言葉に寄らない視覚表現だけで「物語」を伝えていた「鳥獣戯画・甲巻」
「伴大納言絵詞」の上巻には詞書、つまり言葉によるシーンやストーリーの説明がない。絵巻物としては例外的な、視覚だけに依拠した表現もまたとても「映画的」だが、同じく詞書がまったくないのが「鳥獣戯画」の特異さのひとつだ。それどころかこの場合は、なにかしらの言語化され得る物語を直接表象する機能を持っているようにすら見えない。
「三大絵巻」がどんな事件や物語、宗教的な伝承を伝えているのかがそれぞれ明白であるのに対し、「鳥獣人物戯画」にはそもそも詞書を含めて文字情報がほぼ皆無なだけでなく、本当は何が描かれていて、それがなんのためだったのか、成立の経緯どころかどんな物語なり教訓なりを伝えるために描かれた絵巻なのかも一切不明で、推論する手がかりすら絵そのもの以外にはない。
手塚治虫や高畑勲、宮崎駿が絶賛して来た「国宝・鳥獣戯画」とは全4巻のうち「甲巻」のことで、正式名称は「鳥獣人物戯画」ながらこの巻には動物しか登場しない。もちろんウサギとカエルの相撲とか、終盤のサルの僧侶が袈裟を着てカエルの本尊の前で読経する有名なシーン、といった擬人化された表現は、本当は動物ではなく人間社会を描いた風刺だから「人物」とも解釈はできるだろう。
擬人化された動物が人間のようなことをやっていると一口に言っても、「甲巻」の冒頭の川での水浴びのシークエンスなら、人間と動物のアクションに大きな差異はない。川辺の岩と水の流れから始まってその川で泳ぐウサギやサルたちというのは、その意味で実に完璧な出だしで、すんなりとこの絵巻の世界観に入り込める。そこに続くのは、最初は秋草の咲くなだらかな丘陵でのまだまだかなり無邪気な追いかけっこだったりするのが、絵巻の展開の流れの中で、カエルとウサギの相撲の場面ではカエルがウサギの耳に噛み付いていたりと、次第にグロテスクな暴力性の表現が入り込んでくる。
「甲巻」から切り取られて別の掛け軸に仕立てられたとみられる断簡には、シカを馬に見立てた競馬のシーンでサルがウサギの耳を引っ張って落馬させようとするシーンなどもある。カエルたちの田楽踊りも、楽しく踊っているというよりは酔っ払っているのか、狂騒的な馬鹿騒ぎの雰囲気が漂うし、キツネがサルの僧侶に賄賂を贈ってるかのような描写もある。
このように、「甲巻」のユーモアは最初はあどけない、おおらかなものとしてはじまりながら、次第にブラック・ユーモアの色合いが強まっていくのだ。
そして最後のクライマックスが、カエルの本尊を前にインチキな法会を営むサルの僧侶だ。もはや山中の小川で無邪気に泳いでいるウサギやサルたちの姿とは別世界・別次元の表現だ。このように全体の流れの中で次第に激しさ・複雑さ、強烈な風刺の度合いを増して行く絶妙なクレッシェンドの流れに構成されていたことが、今回の「甲巻」の全体を(それも「動く歩道」で半ば自動的・強制的に「流れ」として)一気に見られる体験によって、初めて明瞭になったように思える。
言語による物語的な説明が一切ないものを、個々の一見ランダムなシーンの順序とつなぎの構成によってこそひとつの大きな流れとして見せること。「鳥獣戯画」の「甲巻」は実は、「伴大納言絵詞」のサスペンスフルな上巻以上に「映画的」な表現なのではないか? それも「伴大納言絵詞」上巻がグリフィス的ないしヒッチコック的な、古典的な演出の巧みさの代表例に比せられるとするなら、「鳥獣戯画」甲巻はルイス・ブニュエルの特に『ナサリン』以降や、アンドレイ・タルコフスキー、あるいはフェリーニのような現代映画の演出に近いとも言えるかも知れない。
もっとも、「鳥獣戯画」を風刺画と受け取るのは、あくまで現代人の価値観なのかも知れない。描かれた目的はまったく違っていたのではないか、という説も根強く、たとえば動物が楽しく遊んでいる姿がそのまま神々を喜ばす捧げ物になったのではないか、という中世の信仰文化に基づく解釈も主張されている。
