連載第3回 映画『ふたりのベロニカ』の主人公が、倒れる寸前に歌っていた歌曲
「この門を過ぎるものは一切の望みを捨てよ」というのは、ダンテ『神曲』の「地獄篇」第三歌に出てくる地獄の門の銘文だ。
一方、「天国篇」の第二歌に、ベアトリーチェに導かれて天国へ向かうダンテが、私たち読者に警告する場面がある。
要約すると、こんな具合になる。
おお、君たちは小さな舟に乗って私の後をついてきた。
だが、私の歌を聴きたいと思って沖合に出てはいけない。
君たちは、私を見失い、途方に暮れるにちがいない。
私が向かう海は、誰も乗り出したことのない海なのだから。
それでも、ミネルヴァが風を吹き、アポロンが私を導いてくれる。
そして九人の女神が私に大熊座を示してくれる。
その海を、これから私は、渡ろうとしているのだ。
こうして、読者は、ダンテから厳しい言葉を浴びせられる。
それでも、これを「狭き門から入りなさい」というイエス・キリストの言葉のように解して、困難をいとわずにダンテの後をついていくならば、必ずや、天国篇の歌にふれることができるということなのである。
私の好きな映画に「ふたりのベロニカ」というのがあって、一種のドッペルゲンガーの話だ。
遠い国に住む一人のベロニカが、舞台で歌曲を歌っているときに、突然心臓発作を起こして倒れる。しかし、舞台は暗転し、別の国に住むもう一人のベロニカのもとで蘇生するのだ。
そのとき、倒れる寸前にベロニカの歌っていた歌曲が、ダンテのあの歌なのである。
しかし、微妙に言葉が変えられているので、引いてみよう。
そこの小さな舟に
乗っているあなた
どうしてもうたが聴きたいのなら
わたしの 船に
ついてきて
わたしは歌いながら行くから
外界に出たら
迷わないように
わたしを見失わないで
先に船を進めるけど
追いつこうとして急がないで
ミネルバの風とアポロンの光
九人の女神が道案内してくれる
「ふたりのベロニカ」を撮ったのは、クシシュトフ・キェシロフスキというポーランドの監督だ。
この作品のあとに「トリコロール」という作品もつくり話題になった。
しかし、彼はそのあと、ダンテ『神曲』の『地獄編』『煉獄編』『天国編』をモチーフとした脚本を書き上げようとしていたとき、突然心臓発作で倒れ、帰らぬ人となった。
そのことを思うにつけ、作品というのは、それをつくったものの運命を決めるという古い格言を、あらためて思うのである。
「ふたりのベロニカ」のように、たとえ倒れても、もうひとりのベロニカとなって、作家の魂は、いまも生きつづけているということだろうか。
神山睦美 プロフィール
1947年岩手県生まれ。東京大学教養学科卒。
文芸評論家。2011年『小林秀雄の昭和』(思潮社)で、第二回鮎川信夫賞受賞。
その他の著書に、『夏目漱石論序説』(国文社)『吉本隆明論考』(思潮社)『家族という経験』(思潮社)『クリティカル・メモリ』(砂子屋書房)『思考を鍛える論文入門』(ちくま新書)『読む力・考える力のレッスン』(東京書籍)『二十一世紀の戦争』(思潮社)『希望のエートス 3 ・11以後』(思潮社)など多数。