※写真は主催者の特別な許可を得て撮影。展覧会場の写真撮影はできません
撮影:藤原敏史
江戸時代の絵画が昨今、注目されている。伊藤若冲の人気は急上昇でテレビドラマも作られたほどだし、尾形光琳ら「琳派」の洗練された抽象性とデザイン性の、近代美術・現代美術を先取りしたとも言える先進的な感覚は、世界的にも一貫して評価が高い。なお根津美術館は光琳の傑作中の傑作「燕子花図屏風」(国宝)を所蔵していることでも有名で、毎年庭園の燕子花(カキツバタ)の季節に併せて、今年は次回の開館80周年記念特別展「国宝・燕子花図屏風 色彩の誘惑」(4月17日〜5月16日)で展示される。
そんな江戸絵画の独創性を論じるときにしばしば比較対象にされ、いささか割りを食っているようにも思えるのが、日本絵画の正統中の正統、王道のなかの王道の「狩野派」と、平安時代以来の美意識を継承して来た「やまと絵」の伝統を引き継ぎ、安土桃山時代から江戸時代にかけて新たな展開を見せた「土佐派」だ。だからこそ「やっぱり一度は、ちゃんと見なければならない」と思わされるし、実際に見ていると、ステレオタイプ通りに「古典的で決まりごと通りで没個性」などというわけではまったくない。
それはそうだろう。古典・正統が王道となるまでには、その時代時代のクリエティヴの歴史があって当然なのだ。
信長・秀吉、そして徳川幕府の政治を「美」で支えた狩野派
狩野派といえば江戸時代には幕府御用絵師であり、土佐派は京都の宮廷に愛された。だが逆に、そういう政治権力や権威の箔付け、いわば「権力側」の絵画であることが、江戸時代中期に琳派や若冲、それに円山応挙ら円山・四条派が町人の支持で新しい美を開拓したことと比較されがちで、現代の文化的な受容の文脈では分が悪く見えてしまう。桃山時代に信長・秀吉に寵愛されて狩野派の覇権を確立した天才・狩野永徳の活躍に遡っても、安土城、聚楽第、桃山城、大坂城を豪壮な障壁画で飾った永徳よりも、そのチャレンジャーとして能登から京都に乗り込んだ長谷川等伯の方に共感し易いのが、現代人の価値観だろう。
だが逆に言えば、狩野派、例えば若干16歳で徳川将軍家の御用絵師となり73歳で亡くなるまで活躍し、狩野派の王道たる不動の地位を確立した天才・狩野探幽は、その才能と作品の美的価値よりも歴史的な文脈から見えてしまう物語性のせいで、現代ではいわば「割りを食って」しまっているのではないか?
探幽の、日本人の「余韻」を愛する美的感覚を絵画化した「余白の美」はその実、現代の日本人の生活美学にも通じる現代性を持つ。その美意識をこんな理由で見逃してしまうのは、どうなのだろう?
もちろん歴史的な文化財としての絵画を、その時代と切り離して「純粋に絵画として論ずる」のもまた無理があって、かえって浅薄な見方に陥ってしまう。だがその歴史的文脈に安易に現代の、民主主義的な価値観を当てはめて、先入観で見てしまうのもまた、あまりにもったいない。
たとえば今回の展覧会の目玉の大作のひとつ、探幽の「両帝図屏風」(タイトル画像左・上の画像右)を見てみよう。このような金屏風を発注するには、十万石クラスの大名の財力が必要だったといわれる。
探幽の祖父・狩野永徳は信長や秀吉のためにこうした金屏風を多数製作したが、その永徳の、例えばあまりに有名な「唐獅子図屏風」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)のような「ド迫力の派手さ」の強烈な威圧感と比べて、探幽の金屏風はいかにもしっとりとして落ち着いていて、派手さ華やかさを抑えた代わりの深みと余韻、そして時空の広がりを感じさせる。
古代中国の神話的な名君「五帝」のうち2人、黄帝と舜帝の逸話が、2面の屏風の右と左それぞれに描かれている。こうした儒教的な中国故事を描いた絵画は、徳川家康が幕府の公式学問として儒教・朱子学を奨励したことから、武家の支配層・諸大名の需要が高まったものだ。
