圧巻の 215 分から目をそらさず、泉南の叫びを聞き逃すなかれ!
『ゆきゆきて、神軍』から 31 年、ドキュメンタリーの鬼才・原一男が挑んだ
「大阪・泉南アスベスト国賠訴訟」、8 年間の全記録
初めて国に勝った泉南の一握りの原告たち
しかし、勝っても勝っても地裁、高裁、最高裁へと国は逃げ続ける
あまりにも優しすぎる原告たち
「なぜもっと怒らないのか!」原一男の檄が飛ぶ
『ゆきゆきて、神軍』『全身小説家』『極私的エロス・恋歌1974』などの日本映画史に残る傑作を生み出してきた原一男監督、待望の最新作『ニッポン国VS泉南石綿村』の予告編が完成し、公開日が「2018年3月10日(土)」に決定いたしました。
また本作の舞台となっている、大阪・泉南の「イオンシネマ泉南りんくう」で「2018年2月3日(土)」から1週間の先行上映することも決定いたしました。
大阪・泉南地域の石綿(アスベスト)工場の元労働者とその親族が、損害賠償を求め、国を訴えた“泉南・アスベスト国賠訴訟”。その8年にわたる闘いの全てを記録した、圧倒的215分。
2006 年、大阪・泉南地域の石綿(アスベスト)工場の元労働者とその家族が、損害賠償を求め国を訴えた。
明治の終わりから石綿産業で栄えた泉南は、最盛期は 200 以上の工場が密集し「石綿村」と呼ばれていた。石綿は肺に吸い込むと、長い潜伏期間の末、肺ガンや中皮腫を発症する。
国は 70 年前から調査を行い、健康被害を把握していたにもかかわらず、経済発展を優先し規制や対策を怠った。その結果、原告の多くは肺を患い、発症という“静かな時限爆弾”の爆発に怯え暮らしていた。
原は弁護団の活動や、自らも石綿工場を経営していた「市民の会」の柚岡一禎の調査に同行し、裁判闘争や原告らの人間模様を 8 年にわたって記録する。原告の多くは地方出身者 や在日朝鮮人であり、劣悪な労働条件の下、対策も知らされぬまま身ひとつで働いていた。 裁判に勝って、ささやかな幸せを願う原告たち。しかし国は控訴を繰り返し、長引く裁判は彼らの身体を確実に蝕んでいく...
『ゆきゆきて、神軍』から 31 年。
全世界が待望した原一男監督の最新作『ニッポン国 VS 泉南石綿村』は完成するやいなや、世界中の映画祭から上映のオファーが相次ぎ、いち早く上映された釜山国際映画祭と山形国際ドキュメンタリー映画祭では、それぞれ最優秀ド キュメンタリー賞と市民賞を受賞し、その評価が高まっている。
【監督プロフィール】
原一男 (はら・かずお)
1945 年 6 月、山口県宇部市生まれ。東京綜合写真専門学校中退後、養護学校の介助職員 を勤めながら障害児の世界にのめり込み、写真展「ばかにすンな」を開催。72 年、小林佐 智子と共に疾走プロダクションを設立。同年、障害者と健常者の“関係性の変革”をテー マにしたドキュメンタリー映画『さようならCP』で監督デビュー。74 年、原を捨てて沖 縄に移住した元妻・武田美由紀の自力出産を記録した『極私的エロス・恋歌 1974』を発表。 セルフ・ドキュメンタリーの先駆的作品として高い評価を得る。87 年、元日本兵・奥崎謙 三が上官の戦争責任を過激に追究する『ゆきゆきて、神軍』を発表。大ヒットし、日本映画 監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ賞、パリ国際ドキュメンタリー映画祭グランプ リなどを受賞。94 年、小説家・井上光晴の虚実に迫る『全身小説家』を発表。キネマ旬報 ベストテン日本映画第1位を獲得。05 年、ひとりの人生を 4 人の女優が演じる初の劇映画 『またの日の知華』を発表。後進の育成にも力を注ぎ、これまで日本映画学校(現・日本 映画大学)、早稲田大学、大阪芸術大学などで教鞭を取ったほか、映画を学ぶ自らの私塾 「CINEMA 塾」を不定期に開催している。寡作ながら、公開された作品はいずれも高い 評価を得ており、ブエノスアイレス、モントリオール、シェフィールド、アムステルダム など、各地の国際映画祭でレトロスペクティブが開催されている。
【製作意図/原一男監督メッセージ】
