クリストファー・ノーランの映画を特徴づけるのは、緻密な構造と圧倒的なスケール、そしてその両者を有機的に結び付ける感情の核である。物語の骨格はときに幾何学的で、時間や空間を自在に操作しながら観客を導くが、その中心には必ず人間的な動機や感情が置かれている。
こうした作風は、突然降って湧いたものではない。幼少期から現在に至るまでの映画体験が、まるで年輪のように蓄積し、彼の作家性を形成してきた。
近作『オッペンハイマー』(23)がアカデミー賞を席巻した後、ノーランが次に挑むのはギリシャ叙事詩『オデュッセイア』の映画化である。海を渡り、時を超えて試練を重ねる英雄の物語は、ノーランにとって単なる文学の翻案ではないだろう。これまでの彼の作品がそうであったように、映画史と個人的嗜好を縦糸横糸に編み込んだ大作になるはずだ。
『オッペンハイマー』予告編
ノーランの原風景は、『2001年宇宙の旅』(68)を少年時代に映画館で体験した記憶だという。圧倒的な映像空間と物理的質感を持つキューブリックの宇宙は、単なるSFではなく、観客を丸ごと異世界へと連れ去る没入体験だった。そこに『スター・ウォーズ』(77)が加わることで、未知への憧れと物語的冒険の感覚が結びつき、後の『インターステラー』(14)や『ダークナイト』三部作、『テネット』(20)のような壮大な構想の種となる。
リドリー・スコットの『ブレードランナー』(82)や『エイリアン』(79)が与えたのは、未来世界を描く際の現実感の温度──湿り気のある都市の空気や、閉鎖空間に漂う緊張感である。さらにスピルバーグの『未知との遭遇』(77)は、宇宙的出来事を家庭の視点から捉えることで、科学と感情を両立させる語り口の重要性を教えている。
物語構造における影響も大きい。マイケル・マンの『ヒート』(95)や『女王陛下の007』(69)におけるアクションとロマンスの交錯は『ダークナイト』三部作に、ヤン・デ・ボンの『スピード』(94)やトニー・スコットの『アンストッパブル』(10)のもたらす「時を刻む」サスペンスの構築は、『インセプション』(10)の多層世界や『ダンケルク』(17)の三重時間構造にも通じる。
『ヒート』予告編
戦争映画からの影響はより深く感情的だ。『西部戦線異状なし』(30)は戦争が人間性を奪うことを初めて明確に描き、『シン・レッド・ライン』(98)は詩情と惨烈さを同時に映し出すことに成功している。『プライベート・ライアン』(98)の衝撃的な冒頭部は、ノーランが『ダンケルク』で求めた“その場にいる”感覚の基準となった。『アルジェの戦い』(66)はドキュメンタリー的な即物性を通じて観客に登場人物への共感を強いる方法を示し、『戦場のメリークリスマス』(83)は、デヴィッド・ボウイという異彩をキャスティングする勇気を与えた。後にノーランは『プレステージ』(06)でボウイを起用し、その存在感を物語の要に据えている。
ジャンルの垣根は、ノーランにとって学びの枷ではない。むしろ多様なジャンルを通過し、その要素を自作の中に沈殿させる過程が重要だ。コメディ映画『タラデガ・ナイト オーバルの狼』(06)から怪獣映画『ゴジラ-1.0』(23)、そしてミュージカルやスリラーに至るまで、ノーランは多様なジャンルから抽出した要素を再構築することで、『ダークナイト』(08)や『テネット』(20)のような独自の作品を生み出してきた。『アフターサン』(22)や『パスト ライブス/再会』(23)といった静かで繊細な作品においても、ノーランは「映画館で観る必然性」を感じ取る。そこには光や空気、時間の質感といった、「映画」という媒体への信頼がある。
『aftersun/アフターサン』予告編
『タラデガ・ナイト オーバルの狼』予告編
映像美への憧憬もまた重要な要素だ。デヴィッド・リーンの『アラビアのロレンス』(62)や『ライアンの娘』(70)は、風景そのものを物語に転化させる手法を示した。地平線の色や海辺の陰影は、単なる背景ではなく登場人物の心理と物語の推進力を担う存在であり、『インターステラー』の宇宙空間描写や『インセプション』の都市変形シーンにも、その視覚的発想の名残が見えるだろう。
