今月6月8日(土)から渋谷のユーロスペースで絶賛公開中のギヨーム・ブラック監督の新作『7月の物語』。パリとその郊外を舞台に、フランス国立高等演劇学校の学生たちが出演し、5日間の撮影期間と3人の技術スタッフでつくられたこの「小さな映画」はしかし、それゆえに監督ブラックの映画に対する姿勢や信念が端的に現れた作品だといえる。
そして、この小さな物語に込められた大きなテーマに胸打たれ、現実と映画=フィクションを往還し続けるブラックの自由でしなやかな眼差しを共有するとき、私たち観客は現実と映画をもう一度新たな目で発見するに違いない。なぜなら、本インタビューで筒井武文監督が言及されたジャン・ルノワールに倣うなら、その眼差しはヴァカンスの「陽気さ」と、遵守すべき現実という「ゲームの規則=悲劇」を往還するなかで生まれるものなのだから。
ヴァカンスが退屈な日常と表裏一体であるように、ブラックは偶然や不確かな感情の揺らぎを尊ぶために厳密さや抑制を求める。その映画術の一端を垣間見るべく、公開初日のユーロスペースで来日した監督に話を伺った。
『7月の物語』
ギヨーム・ブラック監督インタビュー
制服を着た「管理人」的存在
筒井武文(以下、筒井)
まず、ギヨーム・ブラック監督の大ファンであるということをお伝えさせてください。過去の3本もとても素晴らしい作品でした。今回は少し特殊なケースの作品であり、撮影日数の少なさや俳優の制約などがあったとは理解していますが、むしろその制約を見事に活用なさって素晴らしい映画を撮られたことに本当に感激いたしました。
ギヨーム・ブラック(以下、ブラック)
筒井さんは監督であると同時に学生にも教えていらっしゃるので、学生が出演した今回の作品には共感するところがあったのではないかと想像します。
筒井
確かに私にも同じ経験がありますので、この完成度には脱帽です。それで、今回の作品は当初3本撮ったけれども、最初の1本は公開から外したとうかがっています。第一部と第二部は物語はまったく違うのですが、似ているところと対照的なところが見事に織り合わされています。逆にいえば、もしここに外されたもう1本が入っていたとしたら、三部作として面白いものになったのではないかとも想像します。そのあたりの関連性は監督ご自身はどう思っていらっしゃるのでしょうか。
ブラック
今回、学生とともに制作した作品は3本とも約1週間という同じ条件のもとでつくりました。結果的に公開から外した作品は一番最初に撮ったのですが、残りの2本に較べて、形式的にもテーマ的にもまったく異なった作品といえます。ただ、出来としては映画として成立していない、あくまでも習作という形のものです。公開されている2作品に関しては欲望や感情といったものがテーマになっていますが、最初に撮った1本目の作品はそうしたテーマがまったくありません。そうした点からも、残りの2本と一緒に公開することはできませんでした。
筒井
そうするとやはり二部作でひとつの作品だということですね。この二部作の共通点として、5人の男女が織りなす関係性の変化があります。しかも、その関係性=場のなかに管理人的な存在が出てきて、その人物はともに制服を着ている。そこがとても面白いところです。
ブラック
確かに、それぞれの作品はひとつの場所から始まっています。第一部『日曜日の友だち』はセルジー=ポントワーズのレジャーセンター、第二部『ハンナと革命記念日』は国際大学都市。筒井監督がおっしゃった管理人というのは、その場所を代表するような人物だと思います。物語のなかでは自由が謳歌されていますが、制服を着た管理人というのはその場所で仕事をしている人物です。第一部の監視人である青年ジャンは、センターの規則に準じ、遊泳場所を管理しなければならない立場であるにもかかわらず、若い女性に声をかけて連れ出し、閉園後のセンターで遊んでいたりして、自らも自由を利用して楽しんでいます。一方で、第二部の消防士シパンは犠牲者でもあります。彼は大学都市で自由を謳歌している学生たちに惹かれてはいますが、彼らを誘惑する気はありません。
