「象徴というアバンギャルド 」
私は子供の頃、亀倉雄策のオリンピックポスターに新しい時代の予感を感じたものです。
あの時代は、古い日本のあらゆるものがクリーンアップされてゆく感じがしていました。

そこから長い時間が経過し、日本は物質的には何不十無い国になりました。
一方、自然災害の不安、原発問題、集団的自衛権などなど、閉塞感は蔓延しています。
その中で再び東京でオリンピックが開催されます。
それを切っ掛けにして国民の団結心を高め経済も潤うという思惑、願いだったと思います。
しかし、現実は不透明な利権構造ばかり浮上し逆に国民の不信感は高まり、
フラストレーションを抱いた人々がはけ口を求めて彷徨う結果になりました。
苦しむ人達には余裕がありません建築、デザイン、代理店の事情も解らいのです。
解らない人が悪いからといって無視されると不満は蓄積されます。
皆に届くようにフェアにオープンに進める事こそ現代のデザインである。
デザイン関係者自ら主張している内容だと思います。
亀倉雄策のポスターは日本の国旗思わせるデザイン、それは日本人にとって象徴である天皇と無縁ではありません。
これは大変勇気が必要なデザインだったと思います。
批評性をもって未来を肯定するデザインはアバンギャルドでもあると思います。
団結心の象徴としての国旗、しかし、国旗の下に戦争をし、敗戦を迎えた日本人にとって
日の丸は複雑な象徴でしょう。それを見事に団結の象徴とした行為はむしろ芸術に近い気がします。
デザインは経済と文化を繋ぐ道具としてクライアントの意向に忠実であるべきです。
しかし、双方を挑発し高める役割もあると思います。
クライアントとの関係で完結せず
人々の無言の欲求を感じ表現する時、それは自分を信じるしか無いと思います。
衝動や直感などもそれに近い感覚で説明が難しいものだと思います。
今の日本でそのリスクを一人のデザイナーに負わせる事は酷かもしれません。
あの時代と呼応した亀倉雄策にしか出来なかったデザインならば、
憲法9条の様にそれをアレンジせず、守る事を決め、
テクノロジーやメディア環境を踏まえ、現代に対応させる努力を後輩のデザイナーが負っていったらどうでしょうか、オリンピック、パラリンピックのデザインは関係性をもちつつ差異をつけるのが普通の考え方でしょうが、
一つの象徴の元に同じ人間だという事を示す為に同じ図柄を採用したら良いのではないかと思いました。それは日本だからこそ世界に表現すべき思想ではないかと思います。

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