以下の44本の映画リストは、単なる嗜好のリストではなく、クリストファー・ノーランという映画作家の内部で編まれた航路図であり、次回作『オデュッセイア』を想像するための羅針盤だ。ギリシャ叙事詩の旅路に、これらの映画がもたらした景色や構造、感情がどのように織り込まれるのか。公開までの時間、我々もまたこのリストを辿りながら、ノーランの“航海”に備えたい。

『オデュッセイア』作品情報
監督・脚本:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス、クリストファー・ノーラン
配給:ビターズ・エンド、ユニバーサル映画
2026年、日本公開
クリストファー・ノーランお気に入り映画44本リスト
(ノーランの一言コメント付き)
- グリード(Greed, 1924年)エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督
- 絶対的な天才の失われた作品
- サンライズ(Sunrise, 1927年)F・W・ムルナウ監督
- 純粋に視覚的なストーリーテリングの無限の可能性を証明している
- メトロポリス(Metropolis, 1927年)フリッツ・ラング監督
- 映画史における重要な試金石であり、その影響は今日まで続いている
- 西部戦線異状なし(All Quiet on the Western Front, 1930年)ルイス・マイルストン監督
- 戦争が人間性を奪うことを最初に描き、そして最もよく表している
- マブゼ博士の遺言(The Testament of Dr. Mabuse, 1933年)フリッツ・ラング監督
- 悪を超えた存在を描く者にとって不可欠な研究作品
- 海外特派員(Foreign Correspondent, 1940年)アルフレッド・ヒッチコック監督
- 墜落シーンの卓抜した演出が、『ダンケルク』で試みたことの多くに影響を与えた
- 秘められた過去(Mr. Arkadin, 1955年)オーソン・ウェルズ監督
- 天才ウェルズの悲痛な片鱗がこの作品にはある
- アラビアのロレンス(Lawrence of Arabia, 1962年)デヴィッド・リーン監督
- 非常に繊細な影のディテールと空の色調はフィルムでしか表現できない
- トプカピ(Topkapi, 1964年)ジュールズ・ダッシン監督
- ピーター・ユスチノフの信じられないほどコミカルな演技が好きだ
- アルジェの戦い(The Battle of Algiers, 1966年)ジッロ・ポンテコルヴォ監督
- 想像しうる限り最小限の演出で登場人物に共感させる
- 女王陛下の007(On Her Majesty’s Secret Service, 1969年)ピーター・ハント監督
- 私のお気に入りのボンドだ。アクション、スケール、ロマンチシズム、悲劇、感情のバランスが素晴らしい
- ライアンの娘(Ryan’s Daughter, 1970年)デヴィッド・リーン監督
- 地理的スペクタクルと物語やテーマの推進力との関係が並外れている
- 2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey, 1968年)スタンリー・キューブリック監督
- 別世界に連れて行かれるような非日常体験
- 未知との遭遇(Close Encounters of the Third Kind, 1977年)スティーヴン・スピルバーグ監督
- 家族の視点から描く異星との邂逅。『インターステラー』でも、その感覚を現代の観客に届けたかった
- 007 私を愛したスパイ(The Spy Who Loved Me, 1977年)ルイス・ギルバート監督
- ロータス・エスプリが潜水艦になる場面は説得力があり、信じられないと思った
- スター・ウォーズ(Star Wars, 1977年)ジョージ・ルーカス監督
- 観た瞬間から、すべてが宇宙船とSFになった
- スーパーマン(Superman, 1978年)リチャード・ドナー監督
- 監督として大きな印象を受けた作品
- エイリアン(Alien, 1979年)リドリー・スコット監督
- 完全に没入できる世界を作り上げていた
- バッド・タイミング(Bad Timing, 1980年)ニコラス・ローグ監督
- 構造的な革新性と撮影の素晴らしさが共存している
- 炎のランナー(Chariots of Fire, 1981年)ヒュー・ハドソン監督
