聖霊院の秘仏・聖徳太子坐像と4人の侍者
展覧会の後半の、法隆寺金堂と五重塔をテーマとした展示には、お堂の中で近寄ることこそ出来ないが見ることはできるもの(金堂の薬師如来坐像と四天王、五重塔初層の塑像群)、あるいは元は金堂にあって(「玉虫厨子」、焼損を免れた壁画)今は大宝蔵院で公開されている寺宝も多い(他に「伝六観音」など)。だが以前に見たことがあっても、法隆寺で見るのとはまた違ったなにかが見えて来るのは、博物館なのでより間近に見られたり、照明の工夫などが行き届いているからだけではない。
いわばお互いが合わせ鏡のようになった二部構成の展示で、太子信仰と法隆寺の歴史と、その歴史が展開するあいだずっと守られて来た古代の遺産が、互いにそこに秘められた意味を照らし出す関係になっていることから、後半の金堂・五重塔関連の仏像や文物を見ても、今まで気づいていなかったこと、見落としていたものが見えて来るのだ。
だから双方を行ったり来たりしながら、何度も見直してしまうことにもなるのだが、そのもう一方の前半、いわば「第一部・聖徳太子」と呼べそうな前半の、西新館の展示で見られる仏像には、観勒僧正と伝わる聖僧坐像(経蔵安置)や伝法堂の阿弥陀三尊など、通常の拝観では非公開で、見る機会がとても稀なものが目白押しだ。
そんな全体の中心に象徴的に位置するのはやはり、法隆寺でも東院から西院に向かうとその手前にある聖霊院の、本尊・聖徳太子坐像だろう。
秘仏なので法隆寺でも限られた機会(毎年の太子の命日前後の 「お会式」)にしか開帳されないのであまり有名ではない像だが、法隆寺を代表する仏像のひとつとしてその美しさが大人気になってもおかしくない。平安時代の後期に、太子の没後500年に合わせて作られたもので、この当時の仏像彫刻の中でも屈指の、そして他にあまり類例がないとても個性的な傑作だ。
際立つのが滑らかな衣の、上品で浅い彫りの柔らかさだろう。飛鳥時代の様式化・パターン化された衣の表現や、奈良時代の乾漆像、例えば伝法堂の阿弥陀如来の起伏が誇張された、深くうねるような衣のヒダとは、またまるで違った美しさがそこにはある。
彫りが浅くなること自体は平安時代中後期の仏像の和風化の特徴といわれるが、特に上着の袍はとても自然でリアルな質感さえ感じさせ、日本の彫刻史の中でも屈指の充実した時代の平安後期・院政期の多くの仏像とも、また異なった風合がある。
よく見ると袍が赤で彩色されていただけではなく、一面に金の菱形の文様が押されていたことがわかる。帯にも金箔でなにか人のような文様が見える。
法隆寺といえばむろん飛鳥時代のイメージが強いが、平安時代の非常に手の込んだ完成度の高い仏像も、金堂の吉祥天と毘沙門天、講堂の薬師三尊、講堂裏の上御堂の釈迦三尊(いずれも国宝)や西円堂の千手観音菩薩(重要文化財)など、実は多い。それだけ平安京の朝廷や貴族にとっても重要な寺だったのだろうが、その中でもこの聖徳太子坐像はひときわ美しく、その独特の個性が際立つ。
衣冠束帯の服装で笏を両手で正面に捧げるポーズは宮廷の官職としての姿で、太子は「日本書紀」によれば推古天皇の摂政だったことから、「唐本御影」などと同じく「摂政像」と呼ばれる。
頭には冠の上から中国の皇帝が着用する冕冠(べん冠)を頂く。日本でも聖武天皇以降は即位式で冕冠をかぶるようになるが、聖徳太子の場合はなぜか、教えを説く時の姿の「講讃図」でもこの帝位を示す冠が描かれることがある。もちろん太子は天皇として即位してはいないが、「上宮法皇」「観音化身上宮法皇」「豊聡耳法王」など、「法皇」や「法王」という呼び名が用いられることも少なくない。
