まず1400年前の文物・文化遺産の豊穣さに圧倒される

「日本書紀」には太子の創建した斑鳩寺(若草伽藍)が天智天皇9年、西暦670年に落雷で焼失したとあり、その後まもなく、正確な年代は分からないものの「日本書紀」の成立以前に、現在の金堂・五重の塔・中門、回廊が建てられている。世界最古の木造建築なのは直接戦乱に巻き込まれず、大火災もなく、1300年以上も丁寧な手入れと修理が重ねられて来た結果でもあるとはいえ、そもそも極めて上質な材木を集めて建築技術も高度だったからこそ残ったものだ。

世界文化遺産・法隆寺 国宝・中門の柱の見事な材木と造形、洗練された建築技術 飛鳥時代7世紀
礎石に接する最下部は水や湿気が溜まってどうしても痛みやすく、後代の修理で新たな部材で補修されている。

法隆寺の飛鳥時代に遡る伽藍と文物の豊富さ・質の高さを考えれば、これだけの大変な技術力と人的資源、資材と財力が注ぎ込まれたのは、当時(つまり「日本書紀」成立以前)の朝廷にとって太子がすでに重要な信仰対象で、斑鳩寺の焼失をそのまま放置できなかったから、と考えるのが、釈迦三尊像の光背の銘文などを踏まえても、筆者にはもっとも自然で合理的に思える。

その銘文についても、「非実在論」の大山教授は後代に書き込まれたのでもおかしくはないと主張している。一方でこの展覧会の図録の冒頭論文では、東野治之・奈良大学名誉教授が、像の造形自体の詳しい分析から、光背の裏面に正方形の平板な部分が成型されていて、銘文はそこにぴったり収まっていて、造立当時すでにこの長さの銘文が入ることが想定されていた可能性を指摘し、併せていわゆる「非実在論」についての冷静で客観的な評価も含めて、太子をめぐる史実について分かっていること、分からないこと、史実としての厩戸王と、その後の信仰対象としての聖徳太子をめぐる史実を丁寧に整理して提示している。

世界文化遺産・法隆寺 金堂 外側の裳階(もこし)部分の正面扉
窓枠状になって格子がはまっているように見えるのは、すべて巨大でぶ厚い一枚板から削り出されている。写真はないがこの内側の、内陣の扉はさらにぶ厚い見事な一枚板で、13000年以上の歳月を経ても狂いがまったく見られない。この内側の扉が本来の正面扉で、この写真を含む金堂の下層(一階部分)を取り囲む裳階は補強などの目的で後から付け加えられたもの。今では参拝者が入って拝観するスペースになっているので外陣のように見えるが、本来はここはすでに堂の外。内陣の外側がそのまま本来の外壁で、堂の中全体が仏の神聖な世界になっている。古代の仏堂では、人間は基本的に屋外から拝むものだった。

そもそも聖徳太子についてさまざまな仮説も多く、ミステリアスに思えるのには、単に根拠になる史料が限られているから分からないことが多い、という当たり前の理由がある。奈良時代なら「続日本紀」がすぐ後の平安初期にまとめられ、加えてリアルタイムな歴史文書として平城宮跡から膨大な木簡も発見されているし、平安貴族は前例踏襲・有職故実の維持のために日記でもなんでもとにかく記録を残すようになる。

だが飛鳥時代の文字記録は、仮に書かれていたとしても現存例がないから分からない、としか言いようがない。奈良時代の木簡ですら、残っているのは奇跡的に木が腐食しない条件が偶然揃った場合だけだ。

観音菩薩立像「夢違観音」 飛鳥時代7〜8世紀 奈良・法隆寺 国宝

これは聖徳太子に限ったことではないはずで、太子についてのみセンセーショナルな「非実在」まで含めてさまざまな仮説が出て、一般にも知られているのは、なによりも日本人にとって古代史でもっとも重要で、もっとも気になる人物が聖徳太子だから、ということに他なるまい。

そんな文字記録の不在の代わりに、聖徳太子の「謎」と創建当時の法隆寺の信仰に迫る手がかりとして貴重なのがモノ、つまり法隆寺の伽藍と、引き継がれて来た宝物・文物の、豊穣な文化財だ。

月光菩薩立像 飛鳥時代7世紀 法隆寺に「六観音」として伝わって来た六体の菩薩像のひとつ、重要文化財
この「伝六観音」の全六体を展示。背景には法隆寺金堂の火災前の壁画の精密なモノクロ写真を転写したパネルが貼られ、金堂内部のイメージを再現している。

あいにくコロナ禍で旅行・移動も慎重にならざるを得ないが、本当ならその法隆寺の宝物・文物の数々を奈良国立博物館で見てから法隆寺へ、さらに同じ斑鳩の法起寺や法輪寺も訪ね、明日香村の飛鳥寺や大阪の四天王寺にも足を伸ばし、太子の陵墓とされる大阪府太子町の叡福寺境内にある磯長墓へも…というツアーを組んでもよかったのかも知れない。