筒井
同じような立場にある制服を着た人物の役割が、二つの作品のなかで真逆だということが面白さに繋がっていると思います。
ブラック
そうですね。この二部作は何度か別々に上映したこともあるのですが、やはりそれぞれを分けて観せるよりも、一緒に観せたほうが面白味が高まるのではないでしょうか。それぞれ物語は異なりますが、二つの作品が互いに影響しあって、ともに観ることで相乗的な効果をもたらすと思います。第一部を観た観客は、登場する若者たちとともに夏の長い一日を楽しみます。そして第二部の最後には、はじめにあった軽さや無頓着な気楽さはすべて失われ、夏の終わりを感じることになるのです。
筒井
ヴァカンス気分からある種の悲痛さまで、一本の作品のなかに広がりがあります。やはりこれは二部作であることが大きく影響していると思います。続けて観ると3倍面白い(笑)。
ブラック
これは後になって気がついたことですが、この二作品はともに共鳴しているところがあります。例えば、第一部は何もない画面から始まり、第二部の最後ではハンネが大学都市から去っていなくなるショットで終わっている。その一方で、第一部はミレナとリュシーの二人が電車のなかで疲れて眠っているシーンで終わり、第二部はハンネが驚いて目覚めるシーンから始まっている。互いにシンメトリーを成しているのですが、撮影中にこのように見せようとは考えていませんでした。私の意図とは無関係のまったくの偶然です。
筒井
それはすごいですね。第一部のファーストカットはリュシーが階段を下りてきて、壁を蹴飛ばし、激しいアクションをする。第二部の冒頭は関係があったのかどうかは分からないけれども、ハンネとアンドレアが一緒に寝ている。こちらはとても静かに始まります。それぞれ対照的ですが、ともにこの映画でやりたいことをワンショット目に凝縮させているという印象を受けます。
ブラック
そのようにおっしゃっていただけたことは大変うれしく思います。『女っ気なし』(11)と『やさしい人』(13)の撮影監督であるトム・アラリも「第二部の冒頭は君の映画のなかで一番良いシーンだ」と言ってくれました。逆に第一部の冒頭は苦労を重ねて何度も撮影したとても難しいシーンです。ブティックの裏口という設定ですが、実際にはフランス国立高等演劇学校のなかで撮影を行いました。一番最初に撮影したシーンでしたので、まだ女優たちが映画のトーンに慣れていなかった。物語のなかで象徴的なシーンではありますが、個人的にはあまり好きなシーンではありません。それに対して、第二部の冒頭は大好きなシーンです。あのような状況下で気づまりな感じがすると同時に官能的でもあって、バーレスク的な笑いも誘う。それらすべての要素が含まれているからです。
ジャン・ルノワールのエッセンス
筒井
第一部でミレナとジャンが舟遊びへ行った後、リュシーがひとり草原へやってきます。そこでフェンシングをしている男性テオと出会うのですが、このフェンシングという発想はどこから出てきたのでしょうか。
ブラック
今回は時間的に限られたなかでシナリオを書かなければならなかったため、アイデアを得るために俳優たちにさまざまな質問をしました。人生のことや学校が終わってから何をしているのかといった趣味の話などです。そこから、例えば第二部で消防士を演じたシパンはダンスが好きだということを知りました。第一部のテオに関しては、私も映画のなかで彼に何をしてもらえばいいのか最初は分かりませんでしたが、質問をしていくうちに彼が昔フェンシングの大会に出場していたと話してくれたのです。そこで、彼にはまるで奇跡のように現れる騎士のような人物を演じてもらうのが良いのではないかと考えました。そこで騎士的なイメージのテオとは対照的に、監視人役のジャンには下心があり、直接的な行動をとる人物を演じてもらったのです。
筒井
