ジャック・ロジェは、ヌーヴェルヴァーグの重要作家と言われながら、ほとんど上映されることなく、日本では1958年に製作された短編映画『十代の夏』のみがリアルタイムで公開され、その後の作品は、2010年に〈ユーロスペース〉で特集上映されるまで、劇場公開されることはなかった
ヌーヴェルヴァーグの手法の傑作『アデュー・フィリピーヌ』
ジャック・ロジェの最も有名で、最も評価の高い作品は『アデュー・フィリピーヌ』(62)だろう。残念ながら今回、紹介するDVD-BOXセットには収録されず、単品で紀伊國屋書店から発売されている。紀伊國屋書店は良作をリリースしているが、その値段の高さに辟易させられる。1本の映画のDVDが3,000円から4,000円近くなど当たり前。小ロットの生産とはいえ、これは高すぎると思う。
セットに入ってないもいのの、ロジェを語るにあたっては、まず『アデュー・フィリピーヌ』に触れておかないわけにはいかない。
テレビ局でキャメラの下働きをしているミシェルは局の入り口で中を見たがっている女のコふたりを、さも重要な仕事をしていそうなふりをして招き入れる。ふたりは親友で、いつも一緒。そして3人でのデートが始まり、ある現場でドジを踏んで局をクビになあったミシェルが、コルシカ島へヴァカンスに行くというので、女のコふたりジュリエットとリリアーヌも一緒に行くことに。
当時アルジェリア独立戦争を抱え込んでいたフランスは徴兵制で、ミシェルも徴兵前にコルシカで最後のヴァカンスを楽しむという時代背景があり、それはTV局の映像シーンでも描かれる。
ドライヴして海で遊ぶが、喧嘩ばかりしている3人。ミシェルがどちらのコに恋しているかもわからず、女子ふたりは恋のさや当て。こういった「どうでもいいこと」がじつにリアルというか、むしろ、ありふれていてリアルでないのか、ともかくそこが魅力の映画である。
演技も即興的に見えるし、カットも唐突だったり、デタラメのようでさえある(ここで筆者がいうデタラメとは、「感覚的」「若気の至り」「即興性」といったものを包含した良い意味で使っている)。ようするに経験を積んで熟練してからは撮れない瑞々しい映像なのだ。
ヴァカンスに行く前のパリでの幾多の路上シーン。とくにジュリエットとリリアーヌがパリの街中を歩くシーンはアニエス・ヴァルダの『5時から7時までのクレオ』の素晴らしい路上シーンを思いださずにはいられない。周知のとおり、ヌーヴェルヴァーグの手法とカメラの小型化が、こうしたそれまでになかったリアルな路上シーンを生み出したわけだが、その最初期の例がここに描かれている。セットもエキストラもなく、リアルな群衆がそこにいる。群衆のなかにはカメラに目を合わせてしまっている人もいる。
ヌーヴェルヴァーグの革命は、こうしたカメラ(撮る側の視線)と偶然に撮られる側になった群衆の好奇心によるカメラへの視線をありのまま提示するようになったことだ。こうして「カメラ」の特権性は奪われてゆく(のちにトリュフォーはそれを維持する側に行き、ゴダールはその特権性を剥いでいった)。
『アデュー・フィリピーヌ』の物語の進行をここで詳細に書いても意味はない。言っておくが60年代初頭のお洒落なパリ娘の恋愛風俗の映画でもない。ありえそうなありのままの20代を、ありえない機微を絶妙に交えて撮ったのがこの作品なのだ。後半のコルシカ島での話は、音楽も良く、夕景の海のシーン、あるいは最後にミシェルが兵役に就くために船に乗り、それをジュリエットとリリアーヌが見送る海辺のシーンの素晴らしさはちょっと喩えようがない。美しいとかロマネスクとかでなく、映画はこうあってほしいという映像なのだ。
ロジェ作品に通底する“ヴァカンス”を描いた長編作品『オルエットの方へ』
さて、今回紹介するDVD-BOXセットには初期の短編映画『ブルージーンズ』、それにジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』絡みの短編『バルドー/ゴダール』、『パパラッツィ』、そして長編『オルエットの方へ』、『メーヌ・オセアン』が収録されている。リアルタイムで公開された『十代の夏』とDVDで単品で売られた『アデュー・フィリピーヌ』を含めれば、日本の映画祭などで公開されたロジェ作品は、これですべて観られることになる。ロジェのフィルモグラフィには短編やTV用のものが多く、これだけ観ることができれば、主要作品は観たことになると言ってよいだろう。
