PROLOGUE
映画作家の舩橋淳です。「ポルトの恋人たち 時の記憶」「フタバから遠く離れて」「ビッグ・リバー」など、劇映画からドキュメンタリーまで様々な形で監督作品を発表してきました。
今回Cinefilで連載を始めさせていただくことになりました。「いま書かねばならぬ」と強く問題意識を持つテーマを深掘りして考察するコラムにしたいと思います。
芸術のどんなジャンルもそうだと思いますが、映画においては、作り手が題材やテーマを「いかに我がものとして引き付けるか」が、制作過程の核心だと言っても過言ではありません。作品中の人物(キャラクター)が感じる実感が、何かしら現代を生きる自分たちが共感できる何かであるよう、作家は苦心してそれを探り当てていきます。そのため映画が喚起するエモーション(例えば、劇中の人物やキャラクターが感じる恋心やフラストレーション、怒りなどの感情)と、作家自身が社会で日々感じている実感とを重ね合わせることが必要不可欠であり、それをサボらずしっかりと考え抜き、落とし込まれた作品ほど鑑賞者の胸に迫るものとなります。
ですから、社会でいま起きている現象やブーム、政治、犯罪、事件などを、人々が日々どう感受しているのか、じっと見つめ、観察し、分析し、批評してゆくことが、実作者=表現者にとって大切な作業なのです。その作業を通し、世の人々がうっすらと感じている時代の無意識を掬いとり、それを作品内に埋め込んでゆく。それが映画館で上映されると、その時代の無意識が違うカタチで鑑賞者のマインドに照射される。鑑賞者の想像力の中で完成されてゆくのが、映画であり芸術なのです。
また、映画は四角いスクリーンという<窓>を通して、現実を切り取り、編集し、上映される芸術です。限られた小さなフレームを通して見える現実が、いかに外の世界とリンクしているのか。目の前で起きるドラマを見て「ああ、この親子の感情の軋轢は、よぉくわかる!」と鑑賞者が、自分の世界と繋げて理解してゆく写し鏡のようなものです。社会をどのような切り口で見つめるのか、どのようなフレームを通し見つめてゆくのか、そのアングルを探り続けているのが、映画作家の仕事だと言えます。
僕の敬愛して止まないイランの映画監督アッバス・キアロスタミは、フレーム<窓>というコンセプトを、芸術の域まで昇華させた大作家でした。彼はかつてこう謂いました。
“I’ve often noticed that we are not able to look at what we have in front of us unless it’s inside a frame.”
— Abbas Kiarostami
「私たちは自分の目の前にあるものについて、フレーム(窓枠)を通して見て初めて、その価値が認識できるとよく感じます。」—アッバス・キアロスタミ (著者訳)
目の前にある雑多な現実に対し、ある一つのフレーム(窓)を通して見つめてみること。その切り口が、今まで見たことのない世界の深みを気づかせてくれる————そんなコラムにしたいと思っています。
FRAME #1
「映画と移民社会」
東京有楽町で昨年11月20日から10日間に渡り、開催された東京フィルメックス。カンヌやベネチアなど世界トップの映画祭のより優れた作品から、まだキャリアが浅いが傑出した才能を見せるアジアの映画作家まで、クオリティの高い作品ばかりが集中する国際映画祭として名高い。その映画祭でひと際目立ったのが、移民や辺境に追いやられた民族というテーマであった。母国で居場所を見出だせず、虐げられ、社会の隅っこに追いやられる人々を描いた作品が、ひとつの潮流を形作っていた。
例えば、フィルメックスの最高賞グランプリを受賞した「アイカ」(セルゲイ・ドボルツェヴォイ監督)。モスクワで不法滞在するキルギスタンからの移民女性アイカの人生を活写した。作品の冒頭、出産した直後に赤ん坊を置き去りにして病院から抜け出す母親アイカが、まだ痛む腹部を抑えながら雪荒ぶ都市モスクワを駆け抜け、劣悪な衛生環境の鶏肉工場に出勤する。しかし、そこで働く移民女性たちは一斉に騒ぎだしており、それは何ヶ月もの給料未払いの末、工場主が夜逃げしたためであった。アイカは無一文で極寒の路上に放り出される・・・期限切れの労働ビザを見せ、駐車場や法律事務所の清掃の仕事を得ようとするが、全て断り続ける。