なぜフェンシングの質問をしたのかというと、まずブラック監督の映画はさまざまな形でスポーツと関係していることが理由のひとつです。もうひとつの理由は、ルノワールの『ピクニック』(36)との関連です。私はブラック監督ほどジャン・ルノワールからエッセンスを吸収している映画作家はいないと思っています。ミレナとリュシーがレジャーセンターの小島に着いて森のなかを歩いていく。カット割りも含め、これは明らかにルノワールの『ピクニック』ですよね。前作の『やさしい人』でも、マクシム(ヴァンサン・マケーニュ)がメロディ(ソレーヌ・リゴ)を連れ去った湖のシーンで同じように『ピクニック』を思わせるものがあり、今回はその続きのようにも見えました。ですから、ミレナとジャンの二人が森のなかの秘密の場所へと移動し、リュシーが森を抜けて草原へと出てくるに至って、これはどう考えても笛を吹いてジュリエットと踊る「ロミオ」(それぞれ『ピクニック』の登場人物である母親ジュリエットとロドルフ)が出てくるに違いないと思っていたところに、フェンシングをしているテオが現れたので「やられた」と意表を突かれたわけです(笑)。
ブラック
滅相もありません。私はルノワールを先生と慕う未熟な若い生徒のひとりにすぎません(笑)。今回の映画のなかでは、テオよりもジャンのほうがそのようなコミカルな役割を担っていますね。
筒井
フェンシングを教えているときにはテオがリュシーを背後から抱え込みながら歩調を合わせて歩きますから、ダンスに見えないこともないのですが(笑)。
ブラック
そうですね。確かにテオがリュシーを優しく包み込むように教えている姿はダンスを踊っているようにも見えますし、誘惑しているようにも見えます。あのシーンはとても良かったと思います。私自身、俳優たちには彼らが精通していることを演じさせるのが好きなのです。ですから、あのシーンでテオが語っていた言葉は彼にぴったりの台詞でしたし、まさに語るべきところで語っていたと思います。
筒井
中世の騎士のような存在が現れることで、第二部の戦車が走行し戦闘機が飛び交う革命記念日のリアルなシーンとも対照性を持ったのではないでしょうか。
ブラック
その点は考えていませんでしたが、確かにそうですね。
筒井
泳いだり、川遊びをする人たちが訪れるレジャーセンターという場所で、それとはまったくかけ離れて必然性のないフェンシングをしている男性が登場するのは、シュルレアリスムのようで、どこか別の世界からきた人物にも見えます。
ブラック
おっしゃるように、非現実的で夢のようなシーンだったと思います。また同時に、あの場面は私が今回の映画のなかで最も美しいと思うシーンでもあります。あのときのリュシーがテオに投げかける眼差しはとても感動的です。あの瞬間に、リュシーは自分が女優になったと感じたのではないでしょうか。自らの感情をその状況に任せてみせること。あのシーンこそ、俳優業とはこのようなことなのだと、彼女が身をもって理解した瞬間だったと思います。私自身も感動しましたし、彼女もまたそのような経験をしたのは初めてだと言っていました。
筒井
あのシーンでのリュシーの表情も感動的ですし、第二部のキッチンで消防士シパンと二人きりになったサロメが彼に投げかける微笑みも素晴らしいと思います。
ブラック
はい。私も素晴らしいと思います。
筒井
言い換えるなら、それまで脇役だと思っていた人物が不意に映画の前面に立ち現れてくる瞬間でもあります。
ブラック
確かに、第二部では主役がそれぞれ循環していくような面白さがありますね。アンドレア、ハンネ、サロメ、シパンの各々がつかの間主人公になる。『女っ気なし』にも少し似たようなところがありますが、このような視点は私の映画には今までなかったことだと思います。
予測のできない不確かさ
筒井
再び私の妄想に戻れば、草原でのフェンシングがダンスではなかったことで、しかし、この映画には必ずダンスのシーンが出てくるはずだという新たな妄想がふくらむわけです。その上で第二部のクライマックスでダンスが始まった瞬間の感激がいかばかりだったかということをご想像なさってください(笑)。しかも、あのシーンにはギターを弾いているアンドレアの口笛もあります。このような一連のシーンに関して、ルノワールを意識せずに演出されていたということはすごいことだと思います。