右隻の黄帝は車輪と舟を発明して民衆の生活を向上させたという伝説があり、左隻の舜帝は「二十四孝」の1人で、子供の頃には継母に唆されて自分を殺そうとした父に、それでも孝行を尽くしたという。成長した舜は皇帝の摂政となって腐敗を一掃し、その功績と人柄を高く評価した先帝に帝位を禅譲され、安定した治世を実現したとされる、「聖人君子」の典型だ。謙虚な人柄だった舜は、皇帝としては禹の自分にはない能力を見込んで起用し治水事業を成功させ、晩年にはその禹に帝位を譲ったという。
儒教道徳というと、近代以降の日本では主君への忠義や礼節、親孝行や年長者への敬意、そして男尊女卑や「攘夷」の差別排外主義が強調されがちだが、江戸時代での受容はいささか異なっていた。儒教思想の根幹で、徳川幕府が特に強調したのは「徳治」つまり人格的に優れ教養の深い君主が「天命」を受けて善政を行うことで世の中が安定する、という政治理念で、「忠義」にしても君主に絶対服従などではまったくなく、忠臣の最も重要な義務として主君を諌めることすら奨励されていたほどだ。
うがった見方をすれば、徳川家康は織田・豊臣のたぶんに乱暴で強権的だった独裁が、どちらも短期政権ですぐに崩壊したことを、反面教師にしたのかも知れない。
明治時代に新政府が「忠君愛国」ナショナリズムに儒教道徳を利用したのとはかなり異なって、徳川家康は戦国時代を終わらせるためにこそ、儒教朱子学を奨励したのではないか? つまり、抑制的な権力行使の規範を諸大名に課して、独裁的な体制で対外的な武力行使や領土拡張の野心に向かう(その行き着いた先が、国内内乱の戦国時代が海外にまで波及した豊臣秀吉の朝鮮侵略だった)のではなく、内政の安定と領民の生活向上を意識させることで、戦国時代を絶対に再発させないことを狙ったのではないか。
たとえば探幽の時代には確かに、幕府は島原の乱で冷酷・残虐極まりないやり方で一揆軍を制圧したが、一方でこの大反乱は過度に年貢を取り立てたりした地元領主への反発から始まっており、その領主たちも領民の激しい不満を招いた罪を問われ、厳罰に処せられている。
こうした江戸時代初期の、幕藩体制の確立期に狩野探幽が御用絵師になったのは、ただ徳川という新しい政治体制を豪華に飾り立ててその威光を強調するためだけでなく、新しい時代の新しい政治道徳を視覚化して伝える役割も大きかった。この屏風に描かれたような古代中国の伝説的な名君たちは、将軍や諸大名にとって見習うべきお手本であり、つまりは大名達自身の自らの戒めや、子女の教育の目的もあったのだろう。
今回の展示探幽の作品に興味を持っていただけるなら、他にも例えば「士農工商図屏風」が東京国立博物館でだいたい2、3年に一度くらいは展示される。儒教が分類し江戸時代の身分制度の基本となった4つの職業/身分のうち、探幽の描写で力が入っているのは支配階級の武士よりも、農業と、特に絵画的に最も動きがあってクライマックスになっているのは「工」の身分つまり職人階級の、大工仕事の労働だ。大倉集古館には探幽の「鵜飼図屏風」(重要文化財)が所蔵されているが、夏の「遊び」の風景の絵画であっても、鵜飼いの行事を見物している上流階級は画面の下方・外側に描かれ、全体の主役としてより丹念に、もっとも目が行く位置に描かれているのは庶民である漁師・鵜飼い達だ。もちろんそうした労働の姿の方が動きがあって絵画としてより生き生きとして目を引く表現になり易い、という面もあるのだろうが。
狩野派には「四季耕作図」つまり農民の生活と労働を通年で描く作品も多い。探幽が指揮監督して自らも筆を振るった巨大プロジェクトとして、国宝・二条城二の丸御殿、西本願寺書院と並ぶ代表作の、名古屋城御殿(上洛殿)の障壁画(空襲で名古屋城が焼失する前に取り外されて疎開していたため戦災を逃れ、今では忠実な模写も製作され、復元された名古屋城御殿に常設されている)には、その年間の生活と労働を描く「四季耕作図」はもちろん、庶民の農村の村祭りを生き生きと描いた襖の部屋もある。
