西洋の映画監督は、世界史を背負っている。
イギリス人のリドリー・スコット監督が、欧米諸国から参集した俳優やスタッフとともに、自らの生活圏ではない遠い中東アフリカの、古代エジプトにおける「預言者モーゼ誕生」の物語に全力で立ち向かうさまを目にするとき、そのことを強く思う。
欧米の役者にエジプト人メイクを施してまでして、英語劇で、あの『出エジプト記』をアメリカ映画として創造する。その企てには、ただただ感服するばかりである。
西洋社会の根幹をなす一神教の、その中でも重要な位置をなすモーゼ(モーセ)という存在にかかわる物語だからこその、この渾身の取り組みなのだろうが、それゆえ、というべきか、おなじようにこの世界を、世界史を、ひとしく共有しているはずの私たち東洋の、日本の監督には、少なくとも私には、こうした題材にとりかかろうなどという発想は まったくない。
世界の、世界史のとらえかたが、根本的に違うのだ。
モーゼの物語は「イスラエル」につながるものなので、欧米映画界におけるユダヤ・パワーの情熱、執念、底力をも同時に感じる。
それで思い出すのは、もうずいぶん前のことだが、スピルバーグ監督がワーナーでモーゼを描くとのニュース。調べてみると、こんな過去記事が出てきた。
『スピルバーグ、モーゼの伝記映画を監督か?』 映画.comニュース 2012年1月29日 「スティーブン・スピルバーグ監督が、古代イスラエルの民族指導者モーセの伝記映画『Gods and Kings(原題)』のメガホンをとることになりそうだと、Deadlineが報じた。(以下 略)」
原題が「Gods and Kings」となっている。今回のこちらの映画の英語タイトルは “Exodus: Gods and Kings”。おなじである。王だけではなく神をも複数形にしているところが非常に興味深いが、その点も変わらない。スピルバーグからリドリー・スコットへ、ワーナーから20世紀フォックスへと企画が渡って実現した、そう思って、まずは間違いないだろう。
紀元前1300年ごろ、エジプトはヘブライ人(古代イスラエル人)を長年にわたって、区別の名のもとに差別、分離、隔離し、自分たちの栄華を支えさせるための労働者、奴隷として扱っていた。やがて大自然は怒り、異常気象、天変地異を引き起こす。動物や鳥類、虫たちは不規則行動をとり、人類に対して一斉反乱の狼煙をあげる。
そう、それは、いまの、この世界の、地球の姿によく似ている。
人間の愚かさは、古代以来、今に至るも、なにも変わってはいない。いや、堕ちるところまで堕ちてしまったのではないか? リドリー・スコット監督はそう語りかけているかのようだ。
人が人を差別し隔離することが いかなる結果を招来させることになるのかについても 深く考えさせられる。
いまちょうどこのとき、私たちの国でも、ひとりの愚かな「知識人」による、そのいつもながらの極論、外国人を労働者として国内に取り込み、しかし居住地は分けて隔離するという暴論が、嘲笑の的となり、また大きな物議を醸したばかりだが、ことほどさように、これは、まさに“いま”に通じる物語なのだ。
リドリー・スコット監督は、古代を描きながら現代を語っている。この世界を、地球を、よくもし、わるくもするのは、「神」でも「王」でもなく、私たち一人ひとりの「人間」なのだと。
映画『十戒』でチャールトン・へストンが演じたモーゼは、鑑賞当時小学生の私などにもわかりやすい、ごく単純に堂々とした「普通の」偉人だった。
今回それを演じたのは、クリスチャン・ベール。
“Christian”(キリスト教徒。キリスト者)という名を背負った俳優に、BC(“Before Christ”=キリスト以前=紀元前)の、ユダヤ〜イスラエルにつながる、もう一人の「英雄」モーゼを演じさせていることに、非常に興味を惹かれるが、この若き名優は、ここでは、繊細に、きめ細かく、一人の青年が考えながら悩みながら人々を率いていく姿を演じ、モーゼがやがて「モーゼ」になっていくさまを完璧に見せてくれている。
それゆえ、この映画は、いわゆる「成長もの」としても充分に楽しめるものになっている。
広大なオープン・セットなどの美術、特撮、VFX、CG合成技術の成果も素晴らしい。
たとえば、あの有名な、海が割れるくだり。映画『十戒』では、ゼリーでつくったという、愛すべくも、見るからに人工的な海が、はっきりと画面の両サイドに盛り上がって割れ、一本の道ができあがっていく。あのアナログ感たっぷりの古典的特撮も素晴らしかったが、しかし、ここでは、海は割れない。
海は一律に、次第に沖へと引いていき、露わになった海底を人々は群れをなして出国(エクソダス)する。やがてまるで津波のように押し返してくる巨大な波に、海を渡り遅れた人々は一挙に呑み込まれていく。科学的検証に もとづいているのか、『十戒』のその場面とは違って、きわめてリアルなものになっている。
3Dについても ふれておかなければならない。
リドリー・スコット監督は、さすがCM出身というべきか、映像効果、とくに3D効果を存分に計算しつくしている。3D映画としてだけみても、申しぶんのない見事な出来映えだ。
欧米、なかでもアメリカの映画で、2D版とともに3D版が日本で公開される場合は、極力3Dのほうを鑑賞するようにしている。
早々に下火になった、日本映画における「3D映画」(いや、単純に「下火になった」というよりも、わが日本映画界はそうした新しい技術や興行形態に、業界一丸となって建設的に取り組もうという情熱やビジョン、それを支えるだけの財力や体力、いやそもそも、そういったことについての根本的な発想が致命的に欠落している。そこにこそ問題があるわけだが)の、完成した通常の映画から3D版をおこしていく、というやりかたに比して、欧米とくにアメリカの作品は、基本的に はじめから3D映画としてつくられており、それゆえ、3D版で観なければその作品を本当に観たことにはならない。
また、2D版で観てしまったのでは つくり手に対して失礼にあたる、という思いからだ。
そのようにして3D映画をこれまで観てきて、もちろんすべてを鑑賞しているわけではないけれども、今回のこの『エクソダス : 神と王』の出来は特筆に値するのではないかと思う。
現行の新システムの3D映画で、これほど見事なものは、私が観たなかでは、スピルバーグの『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』と、マーティン・スコセッシの『ヒューゴの不思議な発明』以来である。
もしまだスクリーン上映の機会があるならば3D版でご覧になることをお薦めしたい。
エジプトの王女に拾われ、王子・ラムセス(ジョエル・エドガートン)と一緒に、まるで兄弟のように育てられたモーゼ。
やがて二人は対立し訣別、ついには対決のときを迎えることになる──。
そう、この映画は、ひねりを加えた、一種の「兄弟もの」でもあるのだ。そのことを当然よく知り抜いているリドリー・スコット監督は、エンド・クレジットの はじめに次のような献辞を掲げてみせる。
「わが最愛の弟、トニー・スコットに捧ぐ」。
兄弟ものに弱い私は、これを目にした瞬間、それまでこらえていたものが臨界点に達し、
一気に涙腺が決壊したのだった。
さて、リドリー・スコット監督は、ひとつの大きな「宿題」を私たちに投げかけてくれた。
その問いかけは、いまも私の頭を支配している。
──「君たちアジアの監督は、世界に、世界史に、はたしてどのように向き合うのか?」
(3月7日 鑑賞 @ TOHOシネマズ日劇1)