今年の9月14日に56歳の誕生日を迎えたポン・ジュノ監督。『パラサイト 半地下の家族』(19)のアカデミー賞作品賞受賞以降も、彼の存在は世界映画における確固たる参照点であり続けている。本稿では、ちょうど6年前、第57回ニューヨーク映画祭での「ディレクターズ・ダイアローグ」における映画祭のアート・ディレクター、デニス・リムとの対談を振り返り、その言葉から今日に至るまで変わらぬ作家性を再考する。

このインタビューは2019年当時のものだが、2025年のいま読み返すことで、ポン監督作品の根幹に流れるテーマ——家族と階級、ジャンルと社会、そして映画という「記憶装置」——がいっそう鮮明に見えてくるだろう。

個人的記憶から普遍へ

ポン監督は『パラサイト 半地下の家族』(以下、『パラサイト』)について次のように語っている。

『パラサイト』について言えば、私も大学生の頃、非常に裕福な家庭で家庭教師をしたことがあります。その家の二階には専用のサウナがあって、少年が誇らしげに案内してくれたんです。あの家に入った瞬間に感じた、奇妙で不気味な感覚を今でも鮮明に覚えています。つまり、この映画は政治的メッセージから生まれたのではなく、あのときの個人的な記憶が原点にあるのです。

ここに、ポン監督作品を理解するうえでの本質がある。彼の作品は直接的な「社会学的命題」ではなく、まずは個人的な経験の記憶のなかに種を持ち、その後に普遍的な社会寓意へと発展していくのだ。

『パラサイト 半地下の家族』予告編

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社会学から映画への進出——シネフィル という原点

専攻は社会学でしたが、実際にはほとんど何も知りません(笑)。大学の授業や教授たちから強い影響を受けたわけでもない。私の時間はほとんど映画サークルに費やされていました。違法コピーのVHSで世界の名作を見て、理論書を読み、歴史を追いかけるようにして映画を学びました。500本のテープを番号順に管理するのが私の役割で、当時は本当に研究のために映画を見ていたのです。

もともと社会学を専攻していたポン監督だが、大学時代は映画にのめり込んでいた。この「体系的な鑑賞」の背景には、さらに幼少期の原体験がある。

1970年代から80年代の韓国にはAFKN(在韓米軍管轄放送局。現在のAFN)がありました。金曜の夜になると、そこではR指定の映画を放送していた。家族が寝静まったあとに、一人でそうした映画を見ていたんです。当時は監督の名前も何も知りませんでしたが、後になってそれがジョン・カーペンターやブライアン・デ・パルマ、サム・ペキンパーだったと気づいた。英語も分からず、頭の中で物語を再構築しながら見ていたんです。結果的に、それが脚本家としての訓練になったのだと思います。

言語を欠いた映画作品の受容は、物語よりも映像の因果律を先行して意識させる。ここに彼の特質である「視覚性」が萌芽しているといえる。その意味で、ポン監督は映画作品をジャンル的、批評的に受容したうえで創作的に再構築していくタイプの作家なのだ。

「ニュー・コリアン・シネマ」と世代の自画像

90年代半ば以降の韓国映画の隆盛は「ニュー・コリアン・シネマ」と呼ばれる。ポン監督はこの呼称に距離を置きながらも、同世代の監督たちと過ごした熱気を回想する。

私たちは「ドグマ95」のように宣言を掲げたわけではありません。しかし確かに、2000年代初頭、パク・チャヌク、キム・ジウンといった監督たちと一緒に多くの映画を見ていました。DVDを収集し、互いに見せびらかし、借りては返さずに競い合う。子どもじみた雰囲気でしたが、映画を貪欲に吸収する競争だったのです。

パク・チャヌク監督『オールド・ボーイ』予告編

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この証言から浮かぶのは、規範を掲げる運動ではなく、シネフィル的飢餓感に支えられた世代精神である。韓国映画が世界的評価を得た背景には、この「映画を血流として取り込む態度」がある。さらにポン監督は世代の分岐についても語る。