まず、長編の『オルエットの方へ』(71)について書くことにしよう。『アデュー・フィリピーヌ』からほぼ10年、今度もやはりヴァカンスで、女のコ3人とそこに男性が絡んでくる。女性がひとり増えて、映画はカラーになった。
16ミリで撮影したものをブローアップしているので、独特の色彩や粒子感は新鮮だ。まずはオフィスで女性と年若い上司が登場する。女のコ、ジョエルはランチで友人のカリーンと会い、ヴァカンスの話をする。それを聞いている上司は、ジョエルに気があるようだ。
そこから映画はひとっ飛びにヴァカンス地に移り、海辺にある伯母の別荘を借りての三人の親友女子の9月1日から20日までの日々が日記のように描かれる。晴れている日もあれば、曇っている日もあり、強風の日もある。
よくあるヴァカンスもの映画のように、毎日、好天で気持ちの良い日ばかりではないのだ。しかも何も起こらない日のほうが多い。カリーン、ジョエル、キャロリーヌの3人はよく喋り、食べ、ただなんとなく過ごしている。かなり即興で喋らせて撮影したようだし、カメラもかなり自由に動いているので、実際、まるでドキュメンタリーかのように見える。
それでもときどきかっちり計算が入っているカメラのアングルや短いカットの挿入などで、ジャック・ロジェが「映画的」映画を撮ろうとしていたことはわかる。
しかも、この別荘に来てカリーンがそれぞれの部屋を巡りながら、突然、幼少期のこの別荘での想い出の断片を、何回かカメラに向かって話しかける、つまりは観客に向かって話しかけるというシーンがある。このシーン以外、そういった映像はないから、この演出はよくよく考えてのものだろう。
途中、冒頭のシーンで登場した上司(フランソワ・トリュフォーの『アメリカの夜』で、いい味を出していたベルナール・メネズ)が、ひょっこりと船場に現れる。もちろん同僚のジョエルに気があって偶然を装って来たものだが、3人にいいようにおもちゃにされる。
このあたりからタイトルにあるオルエットの方へ行ったり、馬に乗ったり、そしてヨット乗りの青年が現れて、女子3人がヨット乗りに興じたりと、映画は「動いてゆく」。そう、この映画はやたらと長いのだ。2時間半! ストーリーらしいものもなく何気ない女のコの日常で、これだけの長さにする必要があったのか!? ゴダールに言わせると、ジャック・ロジェほど自分の映画にこだわりを持っている監督はいないとのことらしいが、たしかにどのシーンも悪くない。朝でも昼でも夜でも海辺でのシーンは、まるで海以外、青春を象徴するものはないかのように幾度となく美しく楽しく撮られている。
しかし、長い。1968年のパリ5月革命からの熱気からほんの数年で、これほどまで若者は無邪気でのどかで暇になってしまったのか、と思うとちょっと感慨深いものがある。
しかもこの作品の骨子は『アデュー・フィリピーヌ』でのヴァカンスに近すぎる。結局は、ジャック・ロジェは海辺の映画を、何気ない日常を、さして演出もせずに撮りたかったのではないか? しかもモノクロだった『アデュー・フィリピーヌ』からカラーに変えて(色彩設計は素晴らしい!)。
そう、思うところも多々あるが、ヨット乗りの青年、パトリックと女のコふたりキャロリーヌとジョエルが初めてのヨット乗りの経験をするシーンのカメラはじつに素晴らしい。
16ミリカメラでなくては、小さなヨットにカメラマンも乗り込んでの迫真のシーンや、あるいはカメラ・クルーが別の船からこのヨットの動きを捉えていくシーンは撮れなかったろう。何度も転覆するのではと思うようなターンの繰り返しと各人の表情のアップや波しぶきは、まさに映画的であって、この作品中の白眉と言ってもよいだろう。
やがて上司のジルベールは、ジョエルやキャロリーヌのからかいや冷たいあしらいに機嫌を損ねてパリに帰ってしまう。パトリックのヨットに乗って転覆してしまったカリーヌも不機嫌になってひとりでパリへ。残されたジョエルとキャロリーヌは、後味の悪さを残して別荘をあとにする。青春とはそういうことがよくあるものだ。この苦い結末は良いと思う。
余分な挿話のない(日常とはそういうものだ)映画だが、余分な挿話だらけの映画だと言ってもいいかもしれない(日常とはそういうものだ)。この映画は長すぎて退屈するが、記憶に残る断片的映像はいくつもある。
