかれた更生施設であることを感じさせないほど瑞々しい。

やがて少女たちが施設に入ることになった背景が、彼女たち自身の言葉によって、解き明かされていく。むごい虐待に耐えかねて、父親を殺してしまった少女。叔父の性的虐待からのがれて、家出をし、生きるために犯罪を繰り返す少女。幼くして母となり、その夫に強要され、ドラッグの売人となった少女…。義父や叔父による性的虐待にさいなまれ、あるいはクスリよって崩壊した家庭は、少女たちにとって安息の場所ではありえない。ストリートにも家庭にも自らの居場所がない少女たち。その心の嗚咽が問いかける。
少女たちの罪の深さと、人間の罪深さとを――。

2016年/イラン/ペルシア語/76分/カラー/DCP/ドキュメンタリー
©Oskouei Film Production
原題:Royahaye Dame Sobh/英題:Starless Dreams

監督:メヘルダード・オスコウイ
製作:オスコウイ・フィルム・プロダクション
配給:ノンデライコ
宣伝:テレザ、リガード
宣伝美術:成瀬慧

2019年11月2日(土)より岩波ホールほか、全国順次ロードショー

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