ブラック
ジャン・ルノワールは私も大好きな映画監督ですが、彼の作品すべてを観ているわけではありません。『ピクニック』は何度も観ていますし、もちろん『ゲームの規則』(39)や『大いなる幻影』(37)、『トニ』(34)や『獣人』(38)も数回は観ています。今回、第二部の最後で登場人物たちがキッチンテーブルを囲んで食事をするシーンがありますが、消防士として働いているシパンをはじめ、あそこに集まっている4人はそれぞれ出自や国籍、社会階層も異なっています。そのような人物たちが7月14日の革命記念日にひとつのテーブルを囲んでいるということはとても象徴的だと思いますし、ある意味でルノワールの『大いなる幻影』にも通じるものがあるのではないでしょうか。
筒井
あのシーンは本当に素晴らしいですね。これは『7月の物語』すべてに通じることですが、観客が予想した方角とは絶対に違う方向へとずれていく。観客に先を読ませない展開であることもとても面白いです。特に第二部でダンスが始まったときに、この先がどうなるのかさっぱり分からない。それはノルウェーからの留学生であるハンネのキャラクターとも関わっています。彼女は最初にノルウェーにいる彼氏と電話をしているにもかかわらず、目の前に現れる男たちを無意識か意識的にか誘惑していく。ルノワールの映画ではひとりの女性に対して3人の男性が出てくるわけですが、そのあたりも非常にルノワール的だと感じました。
ブラック
予測できない方向へ進んでいくとおっしゃっていただけたことは大変うれしく思います。『女っ気なし』が顕著だったように、私はどちらへ転ぶか分からない人間の感情的な不確かさをとても意識しています。『7月の物語』に関しては、それがよりラディカルな形で現れているのではないでしょうか。なぜなら、今回ははじめから何も決まってはおらず、私自身も本当にどちらへ転ぶのか分からなかったのです。撮影を始めた時点で完璧なシナリオはなく、ただ物語の骨子だけが決まっていて、台詞もまったく書かれてはいませんでした。逆にいえば、登場人物はみなこちらの好きなように変更できる自由がありましたので、撮影をしながら物語を先へと押し進めていく過程でつくりあげていったのです。
筒井
最初、イタリア人のアンドレアはコメディリリーフ的な人物だと思っていると、パーティのシーンの後になると適切な判断のできるとても魅力的な男性に見えてくるという逆転現象があります。そして、あの消防士シパンの朴訥とした表情も素晴らしいですね。
ブラック
今回の映画で、本当の意味で役づくりをしたのはシパンだけだといっていいでしょう。それに対して、演劇学校の学生であるほかの俳優たちは本来の自分に近い役を演じています。シパンだけが社会的なコードである制服を着て、消防士というひとつの仕事に従事している。ですから、私は初めから彼に対して姿勢や話し方や言葉遣いなどを指示し、学生に対しては社会人としてやや控えめに話しかけるよう指導しました。最初、彼自身はそのような演技指導に対してあまり快く思っていませんでした。しかし、後に完成した映画を観たときに、はじめてその人物造形の重要性を理解して、喜んでいました。実は以前にも『女っ気なし』のヴァンサン・マケーニュが同じような経験をしています。彼もまた、もう少し演技を抑えてほしいという私の演出に対してフラストレーションを感じていました。しかし、最終的に出来上がった映画を観て、ああ、こういうことだったのかと納得していました。このような経験は彼の俳優としての力にもなっていると思います。
ユートピア的な共同体
筒井
第一部がフランスの典型的な男女の恋愛遊戯。第二部も多国籍な人物たちが物語を織りなすなかで、最初はそのような遊戯的な雰囲気を醸しつつも、シパンという存在がいることでその欲望の駆け引きが挫折してしまう。そこがとても面白い構造だと思いました。
ブラック
