映画をつくるということは、言うまでもなく、すでに自分を映画作家とみなすことだ。芸術家とみなすことだ。ということは、自分のものの見かたを「真実」の名において他人に強要しようとすることだ。(略)
誰もが映画監督になれる。映画をつくろうと思って、つくれば、形のうえではもういっぱしの映画監督なのである。そこまでは誰にでもできることなのである。(略)
……おぼつかなくも口ごもりつつ一所懸命に語って表現した《わたしの》真実が少しでも《あなたの》真実となりえたら、わたしはふたたびまた映画をつくる勇気を持ち、気おくれせずに第二作にとりかかるだろう。(フランソワ・トリュフォー「わが処女作」〈山田宏一、蓮實重彥著『トリュフォー最後のインタビュー』所収〉より)
今年の10月から12月にかけて、東京と横浜の会場で行われた「交差する視点 – 日仏インディペンデント映画特集」。デジタル配信が当たり前となる一方で、映画館という「場」のイベント性を重視した上映形態が活況を呈する昨今、作り手にとっても受け手の観客にとっても、「映画」という言葉は限りなく曖昧模糊としたものになっている。ならば、殊更そこに「インディペンデント」という形容詞を付すことは、どのような意味を持ちうるのだろうか。12月8日に東京藝術大学(横浜・馬車道校舎)で行われた清原惟監督と諏訪敦彦監督によるアフタートークは、「映画」や「インディペンデント」という言葉の持つ意味を改めて問い直し、その地平に確かな光を投げかけてくれた。
製作の舞台裏や映画づくりの姿勢など、多岐にわたる話題のなかでとりわけ印象に残ったのは、映画と現実の関係性についての言葉だ。映画の作り手たちそれぞれの「真実」を提示し、それをいかにして現実=他者へと繋げることができるのか。トークでも言及されているように、かつて「ヌーヴェル・ヴァーグ」という言葉が担っていた映画の可能性がいまなお有効だとするなら、それは自己完結している画面の向こう側に他者や現実を観ようとする意志がある限りにおいてだろう。そして、そのためには作り手と観客の双方が「映画よりも大きな世界」への信頼(理解ではなく)を共有しなければならない。
のどかな田園風景の向かいにはグロテスクな原発が大地に根を張り、アルテミスの発した稲光=魔法もまた原発に要因があると報道されてしまうように、『アルテミス、移り気なこころ』が持っている宝石のような輝きが照らし出すのは、私たちの生きているこの21世紀という灰色の時代に他ならない。そして『わたしたちの家』の波を忘れ、静かな海しか覚えていないと語るセリの母・桐子や、世界に隠された「汚染」と戦う透子も、紛れもなく「3.11」以降の暗澹たる日本の現実を生きている。
映画の草創期、人々は予期せずして連続したフィルムに寄せては返す波の律動が写しとられていることに驚嘆した。それから半世紀以上の後に訪れた「新たな波」は、揺るぎないひとつの「映画史」という枠組みを規定し、さらにその半世紀後、私たちは人々と築き上げた歴史を飲み込む圧倒的な波の猛威を目の当たりにして言葉を失う。だからこそ、この先、新たな波が再び映画の地平を切り拓くとすれば、そこには映画の「外側」にあって、予測もコントロールも不可能な世界への畏怖と信がなければならないのだ。その意味において、今回上映されたユベール・ヴィエルと清原惟の監督作品には、方途は違えど映画を現実へとぶつけ、開いていこうとする清新な意志に溢れていたように思う。
今回のトークにあたって、映画の驚きや喜びを平易に語っていただいた諏訪敦彦監督と清原惟監督、司会進行を務められたアンスティチュ・フランセ日本映画プログラム主任の坂本安美さん、そして上映を企画され、トークの採録を快諾くださったアンスティチュ・フランセ横浜の吉田紗和子さんに心より感謝申し上げます。
「理解できること」と「信じられること」の乖離
坂本安美(以下、坂本):本日は2本上映をさせていただきました。まずフランスからユベール・ヴィエル監督の『アルテミス、移り気なこころ』(2013)。そして清原惟監督の『わたしたちの家』(2017)です。いまご覧いただいたばかりですし、まだ「わたしたちの家」の中にいるような気持ちですので、まずは清原監督の作品からお話を伺いたいと思います。
私はぴあフィルムフェスティバルで初めて拝見し、今回久しぶりに再見したのですが、入り口がたくさんある大人のおもちゃ箱を見ているような映画だと思いました。またとても楽しめたので、今日はいろいろとお聞きしたいと思います。諏訪監督はこれで何度ご覧になられたのですか。
諏訪敦彦(以下、諏訪):何回観たかなぁ。
清原惟(以下、清原):観た回数でいうと分からないですよね。大学院での講評会なども含めて、おそらく5回ぐらい観てくださっていると思います。
諏訪:でも上映前にお話があったように、1番最初にみんなでここ(東京藝術大学 横浜・馬車道校舎)で観たわけですよね。それで今日改めてここで拝見して、やはりかなり違った印象を持ちました。感動的だった。いまも大学院映像研究科の13期生が修了作品を撮影していますが、完成するまでにはさまざまなプロダクションの事情や困難があります。清原さんもいろいろ苦労したと思いますが、それは映画の外側で起きていたことであって、撮影した行為というのは実際に起きた出来事です。でもそれはやがて消えてゆく。いまはもう無いわけです。映画だけがそのまま残っていく。そうすると、徐々に映画というものに純粋に対峙できるようになっていくと思います。
