生まれたということ、それは狭い宇宙――影響力は数限りなく、一つ一つの細部、過ぎゆく一秒一秒が重要で、痕跡を残す宇宙に、浸っているということだ。だからそれは苦しむということだ。この苦しみを謳歌してもよい、それを呪ってもよい。闘うときには、どんな武器だって役に立つのだ。
生きてあるということ、それはまず何よりも見つめる術を知ることだ。人生が確実なものと感じられない人たちにとって、見つめることは一つの行動である。それは生ける存在の第一の効果的享楽なのだ。彼は生まれた。世界は彼のまわりにある。世界は彼である。彼にはそれが見える。彼はそれを見つめる。
ル・クレジオ『物質的恍惚』
「兄さん、個は種を超越できるんだろうか。死は種の個に対する勝利だって聞いたけど」。1980〜90年代にかけて、日本映画の先頭を切って疾走し続けた映画監督相米慎二の『台風クラブ』(1985)で、男子中学生の三上(三上祐一)は鶴見辰吾演じる大学生の兄に唐突にこう訊ねる。個と種、生と死というテーマを追求してきた相米にとって、両者はつねに相克関係にあった。「生き生きとした幽霊」という形容矛盾を圧倒的な輝きでねじ伏せてしまう『東京上空いらっしゃいませ』(1990)の牧瀬里穂が象徴しているように、相米は生と死が表裏一体となった映画の時空のなかで、躍動し、変容する少年少女たちの肉体と持続を作品へと焼きつけてきた。
『お引越し』(1993)のクライマックスにおける琵琶湖の火祭りの場面は、その到達点であり新たな転回点でもある。主人公のレンコ(田畑智子)が死から誕生へと至る彷徨=通過儀礼を圧倒的なスペクタクルとして展開したこの場面は、舞台である京都の街や野山の風景が、いつしか生死が渾然一体となった宇宙的時空へと変貌していく。本作以降、『あ、春』(1998)におけるラストシーンで山崎努が腹巻きのなかで温め続けていた小さな生命を思い返すとき、そこには個と種の関係を相克から和解へと肯定している相米の成熟を見ることができる。
ここで個と種、つまりは人間と宇宙という問題を追求した一冊の書物を想起したい。フランスの現代作家ル・クレジオが27歳のときに刊行した『物質的恍惚』(1967)。宇宙と人間をめぐる不断の瞑想であり、「書くこと=エクリチュール」の始原にして終焉でもあるような書物以前の書物。「ぼくが望んだのは、生以前の虚無と以後の虚無を内包しているような書物を創り上げることでした」というこの作家の言葉もまた、相米が描いてきた個体である人間の実存と宇宙的虚無との絶えざる相克を「書くこと=エクリチュール」の臨界点において和解させようとした試みだとはいえないだろうか。
翻って、『みちていく』のみちる(飛田桃子)や新田(山田由梨)にとっては、噛まれた身体の痛みと傷跡だけが、あるいは部長として日々鍛練する陸上部員たちの肉体の記録を書きとどめていくことだけが、いまここに存在している生の証しであるように見える。そしてそれとは逆に、「宇宙を認識している私こそが宇宙」という星野(鶴田理紗)の言葉の底には、冒頭に挙げた『台風クラブ』の三上の言葉に含まれているのと同じ不安と恍惚がぐるぐると渦を巻いている。宇宙という虚無に飲み込まれまいと抗う彼女たちの生。それは『お引越し』の彷徨するレンコや『物質的恍惚』のエクリチュールにあった震えと、時空を超えて確かに共振している。
みちるは新田の視線を追い、新田もまたみちるの視線を追いかける。どちらが「前」か「後ろ」かも分からないまま投げかけられる「未だ何者にもならない」彼女たちのまなざしは、何者でもないからこそ、偏見による遮蔽や社会の網の目に曇らされることなく、ただ眼の前にいるありのままの存在に沿うことができる。見つめ、見つめられることでかろうじて生を支えている脆弱な、しかし誰よりも純粋で残酷な裸形の生=実存。竹内作品にあってまず特筆すべきは、この「未だ何者にもならない」者たちが見つめ、投げかけるそのまなざしの切実さであり、不安と恍惚を抱えながら微睡むその対照的な佇まいの魅力ではないだろうか。そしてそれこそが、相米慎二が焼きつけ、『物質的恍惚』がすくい取ろうとした生の原初の震えにほかならない。