いやしかし、水遊びや追いかけっこや田楽踊りならまだしも、カエルの本尊とサルの僧正のインチキ法会に至っては、「楽しく遊んでいる」と受け取れるものなのだろうか? 人間社会、例えば組織宗教に対する痛烈な風刺と受け取らないのなら、一体どういうふうに見ればいいのか、かなり悩むところだ。
しかも元々描かれた時の目的や発注主は不明ながら、「鳥獣戯画」が納められているのは京都の西北・栂尾にある高山寺、山中の修行道場にして、仏教の学問研究の寺として知られて来た名刹だ。
高山寺は仏教の教義とその解釈に関わる膨大な文献を伝えて来た寺で、教義研究のための経典やその解釈書などの文書だけでなく、特に仏画や堂宇の壁画を記録のために墨一色で模写したり、仏画の約束事を指示し伝えるためにやはり墨一色で描かれた「白描画」も多数伝来していることが知られている。
やはり墨一色で描かれた「鳥獣人物戯画」も、恐らくはそうした高山寺の「白描画」コレクションの一部だったようで、現にそうした「白描画」や文献と同様に「高山寺」の印が紙の継ぎ目に押されているのだが、そうなるとこの絵巻、とりわけ「甲巻」のクライマックスのカエルの本尊とサルの僧正の法会がいったい何を意味するのかは、辛口の風刺ではなかったとするのなら、ますますわけが分からなくなる。
というか、やはりこの「戯画」は風刺目的で、学問寺たる寺院が所蔵して来たのはここで学ぶ僧侶たちへの戒めとなった、と考えるのがもっとも自然に思えるし、またそう受け止めるのなら、最初は川で無邪気に水遊びに興じたり、お互いに毛繕いをしていたりした動物たちが、半ば遊びとはいえ次第に競争や争いを始め、人を喰ったようなインチキ法会に至るという展開には、権威化した宗教組織の成員がしばしば陥りがちな傲慢さと欺瞞・偽善への警鐘、という明確な教訓も読み取れるだろう。
ウサギとサルとカエルの「キャラ」で有名な「甲巻」は、「鳥獣人物戯画」の一部でしかない
正式には「鳥獣人物戯画」と呼ばれながら、「甲巻」には人間はいない。鳥ですらクライマックスのインチキ法会でカエルの本尊の横でフクロウが木に止まっているだけなのだが(古代ギリシャならフクロウは叡智の象徴だが、このフクロウは何を意味するのだろう?)、実際にこの絵巻には甲・乙・丙・丁の4巻があり、「鳥獣人物」には他の3巻の内容も含まれている。
「乙巻」はいわば中世日本の動物図鑑の趣きで、馬や牛に始まって、犬や鶏や鷹といった身近な鳥や獣が生き生きした筆致で前半に描かれ、後半では当時の日本では文献だけで知られていたゾウやトラ、獅子(ライオン)やバク、果ては麒麟や鳳凰のような霊獣も紹介されている。掲載した抜粋画像ではいささか分かりにくいかも知れないが、左右の両端に丘の稜線が見えるように、「甲巻」と同様に背景となる山などの自然も適宜描き込まれ、絵の連続性も表現に取り込まれている。とは言っても題材自体は、連続性や流れに基づく展開が意識されるようなものではない。
後半に登場する鳳凰や麒麟は、現代人の感覚では「想像上の生き物」「霊獣」と認識されるのだろうが、これが描かれた平安時代後期から鎌倉時代にそうした区別はなかったことは言うまでもあるまい。例えばインドに実在するサイも、中国を経由するあいだに硬い皮膚の背中がカメのような甲羅になって実物とは似ても似つかぬ姿になっているし、ゾウやトラもサイも麒麟や鳳凰も、実物は見られないが文献によれば中国大陸かそのさらに彼方の天竺(インド)や西方にいるはずの生き物という点では、この絵巻が描かれた時点ではほとんど等価に認識されていたはずだ。
ちなみに抜粋の画像の右がその背中に甲羅があるサイ、左が麒麟だが、こちらは現代の日本でいうキリン、アフリカ原産の首が長い草食獣とは関係がない。近代に、上野動物園がこの動物を輸入・購入した際に霊獣にちなんだ「キリン」という和名をつけたのだが、どうも政府から予算を獲得するために、これこそがかの有名な吉祥の霊獣である麒麟の本物と装ったらしい。もしこの策略が本当に通用したのなら、逆に言えば明治の当時でも政府の役人の認識では、麒麟が実在しないまったくの空想の産物ではなかったのだろう。