坂本:『わたしたちの家』のあの家の中に住んでいる人たちによって、当の家そのものもどんどん息づいていく。観る方が作品を旅して戻ってくると、その作品自体も観た人とともに変わっていくようなところがあります。
諏訪:実はロケハンのときに家をどれにするかという話がありました。最初に僕が覚えているのは、3つぐらいのまったく独立した脚本をひとつの映画として撮るというコンセプトがありましたよね。そのときに清原さんと「ポリフォニー(多声楽)みたいだね」という話をしたことを覚えています。それぞれが自律したメロディーを持っているけれども、いわゆるハーモニーではなくて、全然違う旋律を持ったもの同士が一緒に奏でられる。確かにそれは面白いけれども、「どうやってやるの? 」と思っていたら、それがひとつの家を舞台にまったく別々の物語が進行するという形になった。いわばコンセプトが非常に際立った映画。
面白いと思うのは、それぞれの話がまったく独立した視点で撮られているために、その二つの関係を理解することができない点です。普通であれば、「セリの話のこの瞬間にこちらの話にいこう」という形で、編集などによって何らかの関係性を誰かが支配しコントロールしています。今日観た『アルテミス、移り気なこころ』(以下、『アルテミス』)もそうですが、映画を観て理解できることは当然あるわけですが、「理解できること」と「信じていること」は乖離することがある。『アルテミス』などを観ていると、まるで子どもが作った映画みたいですよね。ああいうことを子どもたちは実際にやってしまうんです。光線がビーッと出てきたり(笑)。これは私が講師をしている「こども映画教室」で学んだことですが、小学生が映画をつくるときには、ヒーローや忍者や刑事だったり、自分が好きな映画をすぐにやりたがる。小学生の子どもたちはそれでOKですが、中学生でも刑事モノをやっている子がいる。それを見たときに、映画というものをもう少し知ってほしいと思ったんです。
そこで、中学生たちに「じゃあ君、刑事をやっているところを撮影してみよう」「では、いまから警視庁の記者会見をやります」ということにして、即興でやらせてみる。そうすると、その子は刑事が好きだから「この事件はなんとか……」と得意気に演じるわけです。それを撮影して皆で観たときに、「この子が刑事に見える人はいる?」と聞くと、誰も手を挙げない(笑)。それはそうですよ。「どうして刑事に見えないの?」と聞くと、「服装が違う」とか「演技が違う」という答えが返ってくる。そこで、今度は女の子に「君は被害者の遺族をやってください」と頼むんです。その子も芝居が好きだから、「私のお父さんはこうして……」と一生懸命に演じてみせる。同じように撮影したものを見せて、皆に被害者の家族に見えたか聞くと、今度は「見える見える」という声が返ってくる。
なぜ刑事には見えずに、被害者の遺族には見えたのか。当然ですよね。子どもの刑事はいませんから(笑)。つまり、映画はそれが丸ごと映ってしまう。映画は子どもが刑事を演じていることしか撮れない。そのときに僕が気がついたのは、みんな映画を観て刑事だというのは理解できるけれど、信じられないわけです。映画では普通、「信じること」と「理解すること」は一体になっているわけです。『アルテミス』で光線がバーっと出る。何らかの魔法でこいつらをやっつけたのだということを理解はできます。理解はできるけれど、僕たちはそれを信じてはいない。別のものを信じている。では一体何を信じているのか。清原さんの映画のすべては信じられるようにできていると思うんです。
例えば、あのクリスマスツリーを地面に置いて、地面に電源を差したら電飾がつくという場面は、「あ、電気がついたな」とは思うけれど、信じられない。でも、本当に信じられないかというと、そうでもない。そこが清原さんの面白いところであり、特徴なのだと思います。そういう意味で、それぞれの物語を一瞬にして信じてしまうところがある。物語の中に没入することを自分に許してしまうともいえます。普通はそれが壊れてしまう可能性があるのだけれど、清原さんの作品はまったく壊れない。でも、この2つの物語をどういうふうに理解すれば良いのかということは分からないのです。理解できない。理解はできないけれども、そこに存在することを信じることはできる。それぞれの登場人物は世界が壊れはじめている。自分がどこに存在しているのか分からないということが進行しているのだけれど、どんなことがあっても、その人たちはそこにいていいんだということを「家」が肯定している。何があっても、どんな人が来ても、ここにいていいんだよという場所をつくりだしていく温かさのようなものを今日は感じました。
リヴェット的な世界と記憶というテーマ
坂本:諏訪監督はポリフォニックな脚本だとおっしゃっていましたが、清原監督は最初どのようにお考えだったのですか。