が、最後にたまたまトイレを借りた動物病院で働くキルギス人の掃除婦が、息子が病気のため仕事場を離れざるをえず、アイカがピンチヒッターを務めることに。一時凌ぎとはいえ漸く仕事を得たもののほっとする間もなく、違法滞在の仲間と暮らすダンジョンのようなアパートに帰ると警察のガサ入れが行われ、検挙(=国外追放となる)されそうになったり、洋服店を開こうと一時金を借りた高利貸しの暴力的な脅迫に怯え、逃走する。身の安定を決定的に欠いた一人の女性が、まだ身体も万全でなく、痛みに耐えつつ冷たいモスクワ社会の隙き間で逃げ惑う物語は、見ている方まで息が絶え絶え、腸を掴まれたまま90分を見続けるような苦行の時間であった。今作でカンヌ映画祭主演女優賞に輝いたSamal Yeslyamovaの、強烈な存在感もあり、私はこんなに痛みを我がことのように感じられる苦しい映画は近年ないと衝撃を受けた。
一方、東京フィルメックスのコンペティションに選ばれた「幻土 A Land Imagined」も無視できない力のある作品だった。アジアの交通の要衝で、多国籍の労働者が集中するシンガポールという国の風土を、映画そのものが醸し出すカオスな空気としてアートに昇華してしまったという恐るべき作品である。
中国本土からシンガポールの埋め立て工事現場へ出稼ぎに来た一人の労働者が、不意に失踪する。その男を地元の刑事が捜索するのだが、その追跡ミステリーと、労働者が入り浸っていたネットカフェで働く娼婦めいた女と労働者の恋愛劇が交錯する。この二つのストーリーが、現在と過去なのか、どちらか一人がもう一人の行動を空想した幻想なのか、それとも違法労働をひた隠しにする工事会社により極秘に消される労働者たちの夢なのか――捉えどころのない詩的幻想譚として描いた。
シンガポールの海峡には、世界中からの無数の貿易船・タンカーが浮かんでおり、その砂浜は中国、マレーシア、タイなど8カ国から持ってこられた砂で埋め立てられた人口浜だそう。歴史も伝統も浅く、不毛な埋め立てと開発だけが続くシンガポールが持つ、リアルなものが極めて希薄な環境を映画的な幻想として描くアイデアに、傑出した才覚を感じた。まるで、サハラ砂漠の荒野と人生の不毛を重ねて描き出したベルナルト・ベルトルッチ(「シェルタリング・スカイ」)の現代版のようだ。
映画冒頭、埋め立て工事現場の巨大クレーンによじ上り、労働者の男があげる怒りの雄叫びが、シンガポールという幻影の地(幻土!)に響き渡るように思え、富裕層と貧困層のどうにもならぬ格差が広がり続ける資本主義国の矛盾が、うっとりするような映像として差し出される。そこには、移民の抱える存在的な儚さが、どうにも避けがたい不条理として炙り出され、見る者の胸を締め付ける。
その他に東京フィルメックスでは、ロヒンギャ難民とミャンマーの漁民の友情(もしくはゲイ・ラブ)を描いた「マンタレイ」、チベット自治区の山岳地帯での旅人たちの交錯を描いた映像詩「轢き殺された羊(Jinpa)」ペマツェテン監督(傑作!)、中国国内の地方都市の辺境性を炙り出した「象は静かに座っている」など、人口が集中する中央から遠く離れた土地に追いやられた人々の生を見つめてゆく視線が、多く見られた。特に「マンタレイ」は、決して手放しで称賛できる完成度ではないのにも関わらず、正体のはっきりしない情念を詩的で美しいと言うしかない映像で見る者を幻惑し見せきってしまう作家を評価する現代の映画祭のトレンドを体現したかのような作品である。
物語は、妻に出て行かれ失意に沈むミャンマーの漁師が、ある日泥川に瀕死の状態で浮かぶロヒンギャの男を見つけ、命を救う。深い銃創を胸に負い、甲斐甲斐しくその治療をしてやるうちに二人の間に友情(のようなゲイラブとも解釈できる)が生まれる。が、それも束の間ある日漁に出た漁師の男はそのまま姿を消してしまう・・・ロヒンギャの男は、漁師を心配するなか、不意に家に戻ってきた漁師の前妻と出逢う・・・映画はどこかに収束することなく、ロヒンギャの男は密林のぬかるみを飛び交う殺された難民たち(?)の言霊のような、赤や緑や青のたゆたう光を見る。果たして、これは誰の幻想なのか?漁師はどこへ消えたのだろうか?・・・物語をどこかに落とし込もうとはせず、現実の不条理や底辺の人間たちの憤怒、苦しみを映像として突出させるあたりは「幻土」に似ており、現代の映画祭映画の一つの潮流なのかもしれない。言語で要約出来るような物語ではなく、浮遊する概念とエモーションとして鑑賞後に反芻してもらえるような表現である。