なぜ、私は「ニッポン国 vs 泉南石綿村」を撮ったか? 私(たち)は、商品を作るというノリで、自分たちの映画作りを考えたことはない。その時代その時代から問われて、自らの生き方を探るために作ってきた、と信じている。
昭和という時代。20代の頃。自分の臆病さが嫌いで、ひたすら“強くなりたい”と欲していた。その願いを叶えるために、過激な生き方を実践している人を主人公に選びドキュメンタリーを作ってきた。カメラを向けることで彼(ら)とのっぴきならない関係を作り、退路を断って、自らを鍛えてもらいたい、と願ったのだ。「ヒーローシリーズ4作品」 が生まれた。
無我夢中で悪戦苦闘している間に時代は、平成へと移っていた。さらに、もっと過激な主人公を探し求めていた。が、どこにもいなかった。
なぜ、いないんだろう? と疑問に思いつつ、10年という時間が過ぎて、遅まきながら、やっと気づいた。平成という時代が過激な生き方を受容しなくなったのだ、と。それは、これまでに私がこだわっ てきた映画作りの方法が完全に行き詰まったことを意味していた。私が描くべき主題は、 なんなのか?と、悩んだ。が容易に見つかるはずもなかった。そんなとき、ある人から「大阪泉南アスベスト国家賠償訴訟」裁判闘争を闘っている人たちがいるんだが、撮ってみないか?と声をかけられた。
藁をもすがる、という心境だったんだろうと、今にして思う。 主題がなんなのか?を明解に掴まないまま撮影に入っていった。したがって「何を描くべきか?を探るために撮っていく」という、ほとんど倒錯状態だった。8年間、裁判闘争の終結まで撮ってクランクアップ。編集に2年。作品が完成して、自分がこだわってきたものの中身がやっと姿を現した、と思えた。
ストーリーとしては、裁判闘争を闘っている民衆が主人公として構成されているが、私自身もまた民衆の一人である、という自覚に沿うならば、他ならぬ私自身へ檄を飛ばす、そういう映画なのである。
どういう檄なのか? 平成の今、戦後のニッポンを支えてきた平和憲法が未曾有の危機を迎えている。一部の権力者が己の欲得のためにこの国と憲法を作り変えようとしている。 それは民衆にとってはさらに生き難く苦難へと追いやられるはずにも関わらずこの国の民衆は、唯々諾々と権力者に迎合する始末。権力者に抗う牙など、どこを探してもありはしない。そんな骨抜きにされた、平成という時代に生きるニッポン国の民衆の自画像として描いた作品である。
<泉南・アスベスト国賠訴訟とは?>
2006 年 5 月、泉南地域の石綿工場の元労働者や遺族 26 名が、石綿による健康被害を被ったのは、国が被害実態を知りながら、適切な規制や対策を怠ったためであるとして、国に対して損害賠償を求めた(1 陣訴訟)。実際に国は、80 年前の 1937 年から泉南地域で石綿工場の労働調査を始めており、戦後も繰り返し調査を行い、深刻な被害を把握していた。 2009 年 9 月には2陣訴訟が提訴され、原告は最終的に 59 名にまで増えた。2010 年 5 月、 1陣訴訟は大阪地裁で勝訴。わが国で初めて、アスベスト被害の国の責任を認める判決が下された。しかし翌 2011 年 8 月、大阪高裁で原告は敗訴(三浦判決)。国の責任は否定さ れ、「人命より経済発展を優先するのか」と怒りの声が渦巻いた。7か月後の 2012 年3月、 2陣訴訟は大阪地裁において再び勝訴。2013 年 12 月の大阪高裁も勝訴し、結論は最高裁へと持ち込まれた。
2014 年 10 月、最高裁は原告勝訴の判決を言い渡し、国の責任が明確に認められた。判決を受け、2015 年1月には塩崎厚生労働大臣が泉南地域を訪問、原告らに謝罪した。しかし 裁判の途中で亡くなった被害者も多く、また 1971 年以降に就労した労働者や、家族や周辺住民の被害については、救済の対象とはされていない。
原一男監督最新作『ニッポン国 VS 泉南石綿村』予告
監督:原 一男
製作:小林 佐智子
構成:小林 佐智子 編集:秦 岳志 整音:小川 武
音楽:柳下 美恵 制作:島野 千尋 イラストレーション:南 奈央子
助成:大阪芸術大学 芸術研究所 JSPS 科研費
製作・配給:疾走プロダクション
配給協力:太秦
宣伝協力:スリーピン
2017 年/215 分/DCP/16:9/日本/ドキュメンタリー
©疾走プロダクション