美術館とホテルの亡霊を介しての奇妙な関係
『グレート・ミュージアム ハプスブルグ家からの招待状』が始まりました。
ウィーンにある美術史美術館は同敷地内の自然史博物館と対になっており、双子の美術館と言われている。
1871年フランツ・ヨーゼフの命により1891年に完成したネオ・ルネサンス様式の建築は世界で最も美しい美術館とも言われている。エントランスファザードにはドーリア式、イオニア式、そしてコリントス式の柱が一階から三階まで並ぶ。あたかもギリシアローマからヨーロッパ文明を継承し、引き受け全てを貫き網羅しているかのように。
しかし、この美術館の歴史としては125年で、「美術館ミュージアム」という制度ができる遥か昔の中世末期から近代にかけての「芸術の部屋クンストカンマー」や「驚異の部屋ウンダーカマー」と言われる王侯貴族の私的所有の芸術蒐集室が元となっている。
2012年に改装事業が行われ、その際の工事模様から、内部の経営事情や、修復、様々な会議、オークション、保管庫の様子、展示方法、退職、イベント、、、など美術作品の紹介というより各部署のスタッフの奮闘の模様をインタビューや説明字幕は一切なしでダイレクトシネマの形で行われている。
美術館スタッフへの配慮と尊敬が画面から伝わる大変真面目なドイツ的な感性の監督だということが分かる。
さて、本題に移るが、監督はドイツ人気質なためかカメラワークやレンズも割と凝っている。無駄なカメラワークがほとんどなく、美術館内の移動はステディカムで素晴らしい広角レンズを使用している。フェティッシュ感満載だ。
スタッフの背後をピタリと追ってのバックヤードの狭い回廊、部屋から部屋へのときには直進ときには曲がりくねる移動は、さながらキューブリックの『シャイニング』のカートシーンを思わせる。
昨今の部屋と部屋の開口部が大きく空いたホワイトキューブ型の美術館建築ではなく、ネオ・ルネサンス様式の建築は貴族の宮殿か城内そのものである。展示室と展示室の開口部は狭く絞られており、その開口部の連続がホテルでいうところの廊下の構造にもなる。空間の連続が廊下の役割にもなっているのだ。
ホテルとは人間が宿泊、ときには住まう場所であるが、美術館とは作品がそこに一時的に置かれたり壁面に掛けられたりする作品のためのホテルのような場所である。
今回のリニューアルからアイスランドのアーティスト オラファー・エリアソンのシャンデリア「スター・ブロック・シャンデリア」が使用されている。
今年6月にエリアソンは、自らを太陽王と称したルイ14世のヴェルサイユ宮殿の内部と庭園で大きな個展を開催した。エリアソン自身の作品は光に関連するものが多い。それはその場のサイト、固有のトポスに呼応するような、もしくはその場でしか派生しえない、あるエネルギーを違ったものに変換させるようなインスタレーション作品である。太陽王であるルイ14世がいま現在生きていたらどのような内装にするのか、どのような作品を発注するのか。空間からルイ14世の考えや哲学を慎重に掬い取り作品にしていくのである。それは言ってみればその場にいる亡霊に関与し耳を貸し、一体化していく試みでもある。
キューブリックの『シャイニング』においても、大雪に閉ざされ一家族のみの越冬空間で、そのホテルで過去に時間を過ごしていた亡霊たちとの対話、もしくは同化の物語でもある。良い霊と悪霊とに同化と対立をくりかえしていく話である。
そもそもホテルとは、ボールルームで時間を過ごしたり、ときには宿泊をする場所である。多くの人間模様のドラマが派生した固有の場所である。その過去の時間たちが内包された空間内に一時自分の肉体を預けることである。
このウィーンの美術史美術館の建物は125年前、そして絵画作品をはじめオートマタと言われるからくり装置や宝飾品、馬車や制服など古くは800年前のものが展示されている。その歴史や時間が折りたたまれた空間に対峙すること、包み込まれることは、そこにいる亡霊との対話に他ならない。王位を失ったあとのいわば持ち主であるオーナーや制度といった後ろ盾を喪失したものたちは、権威という父性を発揮することはない。奇しくも美術館の総館長や絵画館館長など、女性の活躍が目立つ。
そのように美術館とホテルの奇妙な関係。その空間にかつて起こった事柄や空間の記憶の地層に触れること、そこに滞在し身を埋没すること、精神的な意味で宿泊するという行為。
それがこのように美術館という制度が起きるはるか前から存在する「芸術の部屋クンストカマー」や「驚異の部屋ウンダーカマー」という空間に入館すること。人間の不可思議な好奇の精神性は、一気に政治や国家というものを超えてしまうものなのだ。逆説的に見れば、美術館といういまだけのいつ終焉するか分からない制度より、更に遠い未来にも共鳴の予感を感じないわけにはいられない。
『日曜美術館』という番組があるが、たとえば「月曜美術館」という考え方は可能であろうか。休館日や夜間には果たして美術品がそこには存在しているのだろうか、、、と考えることがときたまある。もちろん物としての「作品」は存在しているはずだ。
サザビーやクリスティーズなど、この映画にも登場するドロテウムオークションハウスなどで高額に取引され、値段がつり上がるアンティークや美術作品。
アンティークや作品には金融商品としての側面も確かにある。もちろん歴史的な価値は言うに及ばず、また、金や宝石など宝飾品で飾った装身具やクラフトマンたちの賞賛する技術もある。そして権威や権力の象徴としての存在意義も過去にはあった。
しかし、いまはチケットの購入と引き換えに誰でも平等に入場し鑑賞でいるという美術館の制度がある(何かほかの形にと言って変わるかもしれないが)。この時、「美術鑑賞」というこれも政治や社会など超えた人間が人間であるための尊厳のような「鑑賞」という行為が許される。作品にナマモノとしての人間が対峙するとき、はじめてその作品は存在価値が生まれるという存在論は果たして成り立たないだろうか。
だから月曜日や休館日には、そこには美術品は存在していないのだ。その空間にいる亡霊のためだけに美術品は存在しているということになるのかもしれない。
そして、ただいま国立西洋医美術館で開催中の『クラーナハ 500年後の誘惑』のために2013に研修に行かれた国立西洋美術館の新藤淳氏とのトークショウも無事大盛況で終了。
今回のクラーナハ展でも驚くべき展示方法が展開されていた。
それは改装に併せて現代美術家のエリアソンのシャンデリアを起用する美術史美術館の態度にも類似する。
古い作品をそのままで展示するのではなく、現代、同時代的に解釈し展示する試み。
古い作品を再解釈し直し、新たな血流を流し込み生き返らせること。美術の亡霊を生き返らせることが大事でもあり、魅力的でもあるのだ。