まなざしというテーマを端的に表し、深化させた作品が『感光以前』だろう。東京藝術大学大学院映像研究科の夏期実習作品として製作された本作では、「未だ何者にもならない」者たちのまなざしが交わり、繋がれていくとともに、移転が決まり、実際に取り壊される同大学院の横浜校地新港校舎を16㎜フィルムに焼きつけることで、カメラ=「記録すること」というもうひとつのまなざしの存在が露わになる。
まなざすことは生の震えであると同時に、映画においては失われゆくその震えを記録することでもある。『みつこと宇宙こぶ』の冒頭に現れるホーム・ムービーの場面を見ても、竹内作品がつねに映画の記録性に意識的であるのは明らかだろう。しかし大切なことは、映画がたんに「記録=感光されたもの」としてあるのではなく、記録すること、つまり「まなざす」という行為そのものとして意志されていることだ。
相米作品が見抜いていたように、青春とは、個体である自らの実存と存続していく宇宙=種の関係に気づき、そこに横たわる深淵に慄く季節だ。それを呪うことも、謳歌することもできる。闘うときには、どんな武器だって役に立つのだとすれば、カメラという無人称で匿名的なまなざしもひとつの武器になるのだと、竹内作品は教えてくれる。なぜなら、その匿名的な視線によって捉えられた瞬間は、たとえそれが痛みや苦しみの痕跡であったとしても、いまの私たちがそうであるように、これからも人々の記憶に深く刻まれ、彼らの生を支え導く光となって、未来へと分有され、継承されていくのだから。
そう、映画もまた、私たちを見つめているひとつの宇宙なのだ。そこで出会う懐かしい未来や新しい過去の様々を恋しく思いながら、私たちはいまを愛し、生き続けるしかない。言葉はそれが書きつけられた=死んだ瞬間に生きはじめる。映画もまた終わった瞬間に、そこから新たな映画が生まれる。そこに終わりはない。それが映画の、そして宇宙の本質でもある。欠けた月は満ち、アザやコブもやがては消える。しかしだからこそ、私たちの生きる一瞬一瞬は輝きを放つ。誰もがかけがえのないその瞬間をまなざし、記録にとどめておきたいと願う。だが、実は記録するということはその瞬間からの決別でもあるのだ。まなざすことの真実を知る映画監督竹内里紗は、これからどんな瞬間や風景を見つめていくのだろう。そのまなざしは観客である私たちとともに、ときに微睡み、宇宙をたゆたいながら、きっと未来への出会いを待ちわびている。つねに決別の覚悟を胸に秘めて。
『みつこと宇宙こぶ』
9月20日。晴れ。目に見えない部分だから気になるのかな。最近「こぶ」の中身についてよく想像をふくらませてる。学校に行く道でも、お風呂に入っていても、夜に眠れないときも、ずうっと考えちゃう。だって「こぶ」の中身がわかれば、他のことについてもわかるような気がするんだ。
◆ 第11回田辺・弁慶映画祭 女優賞
監督:竹内里紗
脚本協力:峰尾賢人
出演:小松未来、金田悠希、島野颯太、宮野叶愛、百合原舞、伊原聖羅、篠崎夕夏、根矢涼香、坂井昌三、永山由里恵
2017年/40分/アメリカンビスタ/5.1ch/カラー/DCP
©東京藝術大学大学院映像研究科
『みちていく』
“自分"という見えないゴールへスタートラインを切る。少女たちが切り開く、ささやかな希望と成長の物語―。
歳の離れた恋人に身体を噛んでもらうことでしか満たされない陸上部のエースみちる(飛田桃子)。生真面目で部員達に疎まれる部長の新田(山田由梨)。二人は互いの空虚を埋め合うように、だんだんと近づいていく―。
◆ 第15回TAMA NEW WAVE グランプリ・受賞、ベスト女優賞・受賞(山田由梨)
◆ 第12回うえだ城下町映画祭自主制作映画コンテスト大賞
監督・脚本・編集:竹内里紗
出演:飛田桃子、山田由梨、鶴田理紗、西平せれな、崎田莉永、山口佐紀子、篠原友紀、宮内勇輝、泉水美和子、小野孝弘
2014年/89分/16:9/ステレオ/カラー/Blu-ray
©みちていく
『感光以前』
夏。映画学校が取り壊される前日の夜。元生徒の武田と相川は美術道具を取りに学校へと忍び込む。誰もいない校舎と建てられたままのセット。そこはかつての面影を残したまま時間が停止しているかのようである。一方、時を同じくして警備員の室井は女子高生の瑞木に出逢い……。
監督:竹内里紗
脚本:峰尾賢人
出演:大村沙亜子、金井浩人、堀春菜、小川ゲン、小綿照雄
2015年/15分/スタンダード/ステレオ/カラー/Blu-ray(16mm撮影)
©東京藝術大学大学院映像研究科