またこの展覧会はそれだけ、日本人とは何者なのか、我々のアイデンティティを考える上で重要で貴重な機会ともなっているし、斑鳩寺=法隆寺と本尊・釈迦三尊、今回出品されている薬師如来坐像(タイトル画像・国宝)の成立経緯や伝承は、その我々が今向き合っている困難とも符号するところがある。

薬師如来坐像 飛鳥時代7世紀 三重・見徳寺
上の写真の「伝六観音」の一体と伝来する月光菩薩に似た子供のようなあどけない顔立ち。見徳寺には客仏として伝わり、「伝六観音」と同じ工房で斑鳩で製作されたものかも知れない。

とはいえ、そのモノの解明も、まだまだ今後の研究や再検証の宝庫であるらしい。

タイトル画像で紹介した金堂・東の間の薬師如来坐像は、太子の父・用明天皇が病気平癒を祈願して発願し、推古天皇と太子がその遺志を継いで建立した元の斑鳩寺(法隆寺の前身)の本尊だったもの、と筆者は無邪気に信じ込んで来た。

薬師如来坐像 飛鳥時代7世紀 奈良・法隆寺(金堂安置)国宝

だが会場の解説文によれば「製作年代について議論がある」という。え? 斑鳩寺が創建された推古天皇15年(西暦607)じゃないの?

古代のパンデミック克服政策として生まれた法隆寺

用明天皇2年(西暦587年)、太子が16歳のときに疱瘡(天然痘)が流行した。父の天皇もこのパンデミックに倒れ、病床で疫病の退散を祈って斑鳩寺の創建を発願したが、かなわぬままに崩御してしまう。

天然痘は、朝鮮半島との活発な往来が日本への感染経路になったのだろう。古代の日本で朝鮮半島や中国本土との交流がいかに重要だったのか、法隆寺とその宝物・文物はそのエビデンスの宝庫でもあるが、交流がある以上は疫病の伝播もまた避けられまい。

如来および脇侍像 朝鮮・三国時代または飛鳥時代 6〜7世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物) 重要文化財
太子の祖父・欽明天皇の時代に百済から仏教が伝えられた時、百済王が贈った仏像は長野・善光寺の絶対秘仏本尊になったと考えられているが、この像はほぼ同じ形式(のちに「善光寺式阿弥陀三尊」と呼ばれる構成)で、もしかしたら百済から伝わった日本最初の仏像ないしその写しの可能性もある。科学調査の金属分析によれば、中央の如来は朝鮮半島製で左右の菩薩は日本製の可能性が高い。

父の崩御後、皇位の継承と仏教を守るか排斥するかをめぐって蘇我馬子と物部守屋が争い、激しい内乱が起こる。太子は馬子側・仏教側で参戦して戦勝を四天王に祈願し、勝利を感謝して創建したのが大阪の四天王寺だ。

この戦いで「仏敵」として滅ぼされた物部氏だが、仏教の振興に反対したのには、現に大陸と交流して仏教を導入した結果が天然痘のパンデミックではなかったのか、用明天皇も亡くなったのは、仏教に祈っても効果がなかったではないか、というそれなりにもっともな理由もあった。

「聖徳太子絵伝」より、馬子が建立した法興寺(飛鳥寺)を襲撃する物部守屋の軍勢
秦致貞 聖徳太子絵伝 平安時代延久元(1069)年 東京国立博物館(法隆寺献納宝物) 国宝 (部分)

いずれにせよ太子が政治の表舞台に初めて登場した物部氏と蘇我氏の内乱のきっかけにも、法隆寺の起源にも、パンデミックがあったというのは、今この時期に改めて深く感じるものがある。

のちの太子信仰では、父が臨終の床にあった時の太子による親孝行が、四天王に祈願して物部守屋に勝利したこと以上に重要なエピソードになり、病の父を見舞って柄香炉を手に仏にその快復を祈る姿が中世に仏像として多く作られることになる。たとえば法隆寺の夢殿の東面や飛鳥寺にもこの「孝養太子(十六歳像)」像が祀られており、今回の展覧会では奈良県・成福寺の本尊の、憂いを帯びながらも凛々しく少年らしい顔立ちの太子像が出品されている(重要文化財)。

聖徳太子立像(十六歳像・孝養太子)鎌倉時代 13世紀 奈良・成福寺 重要文化財

よく見ると、鮮やかだったであろう彩色が今も随所に残っている。金の使い方のアクセントが効いていて、とても華麗で美しく、みずみずしい。

法隆寺の本尊・釈迦三尊像も、今度は太子と母と妻が病に倒れたためにその回復を祈って計画され、しかし三人が相次いで亡くなってしまった翌年(推古天皇31・西暦623年)に完成した。三人が立て続けに死去、ということはやはり感染症だったのだろう。この時点でも、斑鳩寺・のちの法隆寺は、パンデミックに苛まれた古代の人々のための祈りの寺だったのだ。

近代科学もなく医学もなかった時代、そうした国家の祈りは感染症対策の「政策」に他ならない。