清原:ひとつの家のなかで2つの物語が進行するというアイデアは最初はありませんでした。一緒に書いている脚本家の方と、それぞれの物語を違う頭で書くというか、ひとつの映画として書くというより、ちょっとした短篇映画のようなものをまず3つ一緒に書いていくというような作業をしていました。その上で、その3つの作品をどのようにひとつの映画にするかを考えましたが、なかなかその糸口を見つけることができませんでした。観ている人の中でひとつの塊として見えるような作品に至るにはどうすればいいかを考えていたときに、場所が同じであれば、まったく違う物語であっても、観ている人が自然にそれぞれの捉え方で各々の物語の結びつきを見つけ出してくれるのではないかと思い、「家」というアイデアに至りました。
今日、諏訪監督がおっしゃってくださったことは私にとっても感動的で、じんわりきてしまいました。クリスマスツリーの場面は直感的に出てきたアイデアですが、私自身、性格というか生きていく上での考え方のようなものだと思うのですが、物事を何でも受け入れてしまうようなところがあるんです。見逃しているわけではないのですが、少し変なことが起きたとしてもとしても、それを「変なこと」として捉えられないことがあります。『アルテミス』の中で突然人間が鹿になってしまったときに、「生誕の奇跡と較べれば、鹿になるぐらいは不思議でもない」という台詞がありましたが、あの感じがよく分かります。私も生きていて「そういうことは起きるんじゃないか」と思ってしまうことが割と普通にある。だからクリスマスツリーの場面も、別に超常現象が起きるというふうに書いていたわけではありません。あのときのセリの気持ちや状況などを考えれば、あの場所だったらそういうことが起き得ると思い、自分にとっては自然なこととして書きました。
諏訪:自然に見えますよ。電気がつくんじゃないかと思います。
清原:それが観ている人に伝わるというのはすごくうれしいことではありますね。
諏訪:映画って大概のことが起きても、「そういうこともあるかもね」と思いませんか。
清原:そうですね。映画の中に入っているからそう見えるのでしょうか。
坂本:今回は日仏交流ということもあり、清原さんの作品を観ていて、どこかジャック・リヴェットの作品も思い出しました。リヴェットの作品も「家」がとても重要で、その中で音が聞こえたり、はっきりとは見えないけれど、何らかの存在が蠢いている気配がする。そしてどこか陰謀めいていたり、何といっても女性たちが素晴らしい。現在を生きている女性たちがいるという意味では、リヴェットのような作品を日本でも観られる日が来たんだなと思ってしまいます。やはりリヴェットはお好きなのでしょうか。
清原:好きですね。私が映画を好きになりはじめた高校生ぐらいのときに、最初に出会った映画監督がジャック・リヴェットでした。地元のツタヤで借りたリヴェットの作品にとても衝撃を受けて。それ以前は、シネコンで上映しているような映画しか観たことがなかったので、映画ってこういう側面もあるんだ、もっと違った映画があるんだということを発見しました。そのときからいまに至るまで大好きな映画監督です。
諏訪:そのときは何を観たんですか?
清原:最初に観たのは『セリーヌとジュリは舟でゆく』(1974)でした。あとは『北の橋』(1981)と『彼女たちの舞台』(1989)。ちょうどその3本がBOX化されてレンタルされていました。
諏訪:以前に東京藝大でリヴェットの『アウト・ワン 』(1971)の撮影監督を務めたピエール=ウィリアム・グレンさんを講師として招聘したときに、ちょうどこの教室で課題として2日間、12時間を超える本編を上映したのですが、最後まで脱落せずに観ていたのは清原さんひとりでしたよね。
清原:いや、2人でした(笑)。みんな途中で離脱してしまって。
諏訪:そのときはフランス版の日本語字幕のない素材でしたからね。
清原:その後、アンスティチュ・フランセ東京で上映したときにも観に行きました。
諏訪:『わたしたちの家』の透子さんはちょっとリヴェット的な人物ですよね。リヴェットの映画に出てきそうな雰囲気があります。いわゆる「非職業的職業俳優」と呼ばれている部類に属する人。何かとんでもない陰謀のようなものが進行していて、世界の裏側にはヤバいことがあるんだけれども、それが何かは分からない「謎」として描かれている。そういうものはまさにリヴェット的な世界だったと思います。それと同時に、清原さんの作品の中には「記憶」というテーマもありますよね。
清原:はい。もともと3つの物語を書いていたときから記憶というテーマはありました。記憶を失ってしまうことや、いまはもういないけれど、誰かがそこにいたという記憶が、いまいる人たちに影響を与え続けていること。それはセリちゃんの話ですけど。
