狩野探幽 筆「両帝図屏風」江戸時代寛文元(1661)年 根津美術館蔵 狩野安信「牡丹猫・萩兎図」江戸時代17世紀 個人蔵

近世日本絵画の完成〜中国由来の伝統に「やまと絵」の感性も取り込んだ狩野派

周文、雪舟など禅僧でもある画家たちが日本で継承し完成の高みに結晶させた水墨画や「院体画」の、宋代の中国の絵画に源流を持つ系譜は「やまと絵」に対し「漢画」と呼ばれる。

だが狩野派をこの「漢画」の系譜をただ模倣継承したた流派と言ってしまうのは単純過ぎるし、それだけで天下一の絵師集団になれたわけもない。こうした水墨画の日本での最初の隆盛を築いた禅僧や足利将軍の側近集団「同朋衆」(代表的なのが義政の側近で文化的なブレーンだった相阿弥で、自ら水墨画を描き庭園のデザインでも活躍)に対し、狩野派はまず家業として継承される職業絵師一族の一門を形成したことが大きく違う。

伝 狩野元信 「四季花鳥図屏風」左隻(部分) 室町時代16世紀 根津美術館蔵

そのいわば「プロ絵師」集団としての狩野派の成功で大きかったのは、雪舟が巧みに描き分けたような、宋でそれぞれの文人画自分の描き方を探求した水墨画のさまざまなスタイルを、漢字の書体に習って「行書」「楷書」といった形式と表現上の定型に整理分類し、それぞれのテクニックや約束事を確立したこと(つまり、注文主の趣味をうまく聞き出せると同時に、その受注に併せた大量生産が可能)と、特に二代目・狩野元信が日本における「漢画」の様式を完成させるに当たって、他ならぬ土佐派と関係を築き、その「やまと絵」の構図や表現を持ち込んだところにある。

こうして元信が確立したスタイルは、足利義政が完成させた日本的な住宅建築様式の「書院造」にとてもフィットした絵画でもある。やまと絵のタッチが入っているので完全な中国風の厳格な格式よりも居心地はいいし、「楷書」「行書」「隷書」と行った全体のトーンの違いで襖を部屋ごとに描き分けて、空間ごとに注文主が求めた用途に併せた演出も可能になる。

伝 狩野元信 「四季花鳥図屏風」左隻(部分) 室町時代16世紀 根津美術館蔵
この元信スタイルの雁は狩野派の定番の画題になり、永徳や探幽の作品でもこれとそっくりの雁が描かれたものがある

元信の三男で兄2人が早世したために後を継いだ狩野松栄を経て、その息子の狩野永徳の代に、狩野派は織田信長・豊臣秀吉の「天下人」の美学を支える最初の絶頂期を迎えた。

この誰もが認める天才(それだけ一見で分かり易くもある)永徳の作品は、今回の展示には含まれていないが、画面からはみ出るような巨木を金地に、色数をあえて絞った迫力で描いた国宝「檜図屏風」(東京国立博物館蔵・本来は襖絵として描かれたもの)や、日本史の教科書でお馴染みの巨大な「唐獅子図屏風」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)は、写真ならば誰しも、どこかで目にしたことがあるだろう。信長の安土城、秀吉の伏見城、聚楽第、大坂城の障壁画も永徳が手がけ、こうした堂々たる威圧的で華麗な絵画に満たされていたのだろうが、これらの織田・豊臣政権の豪華な巨大城郭が廃城になったり焼失し、永徳の大半の作品が失われてしまっているのはかなり残念で、現存作品数も少ない。その意味でも永徳はまだ、「戦国の絵師」だったのだ。

狩野尚信 「文殊・荷鷺・蘆雁図」江戸時代17世紀 根津美術館蔵
尚信は探幽の弟。仏画の三尊形式で脇侍に仏でなく仏を仮託したした自然物を描くのは禅の形式。中央の童形の文殊菩薩と左右の鷺・雁でスタイルを使い分けている。左の雁は、上掲の伝・元信の雁の形は基本的に踏襲しながら、タッチは「行書体」でよりラフ

分かり易く言ってしまえば「ド派手でゴージャスな安土桃山時代」を代表する絵師として、秀吉の時代に永徳は相当に多忙になったようで、わずか数え48才で亡くなったのも過労だったのかも知れない。その子・孝信の息子で永徳の孫に当たるのが、16才で幕府御用絵師になった狩野探幽だ。

幕府御用絵師といえば江戸城、徳川再建の大坂城、二条城、名古屋城などなど、徳川幕府の政治的威信をかけた巨大で華麗な城郭の襖や障壁画、間仕切りに使う屏風を大量に描かなければならず、その幕府の威光に倣って諸大名もその城や屋敷の襖絵を狩野派に発注した。さらに戦国時代に焼失してしまった寺社が幕府の牽引で次々と復興されていた江戸時代初期には、襖絵や壁画、天井画の需要も膨大だった。狩野永徳が亡くなったのは京都五山・東福寺の再建された法堂の天井画を製作中だったが(この建物は明治時代に火災で焼失)、今の京都では大徳寺、妙心寺のそれぞれの再建された法堂の天井画で、比較的若い頃と晩年の探幽が描いた巨大な雲龍図を見比べることもできる。

