宝石や貴金属以上に美しく高貴な素材としてのガラス
と言うより、ガラス器を見るとき、我々はそのモノ自体を見ているのではない。光を見ている。
逆に言えばガラス工芸の魅力、ガラス作家の才能は、ガラスそのもののフォルムやそれを実現する凝った加工技術の高度さはもちろんだが、なによりもそうして造形されたガラスを透過する光をいかにコントロールするのか、にこそ本質がある。
どんなガラスを、どんな曲面や平面の、どこでどう使うことで、光をどう導くのか?
無色透明のガラスでこそ、その厚みやフォルムの凹凸、表面の処理でどこまで光を通すのかを曇りガラスや磨りガラスなどのテクニックを駆使して操り、いかに光を使ってガラスの物質的存在感や、空間をガラスの表面が横切ることで形成されるフォルムを見せるのか?
物理的な形態以上に、そこを光がどう通り抜けるのかのコントラストが、我々が見るそのカタチを作り出しているのだ。ガラス器とは光の彫刻であり、空間の造形に他ならない。
それにもちろん、「ただのガラス」ではない。そんじょそこらの宝石以上に高価だし、まずそもそもが、宝石以上に美しいガラスとして作られたものだ。なにしろルネ・ラリックにとって、世紀末のアール・ヌーヴォーの時代に金工ジュエリーでいったんは名を成したことに飽き足らず、これこそが宝石や貴金属よりも、と思って入れ込んだ素材が、ガラスだった。
むろんガラスにだってクリスタルなどより高級で材料費自体が高価なガラスはある。ラリックがガラス製作に乗り出す以前にはバカラ・クリスタルが最高級ガラス・メーカーとして君臨していたが、とはいえそのバカラ社も含めてクリスタル・ガラスさえ大量生産が可能になり、かつては希少ゆえに貴重で一部の職人にしか扱っていなかった素材が、劇的に安価になって普及し、ありふれた素材になったのが、近現代だ。ほぼ完全な平面で夾雑物もなく透明度の高い板ガラスは、現代では当たり前の窓の素材だ。逆に昔の手作りで凹凸や夾雑物が入るガラスがかえって手作り感もあって珍しく、大きな板ガラスが作れなかったので桟で細かく区切られた窓にもかえって美しさを感じるのも現代人だ。
産業革命の工業化のおかげで素材自体は極めてありふれたものになったガラス。ジュエリーなら、どんなにデザインとその作品化・製品化に技巧とセンスを注ぎ込んでも、その価値は原材料の価値、石の希少性と大きさや貴金属の純度に左右されるが、近代のガラス工芸は貴金属や宝石など、素材自体が高価で希少なものを使うジュエリーとは異なり、価値は作家のデザインとそれを実現する技術の創意工夫とレベル、どこにどの技術を使うのかのセンスにこそ、全面的に依拠することになる。
真に成功したガラス表現は、自然光でこそ輝く
「ラリックのガラスは、自然光だととくに美しい」と、この展覧会の中核をなすラリックのコレクションを所蔵する北澤美術館の主席学芸員・池田まゆみ氏は言う。今回は監修も務め、図版を兼ねた書籍(求龍堂刊)も執筆している。
…というか、ここまで読まれて来た読者には、こうして言葉を連ねて来た本文がある意味で、この池田氏の発言のための「いいわけ」でしかないことに、もう気づかれているだろう。「百聞は一見にしかず」の典型というか、言葉で書いているのと同じことは、窓から入る自然光の中に置かれたラリックのガラス作品の写真をご覧いただいた方が、はるかに説得力があるはずだ。
なおこの展覧会では北澤美術館の好意で、今のところ来館者の写真撮影は原則自由(混雑状況により変更あり)。写真好きな方はリピーターになって、異なった時間帯や天候で来訪すると言う楽しみ方もあるかも知れない。
すでにアール・ヌーヴォー期のジュエリー作家としてのラリックも、宝石・貴石の価値よりも自身のデザインや加工の創意工夫で勝負するかのように、宝石よりも色ガラスなどの使用が際立つ作品が多かったことの重要性も、池田氏が指摘している。つまりガラス作家への転向と、自然光の中でこそ美しさ際立つガラス作品を作り続けたことは、そのクリエイターとしての当然の進化だったとも言えるだろう。
なお北澤美術館は長野県の諏訪湖畔にある私立美術館で、近代日本画のコレクションの他、フランス世紀末・20世紀初頭アール・ヌーヴォーのエミール・ガレやドーム兄弟のガラス工芸の世界最大級のコレクションと、そしてその時代にはジュエリー作家だったラリックの、ガラス工芸に転じてアール・デコ時代に活躍した作品/製品の、これまた世界最大級かつ質的にも屈指のコレクションを持つ(北澤美術館ウェブサイト)。