綱の上で踊ろうとする者
パスカルの『パンセ』は、何度も読み返した愛読書の一つなのだが、第5章「正義と現象の理由」は、読み落としていた。そこにこんな話が出てくる。
友がいて、彼は川の向こうに住んでいる。川を挟んで、向こう側の統治者とこちら側の統治者とが戦争を始めた。攻め込んでいくと、囚われの身の友に出会った。彼は、なぜ私を殺すのかと言った。それに対して、川の向こうの人々を殺すことは、殺人ではなく、正義であり、殺すことによって自分は、勇者となるのだと答えた。君が川のこちら側に住んでいたら、殺すことは確実に殺人なのだから、決して自分は手を下すことはなかっただろう、とも。
こういう話をいまから400年も前に書いているのだから、やはりパスカルというのは、ただ者ではない。ついでにもう一つ。
この世の主人は力であって、世論ではない。しかし、世論は、力を用いる主人だ。力が世論をつくるのだ。私たちが、やわらかさは良いことだ、なぜなら綱の上で踊ろうとする者は、一人っきりだからと言ったとする。ところが、そんなことは少しも良いことではないと大声で言う人がいて、その人の声に従って、徒党がつくられ、世論がつくられていく。
まさに現代の状況を言い当てている。綱の上で一人っきりで踊ろうとする者など、あっという間に排除してしまうのが世論というものだ。
真実の手ざわり
書斎の窓から、綺麗な中秋の名月がみえる。しばしぼんやり眺めながら、「真実とは広大な森の中の間伐地のようなものだ」というハイデガーの言葉を思い起こしている。たしかに、現実は、鬱蒼と繁茂するさまざまな樹木のような捉えがたい事象からなっている。だが、そのような森のなかに、満月に照らされてそこだけが明るんでいる間伐地のようなところがある。そして、そこにこそ真実は存在するといえる。
この真実に至るには、月の光をたよりにこの鬱蒼とした森の中をたどっていき、不意にそこだけが開けた間伐地にたどりつくようなことである。だが、真実とは間伐地のようなものだというハイデガーの言葉は、鬱蒼とした暗い森を少しでも抜け出て、できるだけ早く月の光に照らされた間伐地にたどりつくことによって手にするものと解釈されてはならない。むしろ、その鬱蒼とした暗い森にこそ、意味があるとしなければならない。
私たちの現実は、容易に月の光に照らされた間伐地に至らしめないようなものによって成り立っている。その現実の捉えがたさは、暗くおぞましいような欲望の渦巻く世界を、わずかな月の光をたよりにたどっていくようなものとしてあらわれる。そうしてみれば、どんなに月の光が煌々と照っていようと、間伐地などはどこにも見えず、最後まで、そこにいたりつくことはできないのが、現実なのかもしれない。
にもかかわらず、そこにいたりつこうとして、現実界のさまざまな欲望を潜り抜けていくところに、真実の手ざわりのようなものに触れる時がある。それをこそ、むしろ私たちにとっての真実というべきではないだろうか。
神山睦美 プロフィール
1947年岩手県生まれ。東京大学教養学科卒。
文芸評論家。2011年『小林秀雄の昭和』(思潮社)で、第二回鮎川信夫賞受賞。
その他の著書に、『夏目漱石論序説』(国文社)『吉本隆明論考』(思潮社)『家族という経験』(思潮社)『クリティカル・メモリ』(砂子屋書房)『思考を鍛える論文入門』(ちくま新書)『読む力・考える力のレッスン』(東京書籍)『二十一世紀の戦争』(思潮社)『希望のエートス 3 ・11以後』(思潮社)『サクリファイス』(響文社)など多数。