諏訪:そうですね。だから各エピソードに記憶という問題があります。セリちゃんにとって、それはこの家に染みついたお父さんの記憶。記憶を失っているさなさんにとっては、記憶そのものをつくりだしていかなければいけない。不思議だなと思うのは、片方のエピソードで見た同じ場所で、次に別のことが起きているところです。例えば、流しで水を飲んではいけないというさなと透子とのやりとりを観たあとで、今度はセリのエピソードの中で、その同じ台所で何かが起きていることを観る。そうすると、そのときに僕たち観客はもう一方のエピソードの記憶を持っているんだけれど、その記憶はいったい何なのかが分からない。どちらかの記憶でも、誰の記憶でもない、私の中に起こる記憶。これは一体何だろうと思います。これは名付けようがないものなのだと、今日改めて思いました。これも非常に面白い感覚ですね。
ねじれる時間、虚像と実像
坂本:前回観たときにも思いましたが、あの家に行きたくなりますよね。まずシャッターを下から上にガラガラと開けると、半透明の蛇腹式の扉を横に開けなくてはいけない。あの2つのドアの開け閉めをやりたくなります。ああいうタイプのドアってなかなかないですよね。どのような種類のドアで1日を始め、終わるかで、人間性って変わるんじゃないでしょうか。よく「空間がひとをつくる」といいますが、あのような空間で生活をしているからこそ、彼らの関係性も変わっていく。あの空間は絶妙ですね。どのように見つけて、作りこんだのでしょうか。
清原:特に撮影のためにリノベートなどはしていません。いまでもあのままの姿であるのですが、元々は私の知り合いが住んでいて、イベントやギャラリーなど多目的な場として使っているところでした。人が住んでいるので、迷惑にならないように撮影をしなければならないのが大変ではありました。でも、そこに住んでいる人がいるからこそ、私も何度か撮影前にそこに行き、撮影場所の横須賀の街を案内してもらえたりもしました。東京の近郊でありながら、どこだか分からないような、少し寂れた、時代に取り残されたような感じがまだ残っていて、不思議な街だという印象がありました。だから、そういう家や街からインスピレーションを受けて脚本もどんどん変えていきました。
坂本:いわゆるデジャヴなど、普通に生きていても「時間がねじれる」瞬間があったりしますが、この映画ではそういう感覚を映画の装置として見せてくれている気がします。私はまだ幽霊に出会えたことはないんですが、私にとってはそういう時間のねじれる感覚が幽霊的な感覚なんです。諏訪監督の最新作である『ライオンは今夜死ぬ』(2018)も家があって、その中の記憶というのが大きなテーマにあったと思います。いまここにいる人と、かつてそこにいた人とが「ねじり合う」=出会う。諏訪監督もその家に宿る時間や記憶というのは意識されていたのでしょうか。
諏訪:あの家も人が住んでいたんです。清原さんの作品に出てくるあの印象的なドアも実際にあのままだったんですよね。映画のためにああいう作りになっているのではない。そこが面白いですよね。映画だけの記憶ではない記憶というか。
坂本:いままで幾人の、どのような人たちがこのドアを開けてきたのかなと思いますよね。
諏訪:僕の映画の家もほとんどあのままですね。その建物の持っている記憶を感じたからこそ、あの家に決めたというのがあります。それは僕たちのつくろうとしている物語ではない物語を持っている。完全な背景ではなくて、映画とは自律した何かを持っているというのがすごく面白かった。僕は今回初めて幽霊という存在を出しましたけれど、清原さんの映画はどちらが幽霊なのか分からないというか、どちらも幽霊であり実体でもあり得る。僕は鏡がとても好きなんです。鏡の面白いところは、現実だとこちら側が実像で鏡に写っているのが虚像という形で実像と虚像の2つに分かれます。でも、これをカメラで撮ったら、どちらも虚像だからどちらも嘘なんです。そうすると境がなくなるわけですよね。映画も同じように、生きている人も死んでる人も境がないのではないか。やはりそこが映画の面白いところだと感じます。そのように、どちらが本当でどちらが嘘か、あるいはどちらかにとってはどちらかが幽霊かもしれないという関係が、清原さんの映画では五分五分ですよね。しかもそれぞれがちゃんとした実体を持っている。けれども、存在していない幽霊のようでもある。そういうところが非常に面白いなと思います。
坂本:もしかしたら過去から未来を見ているのかもしれないし、現在から過去を見ているのかもしれない。フラッシュバックなどではなく、ふたつの世界が同等に存在しているという感覚はありますね。
清原:映画だけでなく、私自身にとっても時間がリニアに進んでいく感覚はないんです。直線的にいまがあって、その後ろに過去があり、前に未来があるというような感じはしません。先ほど坂本さんがおっしゃった「時間がねじれる」感覚というのは、まさにその通りだなと思いました。私の映画も観る方によっては、どちらかがどちらかの過去であったり、未来であったりというように見られる場合もあります。セリちゃんの成長した姿が、さな、ないしは透子であるのではないか。それはとても自然な見方だと思いますし、否定する気持ちはありません。そのように見えてもいいし、そのように見えていることと同時に存在していることとが両立できるような感じの時間感覚というのが、私にとってのこの映画に対する考えかなと思います。
自分の存在を受けとめてくれる映画
諏訪:そもそもなぜひとつの物語ではなくて、いくつかの世界が同時に存在する必要があったんだろう?