こうした庶民生活を描いた作品には、君主は民の生活をよく知って、常にその思いを慮って政治を行わなければならない、と支配者側の大名や将軍に意識させる機能があったと考えられる。ちなみに名古屋城の御殿は徳川幕藩体制を確立した三代将軍・家光が上洛する途上で立ち寄り宿泊するために建てられたものだ。
オフィシャル=中国風、プライベートでパーソナル=日本風、の日本の伝統
日本の風俗を描いた「鵜飼図屏風」は例外として、古代中国の皇帝を描いた「両帝図屏風」に限らず、「士農工商図屏風」や狩野派の多くの「四季耕作図」でも、服装などは日本ではなく中国の風俗で描かれている。探幽の水墨画の山水画(今風に言えば風景画)の名作も、屏風や寺院の襖絵(京都・妙心寺の大方丈や、大徳寺の方丈、西本願寺の書院)が多く現存するが、描かれているのは中国の名勝だ。
遣唐使が活躍した奈良時代に遡ってかそれ以前から江戸時代まで、日本のオフィシャルな文化教養は、公式の場では中国的な文化や中国模倣の格式・形式が「正式」で、公文書も主に漢文だった。
古代に遡れば白鳳時代・天武持統朝に編纂された日本最初の正史「日本書紀」やその続きの「續日本紀」も、もちろん当時はまだひらがな・カタカナが発明されていなかったので当然とはいえ漢文で書かれていて、漢字表記でも部分・部分で漢字の音だけを当てて日本語(やまとことば)を書き写した万代仮名も見られる「古事記」とは対照的だ。平安時代にひらがな・カタカナが誕生して和歌や物語文学などの「やまと言葉」表現が絶頂を迎えても、公文書は漢字・漢文で、藤原道長の「御堂関白記」などの大貴族の日記も漢文だし、菅原道真が重用されたのも、和歌でも漢詩でも名手だったことが大きな理由だ。
天皇の即位礼も、奈良時代から江戸時代までずっと中国式の、ちょうどこの「両帝図屏風」に見られるような服装で行われ、日本式の衣冠束帯姿になったのは大正天皇の即位式以降だ。ちなみに天皇と並んで皇后も同席する即位式も大正天皇以降で、一昨年の今上天皇の即位式でも使われた高御座がこの時に新調されたものなのも、それ以前は天皇だけが即位し、高御座も天皇のぶんひとつだけだったからだ。これはおそらく、国王が夫妻で玉座に並ぶ西洋の慣例に倣った「国際水準」に併せた西洋化だったのだろうし、逆に前近代の即位式が中国風だったのは、それが古代以来ずっと、植民地時代の西洋進出以前のアジアの「国際標準」だったからでもある。
現代の我々が漠然と持っている「伝統」のイメージは、案外と近代以降に形成されたものが多い。その評価も西洋近代主義的な価値観に影響されていて、同時代の日本という文脈で考えれば「偏見」になっている場合も少なくない。その意味で、狩野派や土佐派を見直すことは、そうした現代的な色眼鏡をいったん外す視覚的なブレイン・ストーミングにもなりそうだ。
探幽の「両帝図屏風」の左隻に描かれた舜帝は「琴棋書画」の中国文人の教養に優れ、とくに五弦の琴の名手だったとされ、探幽の絵では玉座で臣下に対面しながら琴を奏でる姿だ。またその宮廷の一角では、子女が書物を前に勉強している。
また2人の伝説的名君の玉座の背後には、モノクロで水墨画の山水(風景画)が描かれている。
中国の「君子」の理想は貴族・政治家であると共に芸術文化に高い教養を持つことで、こうした風景画などの中国の水墨・山水画は北宋や南宋の時代にそうした文人たちが始めたものだ。それが鎌倉時代に仏教の禅宗と共にお茶の風習などと共に日本に輸入され、まず禅宗の僧侶の修行も兼ねて描くようになった。
職業絵師集団として、狩野派はその禅の文化に起源を持つ絵画の伝統(「漢画」)を継承している。探幽は自らの作品の中の絵画内絵画として、いわば自分たちの芸術の源流に当たるものをオマージュ的に描きこんでいる、とも言えるだろう。