「教科書にも載ってる国宝」の代表格・「玉虫厨子」の荘厳
学校の日本史の教科書で必ず見る国宝の「玉虫厨子」も、この後半(第5章)の展示の大きなクライマックスのひとつだ。教科書などの小さな写真だとイメージが湧かないかも知れないが、実物はとても大きく、荘厳だ。
この厨子もかつては金堂に置かれていた。見れば見るほどに、まず細部に至るまでの木彫や彫金の精度、古代の工芸の技術レベルの高さとデザインの洗練に圧倒される。
台座には四方に漆と顔料で仏教説話が描かれ、その上に載った仏像を収める宮殿(くでん)部分は、まるで建築模型のような趣きだ、
宮殿の内部と扉の内側をびっしりとマス目状に覆っているのは、極小の仏の浮き彫りだ。古代の寺院の壁面は、仏像を浮き彫りにした大きなタイル上の陶器(「塼仏」)で覆われていたとされるが、その光景を精緻な金工で再現したものだろう。屋根を支える軒下の構造物も、飛鳥時代の建築に独特な形そのものだ。
宮殿の中に安置されているのは現在は飛鳥時代の観音菩薩立像だが、古い記録によればこれは元の本尊ではなく本来は金銅の阿弥陀三尊像だったという。
「玉虫厨子」と呼ばれるのは、昆虫の玉虫の羽根が装飾に使われているから、と小中学校の日本史の教科書では習うが、今ひとつなんのことかよく分からなかったのが子供の頃の記憶だ。その羽根はこの宮殿の、柱や梁などを再現した部分の金属装飾に貼られていたそうだが、さすがに1400年前後も経てばほとんどが剥落してしまったか、変色したり埃が付着して見えなくなってしまっている。
ただ向かって右側の側面の扉の、右下の蝶番の内側には、その玉虫の羽根らしきものが残っていて、角度によってはキラキラ輝いて見える。
台座は上部・下部の花弁を模した返り花などの装飾彫刻の精緻さが圧倒的だ。漆と顔料で描かれた四面の絵も、当然変色はしているのだろうが、今でも非常に美しい。両方の側面の絵は、釈迦の前世の自己犠牲についての仏教説話がテーマだ。
ここにも不思議な謎がある。記録では元は阿弥陀三尊が安置されていたとあるそうだが、台座の絵は釈迦の前世だ。ならば阿弥陀ではなく釈迦三尊の小像でないと合わないのではないか? またそうだったとすると、なぜその本尊が釈迦(ないし阿弥陀)から観音に入れ替わったのだろう?
飛鳥時代の法隆寺とその後の太子信仰の歴史を往復する
この「玉虫厨子」まで来て、その内部に安置された本尊像についての謎を考えていて、ふと気付く。
展覧会の最初に展示されていたのは、太子の肖像とそれを取り巻く太子と同時代の文物だった。そして法隆寺の歴史を追って中世まで太子信仰の歴史を観て来た我々は、金堂・五重塔の諸仏や文物とかつて金堂にあった「玉虫厨子」で、実は展覧会の最初の飛鳥時代に、再び引き戻されている。
もし元は釈迦三尊が納められていたのなら、それが観音菩薩に入れ替わったことには、それは展覧会の前半で展示されていた聖徳太子への信仰の歴史がなにかしら関わっているのではないか?
法隆寺自体が金堂と五重塔が中心の「西院伽藍」と、太子が住んでいた斑鳩宮の跡に奈良時代に建てられた夢殿を中心とする「東院伽藍」に分かれている。夢殿の本尊の秘仏・救世観音菩薩は太子の等身大像で分身とされ、太子を観音菩薩の化身とみなす信仰の中心となった。博物館新館の西側の棟の二つの長いギャラリーの展示内容は、この東院に対応したものだともいえる。
たとえば奈良だけの展示で展覧会の大きな目玉になる国宝の「聖徳太子絵伝」(東京国立博物館・法隆寺献納宝物)は、もともと東院の「絵殿」の壁面を飾っていたものだ。
聖徳太子と同時代の建築や文物が保存されて来た1400年前の歴史と、長い歳月の中で生きた信仰として継承され発展して来た聖徳太子を愛し信じる歴史。この二つの複雑に絡み合った複合的な時間を、その複雑さを損なうことなく明解に整理して提示しているのが、この展覧会の二部構成の展示なのだ。
知的にも、とても刺激的だ。法隆寺に流れる二つの重なり合った歴史の関係を考えさせられ、金堂の諸仏や「玉虫厨子」に辿り着いたところで、その後の1400年の歴史をまた見直して確認したくなってしまい、つい前半の展示を確認しに行ってしまう。