清原:映画って基本的にひとつの世界じゃないですか。フィクションをどれだけリアリティを持って見ている人に届けられるかというときに、ひとつの揺るぎない世界というのが重要視されている気がする。そういうことに対して、自分が映画を観ているときに何か違和感を感じていました。絶対にこれはフィクションだし、その外に私たちのこの現実世界があるのに、なぜか切り離されたひとつの世界が成立していることへの違和感というか。でも、そこへのめり込む面白さはありますし、それはそれで別にいいとは思うんですが、自分が映画をつくるとすれば、自分たちの生きているこちら側の世界のことも考えられる、地続きになっているようなもの、そこに対して想いを馳せられるような映画にしたかったんです。
諏訪:それをやるにはとても大変なこともあったと思います。普通の映画制作の習慣からいうと「これはどういうこと?」とか、「これはどういう意味があるの」という問題が起きてくる。
坂本:フランスの映画制作振興組織CNC(国立映画センター)などは助成金をもらうのは大変そうですね。
諏訪:いや、逆にCNCはいけると思いますよ。そこはとんがっていたほうが(笑)。日本だと難しいかもしれない。ただ大事なことは、そこで清原さんは闘って自分なりの映画づくりを模索していた。なぜ話が2つも3つもいるのかというのは、おそらく清原さんが考えていたコンセプトがある。考えたものはあるのだけれど、「考えたこと」と「存在していること」のあいだにはまた溝があるわけです。その溝をどうやって埋めていくのかというところに、映画を立ち上げていく場所があるのだと思います。今度の映画はこういうふうにつくろうとか、こういうことをやってみようというのは頭で考えることなんだけれど、どうしようもなく「こうなんだ」ということがある。理屈では分からないけれども「こうなんです」ということがあって、それは清原さん自身が存在していることと切り離せないことなんだと思います。それが今回の映画では非常にはっきりと出ている。その違和感を手放してしまうと、理解できるものにはなるけれど、自分の存在を受けとめてくれる映画ではなくなってしまうのではないかと思います。
ヌーヴェル・ヴァーグが映しだす「映画よりも大きいもの」
坂本:透子とさな、セリとお母さんという2組の女性たちがひとつの家という空間の中にいて一緒に歌うシーンなどもありますが、彼女たちのコンビネーションが奏でる雑音も含めた音や熱が画面に映っていて、女性2人のあいだにある愛情であったり、葛藤といったものがとてもよく見えてきて、女性として観ていても面白いと思いました。『アルテミス』もまったくタイプの違う女性2人が出会って旅をするロードムービーでしたが、清原監督はご覧になっていかがでしたか?
清原:とても楽しく拝見しました。ファンタジーの要素が強いんだろうなと思って観ていたら、意外といまの自分の世代にも通じる現代のリアルさというか、若者のリアルな雰囲気をより強く感じて、そこがすごく面白かったです。ルックやモチーフは古典的なものを感じさせて、私もいろいろな映画を思い出しましたが、そのような映画の質感にもかかわらず描かれているものはとてもリアルな感じがして、そのギャップが面白かったですね。人と人の距離感もとても現代的。くっついてはまた離れていく人たちというか、一過性のその場だけで起きることに終始していて、ベタベタせずにさっぱりしている。アルテミスとカーリイちゃんもさっぱりしているところがあります。アルテミスは可愛くてファンタジーっぽいところがあるのだけれど、いっぽうで引きこもりのオタクのような、家でひとりでいることに満足していそうな現代の日本にもあるリアルさを感じます。
諏訪:ジャック・ロジエの映画みたいですよね。僕は学生時代に自分がつくっていた自主映画を思い出しました。『はなされるGANG』(1984)という、タイトル通りギャングが出てくる映画です。先ほどのお話ではないですが、そんなものいるわけがない(笑)。信じられないものとして出てくるのですが、その信じられないギャングたちが東京の浅草などを歩いたりする。でも、そこに映っているものは何か。『アルテミス』も俳優たちがお芝居をしている横で監督自身が脚本を書いているメイキングのような場面がありましたが、僕の場合も撮影当日の朝に台詞を書いて俳優に渡していくような、書きながら撮っていくという同時進行の映画づくりをしていました。それによく似た感覚があります。「いままさに映画をつくっています」と観客に見せている描写があるように、この物語はつくられたものであるにもかかわらず、僕たちは観ているものを信じていないかというと、実は信じている。映画以上に世界を信じている。そこにいる人そのものや、そこに映っている世界を信じている。そこに映っている世界は映画よりももっと大きいんです。映画よりも大きいものがそこには映っている、そういう気がします。だから、たとえ光線を発しようが、僕たちはこの人たちのことを信じられる。映画が現実を牛耳らずに、世界そのものを肯定していく。『アルテミス』はヌーヴェル・ヴァーグの頃から続くこのような感覚を軽やかに引き継ぎながら、もっと楽しくそれをやっているという感じがします。映画を観るとアルテミスとカリーの2人がとても親密な知り合いのようになりますよね。
坂本:もちろん出演している女優はいまの若い女性ですし、いまの人たちが出てくることで絶対にいまが映る。清原さんがおっしゃったように、作品自体もやはりいまの映画になっていると思います。『アルテミス』はフランス本国でも批評家から高い評価を受けましたし、「ブリィヴ・ヨーロッパ中編映画祭」ではグランプリも受賞しています。フランスではラジオでいつも映画の話を侃々諤々と議論しているんですが、それを聴くと『アルテミス』については「またモノクロでヌーヴェル・ヴァーグのようなことをやっていて見飽きた」というようなことを言っている人もいれば、「いまだからこそ、このようなアイデアや話法が自由で、遊び心のある挑戦的な映画が出てきた。そこを評価したい」という人もいます。私はもちろん後者ですが、清原監督の映画とはまた違った意味で、おもちゃ箱のような映画だなと思います。
諏訪:確かにフランスでは「ヌーヴェル・ヴァーグ」という形容は差別的に見られることがありますね。それとは別に、これはリヴェットや子ども映画とも繋がるのですが、ヌーヴェル・ヴァーグには登場人物の魅力というものがあります。僕が子どもたちと映画をつくるときは、脚本を演じさせるのではなく、すべて即興で演じてもらっているのですが、登場人物が何かをやらされているようには見えない。子どもたちはシナリオに書いてあるからとか、監督に言われているからこういうふうにやっています、という人たちではない。たとえフィクションであったとしても、彼や彼女たちは自分で自分を支配している。自分たちがこれをやっているのだという、そういう自由な感覚を我々に与えるのではないかと思います。それがリヴェットが俳優と一緒に物語をつくったりしたりするところにも繋がってくる。
坂本:清原監督は出演者の方とどれくらいリハーサルをするのですか?