第一部は恋愛というよりも友情に関する物語ではないでしょうか。もちろん、そのなかにも欲望はありますが、それは性的な欲望というより友人になりたいという欲望です。ミレナとリュシーは最初は単なる会社の同僚であり、お互いのファーストネームも知らない間柄です。二人の関係はまず一方的な支配者=強者と被支配者=弱者の関係として現れますが、さまざまな出来事を経て、その関係は変化し、最後には逆転するようにしてお互いに等しい関係になります。『やさしい人』もまた、男女の恋愛というよりは父子関係のほうがより重要である点で、これと似た構図だといえるでしょう。息子のヴァンサン・マケーニュがさまざまな経験をしていくなかで、最終的には父親であるベルナール・メネズと親密な関係を結んでいきます。
筒井
第一部の最後で、ミレナとリュシーの二人は電車のなかでお互いに頭を寄せ合って眠っています。まさにその姿から二人の友情が伝わってきますね。それとは対照的に、第二部では登場人物全員がばらばらになってしまい、最後にハンナがひとりで大学都市を立ち去っていく。先ほどブラック監督がおっしゃったように、そこではキッチンテーブルに集った出自や国籍の異なる男女によって形成されたひとつの共同体が崩壊する様を見せている。非常にスケールの大きなテーマを小さな物語のなかでさりげなく語っていると思います。
ブラック
いまおっしゃった共同体というテーマに関していえば、ジャック・ロジエの『メーヌ・オセアン』(85)でも検札係や漁師、弁護士やダンサーなど、さまざまな職種や社会階層の人々がつかの間集ってある種のユートピア的な共同体を形成し、最後には解散していきます。たとえ一瞬であれ、そのような夢幻的な瞬間を体験することは素晴らしいと思います。また、いまお話をうかがっていて思ったのですが、第二部もまた男女の友情の物語だといえるのではないでしょうか。映画の冒頭で、アンドレアはハンネのベッドの側で寝ています。二人のあいだには何もありませんが、ハンネはアンドレアが寂しそうにしているので、自分の部屋で一緒に寝てもいいと彼を許可した。やがて二人の仲は険悪になりますが、それでも最後にハンネは再びアンドレアを許しています。許しによって、男女のあいだに再び友情が回復するのです。
筒井
ハンネが旅立つ朝にアンドレアのところへ別れを告げにくることで救われますよね。
幸せな偶然と不幸な偶然
羽田野直子
ブラック監督の映画は人物造形がとても生々しく、まさにいま目の前に生きているようにして作品が出来上がっていることにいつも驚かされます。今回の『7月の物語』も、第一部はミレナが積極性のある女性で、リュシーは少し奥手な女性として描かれている。第二部のサロメは量子物理学を熱心に学んでいて、男性なんて関係ないという態度をとっていながら、どこかで出会いの機会を待っている。一方で、ハンネは例えばホン・サンス映画のキム・ミニのように、そこにいるだけで周りの人々の気を引いてしまう存在です。物語における女性の配置の仕方も、観ていてハラハラするような、ああ、こういう人いるよねというふうに思わせる。私もルノワールの映画は大好きなので関連性は感じますが、現在のフランスのありのままを見ているようなところも魅力的だと思います。
ブラック
ホン・サンスは私も好きな映画監督のひとりです。第二部のハンネには彼の映画に出てくるような女性像を考えました。特に『へウォンの恋愛日記』(13)を参照しています。実際のハンネはとても真面目な学生なので、私は当初、男性に付きまとわれる役柄であることに対して、彼女が受動的な犠牲者になるのではないかと心配していました。彼女自身は自ら積極的に男性を誘惑するようなタイプの女性ではまったくなかったのです。しかも、映画の冒頭は側で寝ている男性がマスターベーションをしているところに居合わせるシーンです。このようなシーンに対して、私自身、彼女に対して気が引けて悪い気がしていました。ただ、彼女は私が思っていた以上に複雑な多面性を持っていたのです。それはお酒を飲むと自分自身の行動を制御できなくなり、知らずのうちに男性を誘惑してしまうという側面です。そのような点も、どこかホン・サンスの映画に似ている気がします(笑)。
筒井
彼女がワインを飲むシーンでは本当に飲んでいたのですか?