一方、手前味噌ながら僕も自作で移民を描くことに挑戦した。現在公開中の劇映画「ポルトの恋人たち 時の記憶」(主演柄本祐、アナ・モレイラ。監督舩橋淳)である。18世紀のポルトガルと、21世紀オリンピック後の日本という、二つの時代と場所を一本の映画としてまとめた異色のラブミステリー。第1話は、1755年首都を壊滅させたリスボン大震災(東日本大震災と同じマグニチュード9.0)直後のポルトガルにやってきた日本人奴隷たちが、身分制度が強固なポルトガル社会で苦難を生き抜いてゆく物語。鉄砲が日本に伝来した16世紀〜17世紀前半の戦国時代、手先の器用な日本人は火縄銃を和式にコピーし、織田信長による長篠の戦いなど早々に実践導入するものの、火薬を硝石から化学合成することが出来ず、ポルトガル、オランダなどから輸入に頼っていた。そして当時、火薬と引き換えに輸出されたのが、日本人奴隷であった。(1バレル《樽》の火薬と50人の女性奴隷が交換されたという記録も発見されている)農民や穢多・非人など身分の低い者が、男は肉体労働の使役で、女は主に性奴隷として海外に輸出された。教科書には決して載っていない歴史の暗部である。私は、そうやって世界中に散り散りになった日本人奴隷の子孫として、ポルトガルに辿り着いた男たち(柄本祐と中野裕太が演じた)の顛末を描いたのだった。
時空を超えて、社会の片隅に追いやられた弱者を描くため、第二話は近未来2021年の日本に設定した。派手にぶちまけた東京オリンピックが一段落し、人々がその巨大な赤字と向き合い、もはや誤摩化せない暗い未来を自覚した時、移民排斥に駆り立てられるだろうというお話だ。静岡・浜松にある国内最大のブラジル人コミュニティーを舞台に、不況から自動車部品工場をリストラされ、国外退去を受ける逆移民(先祖が日本からブラジルに移民し、自分たちが再度日本に移住した外国籍扱いの日系ブラジル人3世や4世)の人生を描いた。現在のトランプ政権をはじめとし世界中を席巻する排外主義の潮流が、暴力的なまでにエスカレートするという近未来である。
第1話は、クラシックなラブストーリー。第二話は、ホラー調のサスペンス、とジャンルもミックスして紡ぎ上げた映画で、僕が追求したテーマは《境界線》であった。
人間が自分を他と差別化するために引く《境界線》は、時代と国が変われども、ずっと存在し続け、弱者を迫害する装置となる。18世紀のポルトガルでは、奴隷、使用人、商人、貴族、王族という階級差をつける《境界線》が強固にあった。それにより、身分のより低いものが弾圧され、社会の隅に追いやられる不平等な社会システムになっていた。2021年の近未来日本では、入管法がさらに強化され、国籍の違いという《境界線》で職を失い、虐げられる移民を正面から描いた。(なお、この問題は現在すでに顕在化し始めている。後述。)時が何百年経過しても、《境界線》を引き続け、弱者を生み出し続ける人間の性(さが)は変わらない。自分たちを守ろうとする本能からだろうか。本来平等であるはずの人間同士の差異をあえて明確にしようとする衝動から人が解放されたことは、人類史上一度たりともない。だからこそこの映画で、《境界線》を引き続ける人間は、果たしてどこに向かっているのか?、いったい進歩しているのだろうか?と問いかけてみたのだった。
翻って、いま日本では入管法の改正により移民政策が大きな転換を迎える。12月の臨時国会で与党が野党の反発を押し切る形で委員会採決を強行し成立させたこの法案。メディアの議論も毎日炎上していたので、いまだ強い関心を持っている人は少なくないだろう。(もしくは、安倍首相が審議に臨む前に「ややこしい質問」を受けなければいけないと言い、国会を愚弄したことを覚えている方も多いに違いない。)それが本年4月1日に施行された。
この改正された入管法はそもそも、少子化と人手不足だから外国人を受け入れるべき、という極めて安易で乱暴な理屈から無理矢理作り上げられた法案である。当然「議論が拙速だ」という批判に晒されてきた。
この法律は、素人の僕が見る限りでも「表面的な喫緊の問題点」が少なくとも2つある。