清原:『わたしたちの家』でいうと、制作時間がタイトだったのでリハーサルという形では事前に一回ほどしかしていません。即興ではありませんが、現場でほぼ初めてお互いを知るという感じでした。そういう困難はあったと思いますが、家という空間が親密さを作り出す良い働きをしてくれた気がします。撮影のあいだだけですが、長時間外にいることと家の中にいることを較べれば、家の中にいるほうが親密な時間が持てると思います。加えて、なるべく順撮りになるように撮影していたので、やはり家庭の中で徐々に関係が深められましたと思います。
諏訪:台詞はほとんど脚本に書かれていた通りだと思いますが、親子の関係や女性同士の感覚など、よくできていると思いました。セリとお母さんの「洗濯物干すの手伝ってよ」「やだ」というやりとりとか(笑)。
坂本:だいたい子どもは親の指示に対して、まず「やだ」って言いますよね(笑)。
清原:うれしいです。洗濯物のくだりは本当に自分が言っていた感じで書きました(笑)。すぐ「やだ」とか言ってましたね。
黒沢清監督の影響、無限としての世界
坂本:では、そろそろ会場の方にもご質問やご感想をいただきたいと思います。
質問者1:噂は聞いていましたが、今日初めて拝見して、とても感動しました。諏訪監督のおっしゃる通り「信じられる」映画だと思います。映画ができあがって、うまくいかなかった点など、心残りなところはありますか?
清原:撮り終わった後にできることは最大限しました。ただ、とても些細なことですが、「ここは照明が少し足りなかった」など、撮影のときの心残りのようなものはいま観ていてもときどき発見します。この映画は2年ほど前につくって、その後国際映画祭などさまざまな国で上映させていただいただきましたが、巡り巡って今日こうしてここに戻って来て、もう自分の映画であるということから離れてきてしまっているなと、また映画を観て思いました。だから作品について語れることも、つくり終わった当初や初めて人に観せていろいろと聞いていた時期からすると、どういうふうに話せばいいかも変わってきている気がします。観客はほとんどが初めて観る方々だと思いますが、自分自身は初めてに立ち返ることはどうやってもできない。それでも初めて観たときの気持ちになって、初めて観る方々に伝わる言葉でもう一度話していると、「これはいまの自分にとって真実なのだろうか」と自問してしまい、いまの自分とは乖離してくるところがあります。もうすでに離れた視線で観ている。だから正直な気持ちを言えば、「ここをこうしたらもっと良くなったのに」とは思いません。もちろん反省点は多々ありますが、それも含めて、この映画は多くの方々に観られて、こういう映画なのだといまは肯定しています。
諏訪:僕たちは映画作品はどれほど時間がたっても、どのような状況であっても、同じように再生されるものだと頭では理解しているけれども、実際はやはりそうではないですよね。
清原:そうですね。それは自分の作品ではなくても、観るたびに別のものになっていると思います。
諏訪:やはり映画というのは、人間が観なければ「ない」ものなんです。人間が観ることによって完成している。だから、観ることによってつくられた「映画」は自分ではどうしようもないものです。自分はそのきっかけをつくりだしているひとつの働きでしかない。僕たちはその働いていく装置をつくりだしている。その結果が「映画」ですが、それはつくった側にはどうしようもないことです。世界中の人々が、清原さんの映画にいろいろな「何か」を見出していった。そういう非常に優れた装置を清原さんはつくり出した。そういうことだと思います。
質問者2:とても良かったです。海辺のクリスマスツリーの場面では少し泣きそうになりました。お聞きしたいのは、風に揺れるカーテンや『CURE』(1997)を彷彿とさせるラストシーンなど、やはり先生である黒沢清監督の影響はあるのかということです。
清原:これは世界的に人気のある質問で、よく聞かれます(笑)。やはり黒沢さんは世界でも人気があるんだなあと実感しました。実際に東京藝大では諏訪さんと黒沢さんのお二人に教えていただいたので、影響といわれると、とても難しいですね。諏訪さんや黒沢さんの教え方というのは、何か具体的に「こういうふうにしたほうがいいよ」という教え方ではありません。だから当然ですが、別に黒沢さんが「カーテンは絶対に揺らせたほうがいいよ」とおっしゃったわけではないです(笑)。ですから、影響を受けているとすれば、黒沢さんの映画をいちファンとして観てきた自分が無意識に記憶のなかに蓄積してきたものが、自分の作品を形づくっている。『わたしたちの家』もそういう蓄積のひとつとしてあるのかなと思います。
諏訪:黒沢さんは講評会のときに初めて観て、「傑作です」と絶賛されていましたよね。
坂本:いまお伝えできる範囲で構いませんので、清原監督の次回作についても教えていただけますか?