ブラック
ええ、実際に飲んだのですが、実はもっと飲んだのはあのシーンを撮影する前日です。前日は7月14日で本当の革命記念日だったのですが、彼女は酩酊し、撮影当日は二日酔いの状態でした。彼女があのシーンを演じることができたのは、前日に酒に酔ったその状態を身体的に記憶していたからだと思います。そうでなければ、お酒を飲んでいない人が酔っ払っている状態を演じるのは大変難しいものです。そう考えると、今回の『7月の物語』は偶然の賜物というか、幸せな偶然が大きな力になっています。しかしながら、その一方ではニースのテロ事件という不幸な偶然というのもあって、皆が衝撃を受けました。逆説的ではありますが、その偶然が結果として映画にも力を与えてくれていると思います。テロが起こったとき、映画製作を一時中断することも考えました。本当にこの映画を撮り続ける価値があるのかどうか、迷いが生じたこともあります。このような事件が起こったことで、それまで続いていた男女の恋愛劇のすべてがかき消される。実際のところ、私たちが撮影している映画はテロに較べればとるに足らないものです。ですから、物語に抑揚を与える意味でも、最終的な編集の段階に至って、私はテロ事件を映画のなかに組み込むことが重要であると判断したのです。
筒井
第二部の最後に流れるニュースの音声が夜景に重ねられることで、観客としてもフィクションの世界だけに浸ってはいられなくなります。つまり、この映画がフィクションとして自己完結して、観客としてその閉じた世界を楽しむだけでは済まなくなっている。最後に、フィクションのなかにドキュメントを取り込むことについて、ブラック監督の考えを聞かせていただけますか。
ブラック
この短時間で答えるには難しい質問ですね。今回の二部作はフランス国立高等演劇学校の若い学生たちとともにつくりあげましたが、これまでの映画よりもさらに現実的なものを映画のなかに入れる必要性を感じていました。例えば海水浴のシーンや郊外電車に乗っているシーン、革命記念日のパレードのなかをハンネが歩くシーンなどです。もちろんテロ事件は予想外でしたので、編集の段階でパリの環状道路のシーンなど数カットを追加で撮影しました。『女っ気なし』や『やさしい人』、そして最新作である『宝島』(18)もそうですが、私はドキュメンタリーであってもフィクションにまたがる部分がないと面白く感じませんし、フィクションであっても、それが現実に根ざしているときにのみ面白いと感じます。ですから、私の映画では俳優と俳優ではない人が混ざりあって演技をしますし、場所も映画のためだけにあるような所は使わずに、映画のロケーションにならないような場所を舞台にして撮影をしているのです。
2019年6月8日、渋谷ユーロスペースにて
(聞き手=筒井武文、羽田野直子)
(文・写真・構成=野本幸孝)
ギヨーム・ブラック Guillaume Brac
1977年パリ生まれ。配給や製作の研修生として映画にかかわった後、FEMIS(フランス国立映画学校)に入学。専攻は監督科ではなく製作科だが、在学中に短篇を監督している。2008年、僅かな資金、少人数で映画を撮るため、友人と製作会社「アネ・ゼロ」(Année Zéro)を設立する。この会社で『遭難者』『女っ気なし』を製作。2013年、長篇第一作『やさしい人』が、第66回ロカルノ国際映画祭コンペティション部門に出品される。2016年、短篇ドキュメンタリー『勇者たちの休息』。2017年、『7月の物語』を第70回ロカルノ国際映画祭(アウト・オブ・コンペティション部門)へ出品。第一部「日曜日の友だち」はジャン・ヴィゴ賞を受賞(短篇部門)。2017年夏、長篇ドキュメンタリー『L’Île au trésor』(宝島)を撮影。この作品は『7月の物語』第一部「日曜日の友だち」と同じ場所で撮影され、フランスでは『7月の物語』と同じ2018年7月に公開された。