私やパク・チャヌクはジャンルに対する愛情と執着が強い。しかし、ホン・サンスやイ・チャンドンはジャンルから距離を置き、メッセージや物語の深い探求に向かいます。

つまり、同世代内で「ジャンルを媒介にする作家」と「ジャンルを離れて現実を直視する作家」が併存した。この多様性こそが韓国映画を厚みのあるものにしたに違いない。

ホン・サンス監督『夜の浜辺でひとり』予告編

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家族と階級——時代との共振

『殺人の追憶』を除けば、私の映画は常に家族を描いてきました。ただし多くは不完全で、奇妙なかたちで崩壊していたり、何かが欠けていたりする。私はそうした家族を極限状況に追い込みたい衝動に駆られるのです。

ポン監督作品における家族は常に「欠損」から始まる。この姿勢は、単なる家庭劇を超えて社会的寓意へと広がる。『パラサイト』における二つの家の対比は、監督自身が体験した「他人の生活空間に入り込む不気味さ」から生まれた。ここで重要なのは、階級描写が「外部からの観察」ではなく、「内部からの違和感」によって触発されている点だ。

同時期に生まれた是枝裕和監督『万引き家族』(18)やイ・チャンドン監督の『バーニング 劇場版』(18)、ジョーダン・ピール監督『アス』(19)と並べれば、ポン監督の言葉どおり「映画作家たちが戦略会議を開いたわけではない」が、時代状況が彼らに応答を迫ったことが分かる。

空間の建築学——ストーリーボードが駆動するドラマ

私は空間に非常に執着しています。『パラサイト』では物語の90%が二つの家で展開されるため、セットはVFXで仮想モデルを作り、美術部とともにカメラ位置やレンズを事前に検証しました。貧困地区の洪水シーンでは、一つの地区を丸ごと水槽に沈める必要があり、特殊効果チームと何度も打ち合わせを重ねました。完成した映像はほぼストーリーボード通りです。

『パラサイト』は二つの家の物語である。ポン監督は空間を設計段階から徹底的に作り込んだ。だが、空間を徹底的に支配しながらも、彼は俳優に自由を与える。

構図は決めますが、俳優がリラックスできるよう心がけます。ソン・ガンホのような俳優は、複雑なカメラワークの中でも即興を生み出すんです。

この緊張関係——空間の厳密さと俳優の即興性——が、ポン監督作品に特有の「計算と偶発の同居」を生む。

『グエムル-漢江の怪物-』Blu-ray版予告編

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ジャンルを押し返す衝動

僕には二重の人格があるんです。ジャンル映画がもたらす興奮を愛している。でも、一方で「ルールを守らねばならない」と言われると苛立つ。だから破壊する。『グエムル』では観客に怪獣を見せるために、映画開始から14分で日中にその姿を出しました。

ポン監督はジャンル映画の快楽を享受するが、同時にそれを壊そうとする。ジャンルの「規則」を破壊することで、物語に社会的要素が滲み込む余地が生まれる。ポン監督作品が常に「スリラーでもあり、風刺でもあり、家族劇でもある」と形容されるのは、この構造によるものだ。

『殺人の追憶』——未解決という構図、時間という編集

脚本を書くとき、私は常に彼の顔を見たかった。恐怖を感じながらも、会ったらすぐに質問できるようノートに問いを準備して持ち歩いていたんです。映画のラストで刑事がカメラを見つめるのは、観客席のどこかに犯人がいるかもしれないと思ったからです。16年経って、ようやく韓国人全員が彼の顔を見ました。幸いにも、その顔は“普通の人”には見えませんでした。

実際の猟奇殺人事件を元に作られた傑作『殺人の追憶』(03)から16年経った2019年、DNA鑑定により事件の真犯人が明らかになったとき、ポン監督は複雑な心境を語った。