清原:まだぼんやりとした企画ですが、試みとしては『わたしたちの家』の続編のようなものをやろうかなと思っています。また少し別の構造になると思いますが、『わたしたちの家』ではできなかった3つぐらいのポリフォニックな物語をやりたいと考えています。
諏訪:では『わたしたちの家』のバリエーションとしてあるわけですね。そうすると3本目をどうするかというのが難しいですね。
清原:3本目は全然違うものをやりたいですね。ミュージカルとか。
質問者3:大変素晴らしく、かつショッキングな映画でした。おそらく2つの幻の家族があって、お母さんが共通なのだと思いました。まったく別の家族が2つあるのではないのですよね?
清原:お母さんは共通ではないつもりで描きましたが、そういう見方もできると思います。
質問者3:演じている女優さんは別人で、お化粧も違いますし、まったく別の人格で別の家族。高校生の家族と、ちょっと影のある家族という2つの家族が幻想の中で同時並行するという解釈もできます。しかし、実は真ん中にいるお母さんが共通だという解釈もできると思ったんです。
清原:いままでいろいろな解釈を聞いてきましたが、その解釈は初めて聞きました。面白い見方ですね。私自身は自由に観ている方が一番面白く見える、しっくりくるような見方で考えてくださればと思っています。
諏訪:いまのお話を聞いていると、やはり黒沢さんとの繋がりがあるように思えます。普通の映画であれば、2つの物語を包含し、それぞれをヴィジョン=世界観の中に位置づける世界全体がある。世界全体があって、その中に「この世界」と「あの世界」がある。通常はそのような創作が行われていると思います。しかし、清原さんの映画には各エピソードの外側にそれを取りまく全体としての世界がない。世界は底なしで、ドアの向こうは無限であり限界がない。その世界の無限さが黒沢さんの映画の構造と似ていると思いました。だから、あの箱の中には「無限」があるのかもしれない。今日観て、僕はあの中には「存在」が入っているのではないかと思いましたけれど。
質問者4:年末の12月8日になって、今年観た映画のナンバーワンが書き換えられるとは思いませんでした。清原監督がこれだけは絶対に観ておいてくださいと、声を大にして言いたい映画を何本か教えていただけますか。
清原:先ほど出たジャック・リヴェット監督の『彼女たちの舞台』でしょうか。リヴェット監督の映画はどれも好きですが、やはり一番好きですね。これも「家」と「女性」の映画です。
坂本:今回の上映を企画し尽力された吉田さんはいかがですか。
吉田紗和子:今回、ユベール・ヴィエル監督の『アルテミス』をずっと上映したいと願っていたときに、一緒に日本人監督の作品も上映したいと思っていました。そのときに一番に思い描いたのが清原監督の『わたしたちの家』です。今回は作品を上映できて大変うれしく、また諏訪監督にもお越しいただき、ありがたく思います。
坂本:最後にお二人から一言いただけますでしょうか。
諏訪:僕も今日こうして清原さんの映画を再見できて、また『アルテミス』も観ることができて、とても面白かったです。いろいろと考えを新たにすることができました。どうもありがとうございます。
清原:私もまったく違う国の監督がつくった作品と一緒に久しぶりに自分の映画を観て、ここ1年ほど上映しながら映画についてお話ししてきましたが、こうしてじっくり腰を据えてお話しする機会はあまりなかったように思います。今日は初心に立ち返ってもう一度自分を見つめ直す機会をいただけた気がして、すごくありがたい時間でした。どうもありがとうございました。
坂本:また来年もこうして藝大で上映ができることを願っています。本日はどうもありがとうございました。
2018年12月8日、東京藝術大学(横浜・馬車道校舎)大視聴覚室にて収録
(文・構成:野本幸孝)
『アルテミス、移り気なこころ』Artémis, cœur d’artichaut
(フランス/2013年/59分/モノクロ/デジタル/フランス語/日本語字幕)
監督:ユベール・ヴィエル
出演:フレデリック・バレー、ノエミ・ロセ、ユベール・ヴィエル
月の女神アルテミスが、現代社会に舞い降りた。美術学校の学生となったアルテミスは、ちょっと内気で変わった女の子。ある日、学校の食堂で快活で奔放なカーリイと出会い、人生が一変する。2人で海辺でキャンプをしたり、気になる男の子に話しかけたり、現実と寓話が同居しながら、かけがえのない時間を過ごす友情を描いたガールズロードムービー。メタフィクション的な語りとスーパー8のモノクロ映像が、ヌーヴェル・ヴァーグの瑞々しさを感じさせながら、初期映画のようなコミカルさも併せ持つ、映画づくりの煌きに満ちた珠玉の一本。
『わたしたちの家』Our House
(日本/2017年/80分/カラー/デジタル/日本語)
監督:清原惟
出演:河西和香、安野由記子、大沢まりを、藤原芽生、菊沢将憲、古屋利雄、吉田明花音、北村海歩、平川玲奈、大石貴也、小田篤、律子、伏見陵、タカラマハヤ