狩野尚信 「文殊・荷鷺・蘆雁図」より「荷鷺」 江戸時代17世紀 根津美術館蔵

最大の大仕事であったろう江戸城と大坂城の御殿こそ現存していないが、二条城、名古屋城の御殿の障壁画や、日光東照宮、同じく日光の輪王寺大猷院霊廟、東京の上野東照宮の壁画、京都の大徳寺、妙心寺ぞれぞれの方丈の襖絵、西本願寺の豪壮な書院、南禅寺の方丈の虎、南禅寺金地院などなど、探幽が自ら描いたり狩野派一門を総動員して完成させた作品には今日でも比較的多く見られるし、他にも将軍家や大名家、有力な寺社のために描いた屏風なども多く現存している。

当時としては驚くべき長寿だったこともあって、自ら大量の作品を手がけているだけでない。巨大な弟子集団を指導して工房を経営し、弟子たちのための絵手本も描き、いわば自らのテクニックやスタイルを忠実に模倣・大量生産できて継承もできる人材育成の体制を確立した功績も大きい。また鎌倉時代・室町時代に輸入された中国絵画や、雪舟などの古典的名作の模写を繰り返すことも、狩野派の絵師育成の重要な一部分だった。

狩野栄信「倣馬麟夕陽山水図」江戸時代19世紀 根津美術館蔵
中国・南宋の画院画家である馬麟が描いた「夕陽山水図」(重要文化財、根津美術館蔵)の模写。著名な名画の模本を所有し、それに則って絵画制作を行うことが、御用絵師の権威に裏付けとなり、狩野派は家の総力を挙げて古画の模写や模本の制作をしていた。この作品は古画の学習が御用絵師に重要であったことがわかる好例。

この抜群の安定感が逆に、狩野派が現代ではあまりおもしろがられない、古典的すぎて「退屈」的に思われてしまいがちな理由というか、誤解される原因なのかも知れない。

絵の題材も、なにしろ権力・権威筋の注文に応じているので保守的な画題が多くなるのも確かだし、探幽があまりに完璧に「御用絵師・狩野派スタイル」を完成させてしまった結果、その後の江戸の狩野派は探幽を越えられないままその模倣に形骸化し、絵としてつまらなくなってしまったと言われるのも分からないではない。浮世絵の町絵師でも狩野派に学んだことをステータスにする者が多かった一方で、狩野派そのものの正統・王道の系譜では、プライベートなスキャンダル続きで正式な養子になり損ねた久住守景や、破門された英一蝶、京都に残った養子筋の狩野山楽、山雪らの京狩野の方に、独創的で見るべき作品が多い。

だがそれは逆に、それだけ狩野派の完成者・狩野探幽が模倣して超えることが不可能なほどの境地に達した、生真面目な天才だったことも意味する。

祖父・永徳が信長・秀吉のために確立したスタイルは「大画様式」と呼ばれ、木を描くなら画面の中心にその画面からはみ出すほどの力強い大木を、と言ったダイナミックなものだ。戦国を征覇したことを誇示する天下人の、巨大な権力・武力を象徴する豪壮さに対し、探幽が確立した彼独自の、平和の時代の狩野派スタイルは、しばしば「余白の美」と言われる。

狩野探幽 「両帝図屏風」江戸時代 寛文元(1661)年 根津美術館蔵
右隻・左端上部

一見して圧倒されるほど分かり易いものでないのは、平和な時代に人々が絵をじっくり見て余韻も楽しめるだけの心の余裕も持ち始めた、ということでもあるのではないか? 「余白」が大事なのだから当然とはいえ、そのスタイルは言葉で説明するのもなかなか難しい。「両帝図屏風」の六曲一双の二つの画面のそれぞれに描かれた皇帝の逸話の、主役であるはずの皇帝は大きくは描かれず、つまり物語要素は二つ並べた時には画面のむしろ外側に位置し、中央側には大きな「余白」が広がる。

その余白には部分的に、ポイント、ポイントごとに、遠景の山や樹木、川や滝や岩と言った風景の要素が適確に配され、近景の宮廷の庭や池が、借景にになっている彼方の山河と美しく繋がっている。よく見るとその余白は、決して金でただ塗りつぶされているのではない。金泥(膠で解いて絵の具として使う金)と金砂子(細かく切った金箔)の反射率の違いを計算して絶妙に使いわけられ、さらには金の含有率の違いによる色調の違い(例えば銅が含まれると赤っぽく見える)と思われる効果も見て取れる。こうした信長・秀吉的な「絢爛豪華」とは異なった方向性の、金のデリケートな使い方もまた、余白の中に空間の無限の広がりを演出し、それが余韻となって、なんともいえない無常感すらただよい、永遠の時間の流れすら想起させる。

全体の構図は一見上品にまとまっていて、永徳のようなド迫力の威圧感はない。

しかし静かに落ち着きながらも、決して固まった、止まった画面ではない。余白の中に何をどう配置するかに、カンディンスキーのような近現代の抽象画にも通じる心地よいリズムがあって、見れば見るほど見飽きさせない風格と威厳がある。

狩野探幽 「両帝図屏風」江戸時代 寛文元(1661)年 根津美術館蔵

建物の立体感やその内外の人物たちには落ち着きながらも決して静的に留まらない落ち着いた存在感を持ち、それが風景と調和している。

目立つ派手さは確かにない探幽だが、そこには確かに、非常に美しく、そして一見おとなしいからこそ深い独創性があったのだ。これは探幽にしかできない才能であり、「御用絵師」集団として政治的権威の注文に応じた生産体制フォーマットを確立した彼の表の顔と、実は矛盾しているところが、またとても刺激的でもある。

山田常嘉斎(三代)「桜野馬蒔絵硯箱」下絵:狩野惟信 江戸時代18世紀 根津美術館蔵
狩野派は絵画製作だけでなく、こうした将軍家や大名家向けの工芸品の下絵デザインも担当した