時代にぴったりの商業性と「ガラス芸術」の追求、大量生産時代と「個性」の両立
一方で、ラリックのシール・ペルデュのガラス器は、単に上顧客相手の一点ものプレミア・ビジネスだけではなかったのではないか?
そう気づかせる流れを作り出しているところにも、この展覧会が必ずしも時系列を追うわけではない展示構成になっていること(むしろ1910年代の初期作品と30年代の晩期の作品が隣り合わせにあったりもする)ならではの刺激があり、そこにはラリックの仕事に対する理解の深さも明らかだ。
ラリックが駆使した代表的なテクニックの数々には、例えば磨りガラス加工の中でも化学反応を利用して表面を細かく腐食させ、そのキメの細かさを布地のサテン(satin、繻子) と形容した精緻な「サチネ satiné」加工のような、シャープに洗練されたモダンな表現がある。
微細にきめ細かいので、その加工の度合いの強さによっては、光をほとんど直接には透過せず、複雑な乱反射でほとんど真っ白か、銀にように見える。
一方で、その「サチネ」と対照的に、逆にフランス語で「古色」や金属表面の酸化作用(錆や、ブロンズの緑青など)による渋い色を指す「パティナージュ patinage」に喩えて「パティネ patiné」と名付けられた、顔料に天然ゴムを溶剤・定着剤に使った絵の具を塗って生乾きの状態で拭き取る表面着色の技法も多用されている。
いったん塗ったものを拭き取るので、窪みを中心に色が残ることになるが、これは手作業のプロセスになるし、当然ながら色の残り方には個体差が生じる。
純粋な大量生産プロセスなら同じ絵柄をプリントしたりして、基本的に全く同じ着色を施そうとするが、ラリックのガラス器はそこはあえて目指していなかったのではないか? 着色部分が明解なエナメル塗料による着色などは、ラリックはあまり用いない(本展でも花瓶「ベリー」「つむじ風」など数点しかない)。むしろ微妙な個体差が必ず、デリケートな余韻のように出るこの「パチネ」を多用し、それはより自然な手仕事・職人仕事的な高級感があり、時に古風な風合いも醸し出す。
こうした独自の技術を一通り紹介したあとで、一点もののシール・ペルデュは光の角度で色が変わって見える、不定形で曖昧な境界の風合いのオパルセント・ガラスの次に紹介される。
この順番で見ていくと気づかされるのは、シール・ペルデュのガラス器はただの「一点ものビジネス」とは言い難いことだ。
むしろシール・ペルデュはラリック作品の中で、ガラスの質感の多様性の追求と、その多様なガラス表面の質感の変容によって光をどうコントロールするかの実験の一環として、位置付けられるのではないか?
磨りガラスにはもっと目が荒く、一般的に用いられるサンドブラストもある。これは細かい粒子を研磨剤としてガラス面に吹き付けるもので、サチネほどのきめ細かさはなく、紙やすりで擦ったような効果を広い面で均一に行うことができる技法だ。ラリックはこの手法はサイン/ブランドネームの刻印以外では、晩年の作品にしかほとんど用いていないという。
きめ細かなサチネの磨りガラスは薬剤を塗布するためコントロールにより熟練を要し、真っ白になるまで加工するならともかく半透明な薄い効果ならば均一に出すのが難しい気もするが、そこが高級ブランドということなのと、完全に均一にはならないところに逆に風合いが産まれる。
表面加工の技術にばかり着目してしまったが、高度で複雑な技法の組み合わせはガラスの造形自体でも用いられている。大量生産が前提のラリックのガラス器でもっとも基本的に用いられたのは金型を鋳型にするか、外側だけの金型の内側にガラスを吹いて整形したものが多い。前者では高圧プレスをかけることでより分厚く頑丈で、かつ高級感がある加工が可能になり、後者は瓶などに適している。
だがこの写真の作品は基本、鋳型に溶けたガラスを流し込んで高圧力をかけて成形したものだが、それだけでは取手の部分が鋳抜けないはずだ。普通なら取手は別に成形してあとで本体に溶着するはずだが、このデザインでは女性像の太ももがそのまま取手へと繋がる曲線になっているので、継ぎ目が見えてしまう。
一点もので鋳型を壊すのでもない限りこんなデザインは不可能に思えるが、実は金型に溶けたガラスを流し込んで高圧力をかけるプレス整形を、本体部分と取手部分のふた通りの鋳型による成形を、ほとんど同時に行っているのだという。技術力とデザインが融合した、ラリック円熟の最高傑作のひとつだろう。