セリはもうすぐ14歳。父親が失踪して以来、母親の桐子と2人暮らし。最近、お母さんに新しい恋人ができて複雑な気持ちになっている。さなは目覚めるとフェリーに乗っており、自分に関する記憶がなくなっていた。彼女は船内で出会った女性、透子の家に住まわせてもらうことになる。セリとさな、2人の別々の物語が、ひとつの「家」の中で交錯する…。ベルリン国際映画祭、香港国際映画祭、バルディビア国際映画祭など、海外からの招聘も相次いでいる。
本作品は下記の映画配給会社GAGA(ギャガ)が運営する映画配信サイト「青山シアター」にて配信中。
監督プロフィール
ユベール・ヴィエル Hubert Viel
1992年生まれ。ノルマンディー地方出身。エリック・ロメールやジャン=リュック・ゴダール、ギリシャ神話などにインスパイアを受け、2013年にスーパー8で撮影した初めての長編コメディー『アルテミス、移り気なこころ』を発表し、同年ブリィヴ・ヨーロッパ中編映画祭にてグランプリを受賞。2015年には2作目となる長編作品『Les Filles au Moyen Âge(原題)』を手掛け、少女たちが中世に生きる大人たちをシニカルかつチャーミングに演じた本作は、同年ボルドー国際インディペンデント映画祭にて準グランプリを受賞し、好評を博した。
清原惟 Yui Kiyohara
1992年生まれ。東京都出身。武蔵野美術大学映像学科卒。同大学在学中に監督した『暁の石』がPFFアワード2014に入選。同卒業制作の『ひとつのバガテル』がPFFアワード2015に2年連続で入選、第16回TAMA NEW WAVEにノミネートされる。その後、東京藝術大学大学院映像研究科にて黒沢清監督・諏訪敦彦監督に師事し、修了制作として撮影した初長編作品『わたしたちの家』がぴあフィルムフェスティバル2017でグランプリを受賞、ベルリン国際映画祭、香港国際映画祭など海外からの招聘も相次いでいる。
登壇者プロフィール
諏訪敦彦〔映画監督〕
1960年生まれ。広島県出身。 東京造形大学在学中に、『はなされるGANG』でぴあフィルムフェスティバル入選。1997年に『2/デュオ』を発表し、ロッテルダム国際映画祭でNETPAC賞受賞。2作目の『M/OTHER』は、1999年にカンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞受賞。その他主な作品に『H Story』、『パリ・ジュテーム』(オムニバス)、『不完全なふたり』『ユキとニナ』などがあり、2018年にはジャン=ピエール・レオー主演の新作『ライオンは今夜死ぬ』が公開された。また、2008年から2013年まで、東京造形大学の学長職を務め、現在は東京藝術大学大学院教授を務めている。その他、小中学生の子どもたちへ映画制作を教えるワークショップ「こども映画教室」の講師としても参加している。
坂本安美〔アンスティチュ・フランセ日本 映画プログラム主任〕
東京都出身。慶應義塾大学法学部卒。『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』誌 元編集委員。『カイエ・デュ・シネマ』本誌とともにフェスティヴァル・ドトーヌにて黒沢清、青山真治、篠崎誠、諏訪敦彦ら日本の監督 たちを紹介。1996年より東京日仏学院(現アンスティチュ・フランセ東京)にて映画プログラム主任を担当し、フランスから多くの監督、俳優、映画批評家らを招聘 し、日本では上映の機会があまりない作品を中心に紹介しながら、さまざまな映画上映の企画・運営を手がける。2014年のカンヌ国際映画祭では「批評家週間短編作品部門」の審査員を務めた。著書に『エドワード・ヤン 再考/再見』(共著、フィルムアート社)などがある。
交差する視点 – 日仏インディペンデント映画特集
主催:アンスティチュ・フランセ日本
助成:アンスティチュ・フランセパリ本部
アンスティチュ・フランセ日本 映画プログラム オフィシャル・パートナー:CNC、笹川日仏財団、TV5 MONDE
フィルム提供及び協力:愛知芸術文化センター、Les Artisans du Film、シネマテーク・フランセーズ、シネマテーク・ドゥ・トゥールーズ、同志社大学今出川校地学生支援課、パトリック・デュヴァル、Ecce Films、EYES FILMS、レ・フィルム・デュ・ロザンジュ、フィリップ・ガレル、小森はるか+瀬尾夏美、HEADZ、マーメイドフィルム、Migrant Birds Association カプリコンフィルム、Pigdom, ピラミッド・インターナショナル、ジャッキー・レイナル、槻舘南菜子、ザジフィルムズ、ボルドー国際インディペンデント映画祭、広島国際映画祭実行委員会、TAMA映画フォーラム実行委員会、第31回東京国際映画祭、ユニフランス、手束紀子
後援:横浜市文化観光局