正面から見た表情は、皇帝・帝王の冠に相応しい王者・君主の威厳を漂わせる。口許をじっくり見ると、うっすらと唇が開き歯が少しのぞいていることに気づく。この「摂政像」は勝鬘経・維摩経・法華経の内容を講義・説法をする姿の「講讃像」でもあるのだ。胎内には飛鳥時代の銅造の観音像が納められていて、ちょうど太子の口の位置にその頭部が来ているのだそうだ。
教えを説く姿であるのは、聖霊院の位置や来歴とも関わっているのかも知れない。聖霊院と、西院伽藍を挟んで左右対称の位置にある三経院は、共に太子自身とその教えに直接関わる施設であり、南北に長細い僧坊の東室、西室の最南端を改造して設けられている。
つまり、どちらも僧侶の日常の生活と修行の空間に隣接・接続している。そして三経院の名は太子の遺した仏典の研究書「三経義疏」に由来し、太子の仏教学における業績を学びそれを引き継いで勝鬘経・維摩経・法華経を研究する場所であり、聖霊院は太子自身を祀った場所、修行者たる僧侶がその太子の「霊」に近づき接し、祈る場だ。
もちろん年に一回の開帳の時には、間近にいろいろな角度から見て、その多様な表情を見つけるのは難しいだろう。その点でも今回の公開はとても貴重な機会になるが、見る角度によって太子の顔が厳しそうにも、やさしそうにも見える。
政治においては九人の話に同時に耳を傾けて、自らは「和」を説いた摂政で、観音菩薩の化身で阿弥陀如来にも通じる太子の慈悲と、難解な経典を速やかに読み解いてその内容を講じ、仏法への帰依を説いた太子の厳格さ、こうした太子の両面を、この像は伝えているのだ。
それにしても不思議なことではある。天皇にはなっていない太子が皇帝の象徴たる冕冠を着けて表象されているだけではなく、それが教えを説く時の姿だというのだ。もちろん中国の皇帝にも、神話的な時代に遡れば三皇五帝のように人徳と智慧で国を治め、たとえば治水工事の天才だった禹のように、その知性と善性で民に尽くした伝説はある。だがやはり現実の中華帝国皇帝たちは秦の始皇帝以来、巨大な軍事力と確固たる官僚制度を従えて絶大な権力を誇った、俗世的な力の存在だ。
だが聖徳太子がその絶対権力と権威の象徴のはずの冕冠を着用し、王者の威厳をたたえて表象されるのは、軍事力や政治権力とは無縁の、難解な経文を読解・解釈できる知性が発散され、その教えが周囲に伝えられる瞬間なのだ。人々はそこに強大な国家権力ではなく、知とそれを伝える行為によってこそ真の帝王となる姿を見たのだろうか? 太子が「法皇」「法王」と呼ばれるとき、その「法」は「法律」の意味ではなく「法則」の法、仏教の三宝「仏法僧」の法で、仏が悟りによって到達した世界の根本原理・真実のことだ。
いわば知と徳でこそ君臨する帝王としての太子像には、仏具を携えた四体のお付き・侍者の像が付き従う。角髪(みずら・古代の子供の髪型)を結った三人は、太子の長男で非業の死を遂げた山背王、そして弟の殖栗王と卒末呂王だ。
王子たちが手に持つ如意や玉手箱、剣には、繊細な蒔絵細工や螺鈿が施されている。太子像の衣服にうっすら残る凝った金の装飾も含めて、これだけの高度な技術と財力を注ぎ込まれた像の重要性、つまりは平安時代の中後期にも太子がどれだけ重要な信仰対象だったのかが、こうした細部からも見て取れる。
柄絵香炉を持った僧形の像は、高句麗から来日した僧侶で太子の仏教の師となった恵慈だ。
四体の侍者像は太子像のリアルで凛々しい風貌とは対照的に、顔立ちなどなんともユーモラスな雰囲気を漂わせる。これは作風の違いと言うよりも、表現しているものが違うのだろう。衣の洗練された柔らかさなど、作風には明らかに共通性があるように思える。