フィルモグラフィー
2009年:短篇『遭難者』Le Naufragé
2011年:中篇『女っ気なし』Un monde sans femmes
2013年:長篇第一作『やさしい人』Tonnerre
2016年:『勇者たちの休息』Le Repos des brave 短篇ドキュメンタリー
2017年:『7月の物語』Contes de juillet
2018年:『L’ Île au trésor』(宝島)長篇ドキュメンタリー
筒井武文(つつい・たけふみ)
1957年生まれ。東京造形大学在学中に自主制作映画『レディメイド』(82)を発表。卒業後にサイレント映画『ゆめこの大冒険』(86)で長編監督デビュー。映画評論やテレビの演出など活動は多岐にわたる。現在、東京藝術大学大学院映像研究科教授のほか、映画美学校で講師を務め、後進の育成にも尽力。近作に『孤独な惑星』(11)、『自由なファンシィ』(14)、日本の前衛映画の巨匠・松本俊夫の軌跡を辿るドキュメンタリー『映像の発見=松本俊夫の時代』(15)がある。最新作は日本・イラン合作映画『ホテル ニュームーン』〈邦題は未定〉(19)。また過去30年間の映画批評をまとめた映画論集を出版準備中(ギヨーム・ブラック論も収録予定)。
ストーリー
7月の物語
パリと郊外。5人の若い女と5人の若い男。二つの物語。ある夏の一日。
第一部「日曜日の友だち」
7月の晴れた日曜日、会社の同僚ミレナとリュシーは、女2人でパリ郊外セルジー=ポントワーズのレジャーセンターへ遊びにいく。そこで偶然、ジャンという青年と出会い、芽生え始めた2人の友情に亀裂が入る。
第二部「ハンネと革命記念日」
7月14日、革命記念日で盛り上がるパリ。国際大学都市に住む女子留学生のハンネは、明日の帰国を前に、パリ最後の夜を楽しもうとするが……。
構想・脚本・演出:ギヨーム・ブラック
出演:ミレナ・クセルゴ、リュシー・グランスタン(以上第一部)、ハンネ・マティセン・ハガ、アンドレア・ロマノ(以上第二部)
2017年 / フランス / フランス語 / カラー / 71分 / 1.33 : 1 / 5.1ch / DCP /
原題:Contes de juillet / 字幕翻訳:高部義之 / 配給:エタンチェ
© bathysphere – CNSAD 2018
『勇者たちの休息』(『7月の物語と併映)
スイスとフランスに跨るレマン湖畔からアルプス山脈を抜け、地中海のニースに至る自転車観光ルート「大アルプス・ルート」。約720キロからなるそのルートを縦断しようと毎年6月末、約60人もの自転車愛好家たちが集まってくる。
ギヨーム・ブラックは、すでに仕事をリタイアした自転車愛好家たちにカメラを向ける。なぜ寒さや疲れと闘い走ろうとするのか? 家に戻ってから何ができるのか? どうやったら孤独や退屈を逃れられるのか? ギヨーム・ブラックのやさしい眼差しのなかで、彼らは心情を打ち明ける。その告白をとおして、仕事と世界との私たちの関係が見えてくる。
監督:ギヨーム・ブラック
撮影:マルタン・リ
2016年 / フランス / フランス語 / カラー / 38分 / 1.85 : 1 / 5.1ch / DCP /
原題:Le Repos des braves / 字幕翻訳:高部義之 / 配給:エタンチェ
© bathysphere productions – 2016