①法案通過時、在留資格として特定技能の14業種(建設業、農漁業、宿泊業など)の名前を挙げたのみで、各業種の受け入れ規模・人数上限についても何も決めず、「通過してから省令で決める」という省庁への丸投げ、白紙委任であった点。3月に法務省が14業種をさらに詳しく規定したが、12月の時点で箱の中身はからっぽだった。移民政策の根幹に関わる法案の実質が、省庁のブラックボックスで決められ、政治が責任を負わないのはおかしい。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/gaikokujinzai/kaigi/dai3/siryou1-2.pdf
②今回の法案のベースとも言える、現行の技能実習生制度の問題点が改善されるか非常に疑わしい点。劣悪な労働環境、賃金未払い、雇用者の暴力など醜悪な実態が糾弾されている外国人技能実習生の実態が、野党議員の追求により明らかとなった。
この法案を読んで驚愕するのは、日本が、移民について理念なきまま、場当たり的システムを作るという愚を犯していることだ。上で述べた「表面的で喫緊の問題」よりももっと深いところに問題の本質があるのに、それをスルーしてしまっている。これについて言葉を尽くしてみよう。
そもそも現在日本は、対外的に移民を認めていない国家であり、単純労働による在留資格は認めていない。その背後には、単純労働が移民流入の大きな呼び水となるという考え方がある。しかし、今回の改正入管法で設けられた「特定技能1、2号」こそ、単純労働にもなりうるし、移民受け入れの枠組みになりうる。特に家族帯同もOKで、在留期間の上限は設定されておらず、(3年/1年/6か月ごとの)在留期間を更新ができ、10年以上在留などの条件を満たせば永住申請も可能となる。つまり、「特定技能2号」は、外国人からみれば“移民&定住コース”に見える。
一方、政府の見解としての「移民」の定義は、入国の時点で永住権を与えられた外国人であり、それはやっていないから日本は「移民受け入れ」をしていないという立場だ。入国時に永住権がもらえるなんて世界中どこでも難しいだろう。そんな常識外れのトンデモ定義により、「移民受け入れナシ」という日本のタテマエが担保されている。
つまり、新たな入管法の本質的な問題は、明らかに移民を受け入れる移民法であるにも関わらず、政府が認めずに、本音よりタテマエで塗り固め、現実に即さない制度になりつつある点である。
これは、意識の鎖国である。
それは、何も日本だけの問題ではない。世界に目を移してみれば、移民問題はいま、地球規模のイシューとして年々深刻化している。それは、グローバリゼーションがもたらした流動性などという生易しいものではなく、シリア、イラク、ミャンマー、南スーダンなど、苛烈極まりない内戦により、国を追われた難民が世界中に押し寄せ、それまで統制の摂れていたシステムを破綻させているのが大きな要因だ。トルコを経てEU諸国に押し寄せるシリア難民をブロックしようとハンガリーをはじめとする各国が躍起になっているのはよく知られているが、欧州だけではなく、移民流入をなんとか押し返そうという感情的な拒否反応は、いま世界中で見られる。
この「意識の鎖国」は、果たして解決不可能な永続問題なのだろうか?
改正入管法施行により、これから移民はどんどん増えるだろう。
日本で家族とともに生きる人生設計をする外国出身の人々が増えてゆく。
しかし、移民の実態に対する理解と覚悟を政府が持たず、また国民に持たせない、「意識の鎖国」のツケがたまり続けるとどうなってしまうのだろうか?
さらなる差別や軋轢の原因になってしまうのではないか?
多くの人は、このことにもう気づいているだろう。
映画で描かれたような移民排斥運動に結びつかないでほしいと、心より願っている。
WRITER:
舩橋淳
映画作家。東京大学卒業後、ニューヨークで映画制作を学ぶ。『echoes』(2001年)から『BIG RIVER』(2006年)『桜並木の満開の下に』(2013年)などの劇映画、『フタバから遠く離れて』(2012年)『道頓堀よ、泣かせてくれ!DOCUMENTARY of NMB48』(2016年)などのドキュメンタリーまで幅広く発表。日本人監督としてポルトガル・アメリカとの初の国際共同制作『ポルトの恋人たち 時の記憶』(主演・柄本祐、アナ・モレイラ)は、2018年度キネマ旬報主演男優賞(柄本祐)に輝いた。8月にDVD、ブルーレイが発売予定。
※カバー写真 アッバス・キアロスタミ監督の遺作『24フレーム』より