「顔なき犯人」という不在を中心に据えた作品が、時間を経て「顔を獲得する」。映画は時間を超え、社会の記憶と結びつく。この出来事は、映画の「記録装置」としての本質を強く裏付ける。

『殺人の追憶』海外版予告編

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観客の反応と資本主義という一つの「国家」

アメリカやヨーロッパの観客はよく笑います。一方で韓国では、映画と似た経験を知る人も多く、重苦しい気分が残る。しかし究極的には、どの国の観客もこの映画を自分の社会の物語として受け取ります。なぜなら、すべての国が資本主義という一つの巨大な国家に属しているからです。

『パラサイト』は国によって異なる反応を引き起こした。ここでポン監督は、作品が普遍的に響いた理由を端的に語る。国民国家を超えた「制度としての資本主義」を舞台化したことこそが、『パラサイト』が国際的に評価され、共鳴した秘密である。

ラストショットへのこだわり

また、ポン監督は『母なる証明』のラストシーンについてこう述べている。

走行中の観光バスの中で年配の女性たちが踊る。あのイメージは脚本より前から心にありました。この2時間の映画は、すべてその瞬間へ導くために構築したのです。撮影当日、十年ものあいだ胸に抱えた腫瘍を取り除くような感覚がありました。

ポン監督作品において、ラストショットは結論ではなく、むしろ「発端に存在したイメージの回収」である。イメージが物語を引き寄せるという逆転の構造が、彼の作劇法の核心だといえるだろう。

『母なる証明』における望遠レンズを用いたショット演出の解説

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制約と自由——映画製作の資金調達から生まれる創造性

視覚効果で作るショットには一つ一つ高額な費用がかかります。だから最初にショット数を決め、それに合わせてストーリーボードを作りました。苛立たしい作業でしたが、むしろ創造性を刺激したと思います。

『グエムル-漢江の怪物-』(06)の制作過程では、製作予算がモンスターが登場するショットの数を規定した。この「逆算の発想」は、対話でも言及されているように、スティーヴン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』(75)における「姿を見せないサメ」と同じである。製作時の困難やトラブルを逆手にとった映画史の教訓を実地に応用しつつ、ポン監督は「制約こそ創造の母」であることを証明した。

記憶の建築家としてのポン・ジュノ

この世に存在したことのない映画を作りたい。

このようにポン・ジュノ監督は、幼少期のテレビ鑑賞から大学の映画サークル、DVD収集、空間設計、ストーリーボード、ジャンルの破壊、俳優との協働、未解決事件との対話に至るまで、自身の記憶を一つの大きな建築物として組み上げてきた。

彼の映画作品は、個人的な違和感から始まり、社会的寓意に到達する。『パラサイト』の成功は偶然ではなく、この作家が持つ「記憶を空間化し、制度を寓話化する力」の必然的帰結であるだろう。ポン・ジュノは今なお記憶と空間の建築家であり続けている。

ポン・ジュノ監督プロフィール
1969年9月14日、韓国・大邱(テグ)生まれ。延世大学で社会学を専攻し、韓国映画アカデミー(KAFA)で映画制作を学ぶ。長編デビュー作『ほえる犬は噛まない』(00)以降、『殺人の追憶』(03)、『グエムル -漢江の怪物-』(06)、『母なる証明』(09)、『スノーピアサー』(13)、『オクジャ/okja』(17)を経て、『パラサイト 半地下の家族』(19)でカンヌ国際映画祭パルム・ドールと米アカデミー賞作品賞・監督賞・脚本賞・国際長編映画賞の計4部門を受賞。
【長編監督作品】
ほえる犬は噛まない(00)
殺人の追憶(03)
グエムル -漢江の怪物-(06)
母なる証明(09)
スノーピアサー(13)
オクジャ/okja(17)
パラサイト 半地下の家族(19)
ミッキー17(25)
The Valley(2027年予定・邦題未定/アニメーション作品)

参考:Film at Lincoln Center “Bong Joon Ho on Family and Class in Parasite, Collecting Films, and Memories of Murder”

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