「人物」が登場するのは「丙巻」の前半と「丁巻」だ。
「丙巻」ではまず、双六や闘鶏、闘犬などの遊びというか賭け事の光景が、次々と紹介される。「甲巻」や「乙巻」のように、場面と場面のつなぎの機能を担う背景・風景の描写はないが、「目くらべ」(現代でいう「にらめっこ」)の次に闘鶏が来るとき、闘鶏の見物客が後ろを振り向いてにらめっこを見て笑っている、というようにつなぎ・流れを意識した描写がところどころ見られる。上の抜粋画像でも右には僧侶たちが稚児を交えて双六に興じているが、左端の一歩下がったところに座った僧侶が右を振り向いて笑っている。視線の先には人物の足先だけが見えてそこに紙の継ぎ目が来ているが、ここは元々あった紙が抜けていて、後からつなぎ合わされているのだろう。残念ながらこの部分の断簡は現存が確認されていない。左の「耳引き」の場面も、右端にこの右にあったシーンの左端の人物のつま先だけが見え、その向きから考えるとこれも別のシーンの左端の人物が隣の「耳引き」を見ているつなぎの表現だったのかも知れない。
だがそうしたつなぎの表現で別々の光景を連続させてはいても、「丙巻」の前半も「乙巻」と同様の「図鑑」的というか、特段流れや展開を意識することなく異なった事物を羅列していく構成で、全体の流れの展開が意識されているように見える「甲巻」とは大きく異なっている。
「丙巻」の後半は、おそらく「甲巻」からインスパイアされたのだろうか、擬人化された動物たちがまるで人間のようなことをやっている。
ブラックな風刺の雰囲気は、この抜粋画像の祭り屋台の乱痴気騒ぎのように、「甲巻」の後半よりさらに強いかも知れない。
一見、なんの脈絡もなくひとつの絵巻になっている「丙巻」の前半と後半でまったく別の題材に見える構成については、2015年の展覧会の前に行われた大規模な修理の際の調査で、重要な理解の鍵が判明している。前半と後半の切り替わりの前後で、それぞれにある大きな墨のシミと小さなシミの位置が完全に一致したのだ。つまり、前半と後半は元は同じ紙の裏表に描かれ、その一枚の紙の裏と表を綺麗に剥いで分離させ(分厚い和紙はそういうことが可能なのだ)、前後につなぎ合わせて一巻に仕立てたのが「丙巻」だった。
ならば前半の人間と後半の動物は裏表に対応して対照的に描かれていた、とも考えられるのだが、どちらが先に描かれたのかも実はよく分からない。もしかしたら「甲巻」の模倣かパロディとしてまず後半の動物たちが描かれて、その裏に、動物たちの乱痴気騒ぎに呼応するように賭け事に興じる人間たちが描かれたのかも知れず、抜粋画像の双六に興じているのが僧侶たちだったり、別の場面では僧侶とおぼしき風体の人物が賭博で「身ぐるみ剥がされた」のか、素っ裸で座っていながら恥じらう様子もなかく笑っていたり、教えや戒律、道徳を無視する僧侶への風刺とも解釈できる描写も少なくない。それが動物たちの狂騒的な乱痴気騒ぎと裏表になっていたことを考えると、現代風にいえば「ギャンブル依存症」的な意味合いも込められているのかも知れない。
「丙巻」の末尾には、鎌倉時代の「建長五年」という年号が書き込まれている。「鳥獣人物戯画」全4巻の中でほぼ唯一の文字情報で、「丙巻」に関しては描かれた年代を特定できる根拠にもなりそうだが、ただしこれは別の紙を継ぎ合わせたその先だ。
一方で、後半の動物の描写は線が細いのに対し、前半の人間たちは太い線を織り交ぜて一部を強調する、抑揚のある筆致で描かれているように見える。だがより仔細に観察すると、太い線の部分は元にあった細い線をなぞって後から太い線に修正しているようだ。元の細い線の描写は鎌倉時代ではなく平安時代後期に遡る可能性もあるというが実際、この前半に描かれている遊び・賭け事はいずれも、平安末期・院政期には京都で流行していたものばかりだ。