- 映像、物語、意図的に時代錯誤な音楽が組み合わさった英国の傑作
- ブレードランナー(Blade Runner, 1982年)リドリー・スコット監督
- 作品の持つ世界観が何かを語りかけてきた。文字通り何百回も見たよ
- コヤニスカッツィ(Koyaanisqatsi, 1983年)ゴッドフリー・レジオ監督
- 人間の最大の努力がいかに不穏な結果をもたらすかを示す驚くべき記録
- ライトスタッフ(The Right Stuff, 1983年)フィリップ・カウフマン監督
- ほとんど完璧に作られた映画であり、偉大なアメリカ映画のひとつ
- 戦場のメリークリスマス(Merry Christmas, Mr. Lawrence, 1983年)大島渚監督
- デヴィッド・ボウイの才能にぴったりの作品
- 殺し屋たちの挽歌(The Hit, 1984年)スティーヴン・フリアーズ監督
- 自暴自棄になった男たちの力関係をシンプルに描くことに賭けた映画
- ヒッチャー(The Hitcher, 1986年)ロバート・ハーモン監督
- ルトガー・ハウアーが『ブレードランナー』以来最も影響力のある役を演じた
- ストリート・オブ・クロコダイル(Street of Crocodiles, 1986年)ブラザーズ・クエイ監督
- これまでに撮影されたものの中で最も驚異的な映像のひとつ
- 宇宙へのフロンティア(For All Mankind, 1989年)アル・ライナート監督
- 人類最大の努力の信じられない記録
- 櫛(眠りの博物館から)(The Comb, 1990年)ブラザーズ・クエイ監督
- 女性の想像力を探る、夢のようでシュールな短編
- スピード(Speed, 1994年)ヤン・デ・ボン監督
- 最高級の“時を刻む”釘付けの作品
- ヒート(Heat, 1995年)マイケル・マン監督
- 自分の作品に直接的な影響を与えた偉大な作品
- シン・レッド・ライン(The Thin Red Line, 1998年)テレンス・マリック監督
- 戦争についての並外れたビジョンを持った作品
- プライベート・ライアン(Saving Private Ryan, 1998年)スティーヴン・スピルバーグ監督
- いまだ、この映画は力をまったく失っていない
- アンストッパブル(Unstoppable, 2010年)トニー・スコット監督
- 物語に対する観客の反応を調整するサスペンス映画の優れた一例
- ツリー・オブ・ライフ(The Tree of Life, 2011年)テレンス・マリック監督
- マリックの作品は互いに緊密につながっていて、一目で分かる
- ファースト・マン(First Man, 2018年)デイミアン・チャゼル監督
- 物理的ディテールが説得力を持ち、没入感が何層にも重なる
- ヘイトフル・エイト(The Hateful Eight, 2015年)クエンティン・タランティーノ監督
- 映画館で映画を見ることの雰囲気と美しさを呼び覚ます作品
- ベイビー・ドライバー(Baby Driver, 2017年)エドガー・ライト監督
- アクションが壮大に演出され、作り手が本当に楽しんでいるのが伝わる
- ラ・ラ・ランド(La La Land, 2016年)デイミアン・チャゼル監督
- 並外れた映画だ。3、4回観た
- タラデガ・ナイト オーバルの狼(Talladega Nights: The Ballad of Ricky Bobby, 2006年)アダム・マッケイ監督
- テレビでやっていたらチャンネルを変えない映画
- アフターサン(Aftersun, 2022年)シャーロット・ウェルズ監督
- 映画館で観るべき作品
- パスト ライブス/再会(Past Lives, 2023年)セリーヌ・ソン監督
- ここ数年で最も好きな映画のひとつ
- ゴジラ-1.0(Godzilla Minus One, 2023年)山崎貴監督
- とてつもない映画
- グラディエーターII(Gladiator II, 2024年)リドリー・スコット監督
- オリジナルと続編のバランスを取ることに成功している
参考:IndieWire “Christopher Nolan’s Favorite Movies: 44 Films the Director Wants You to See”