強風のなかの別荘、ベッドでのじゃれながらの会話。中庭のコリーヌに屋上から話しかけるジョエルやキャロリーヌをその上から俯瞰で撮るシーン。
記憶に残る映像は、人それぞれまったく違うだろう。誰もが印象に残るような傑出したシーンはヨット乗りの場面くらいだから。あとはみんな忘れてしまうかもしれない。でも、映画というのはそういうものだと思う。そのためにロジェは2時間半の時間を必要としたのかもしれない。
『オルエットの方へ』から15年後に撮られた『メーヌ・オセアン』
ロジェはこのあと1974年に『トルチュ島への遭難者』を撮る。興行的にも散々だったというし、日本で公開されたという話も聞かない。そのあとに撮った長編は本DVD-BOXにも収められた『メーヌ・オセアン』(86)である。
タイトル名は特急列車の名前。その列車にブラジル出身のダンサーの黒人女性デジャニラが乗り込む。改札のパンチ(穴開け)をしてないと車掌がクレームをいうが、なにせフランス語が通じない。そこに偶然乗り合わせたポルトガル語のできる女性弁護士ミミが彼女を弁護する。彼女は弁護士で、地方での裁判に行く用事があった。それについてゆくデジャニラ。ミミは告訴された船乗りの弁護をするが裁判は負ける。
この粗暴な中年の船乗りプチガはデジャニラに恋する。プチガは自分が住んでいるユー島にデジャニラとミミをヴァカンスに誘う。ところがクレームをつけた車掌のひとり、リュリュも彼女に恋していた。同僚のル・ガレックを誘ってユー島に向かう。
こうしてみんながユー島に集まってくる。デジャニラを中心にみんながこの島に集まってしまうという現実離れした話だが、彼女はフランスを話せないため脇役でしかない。そう、この映画には主人公がいない。
デジャニラかと思えば、弁護士ミミの法廷での弁護に中心が移り、彼女が弁護する船乗りプチガが主役のように法廷で怒りまくる。裁判のあとはデジャニラにクレームをつけた車掌がユー島に来るので、もうこの時点で主役もテーマも破綻している。
さらにニューヨークからデジャニラを歌手として売り出そうとするインチキ臭いプロデューサーがはるばるフランス僻地の島にまでやってきて、ここからは彼が主役のように振る舞う。
こうした混乱は、もちろん計算の上でのことだ。テーマが破綻しているのではなく、そもそもヴァカンスの破綻をテーマにしているのだから、なんともいいようがない。なんとラストはリュリュが引っ張ってきた車掌のル・ガレックが浅瀬を船を乗り継いでなんとか陸地に辿り着くというシーンで終わる。
ようするに誰がどうなったかの起承転結は、この映画には意味がない。混乱と混沌と非連続的なエピソードの連なりだけである。ラストシーンの浅瀬の海をル・ガレックが歩いてゆくシーンは美しい。ジャック・ロジェは海辺の波の美しい光景を映画に入れ込まないことはできない性格なのだろう。
ただし、この映画が素晴らしいかというと難しい。それぞれのエピソードはそれなりに成り立って、以前の映画よりはずっと物語的で観やすい。ただしそれは彼が映画作りが「うまくなってしまった」ようにも思えるのだ。そこそこ物語も楽しめてロジェのユニークさも感じる。でも、『アデュー・フィリピーヌ』や『オルエットの方へ』にあった無邪気な粗雑さは消えてしまった。
この作品は本来、新人監督に贈られる〈ジャン・ヴィゴ賞〉を獲得したが、すでにロジェはこのとき60歳だった。フランス映画自体が老いつつあった。
珠玉の短編、『ブルージーンズ』
本セットには、その他に短編3作品が収められている。1958年製作の『ブルージーンズ』。1963年に製作された『バルドー/ゴダール』と『パパラッツィ』である。
『ブルージーンズ』は、青春の映画だ。若者ふたりがベスパに乗ってカンヌで、ヴァカンスに来ている女のコを必死にナンパしようとする。いや、なかなかうまくいかない。ただ、それだけの話だ。ひたすらベスパで走り、街中で通りすがりの女のコをナンパする。演出ではなく即興で素人のコに声をかけたりもしたらしい。その街中のリアルな映像もいいが、海岸通りを歩く女のコを何度もベスパで追ってゆくカメラがともかく良い。
たとえばフランソワ・トリュフォーの『あこがれ』(58)で、ベルナデット・ラフォンがずっと森の中を自転車で走ってゆく映像のように。ただ、走っているだけで終わってもよい映画というものがある。
やっとビキニ姿のコふたりをナンパしたもののガソリンを入れたら払うお金がない。代金の代わりにガソリン・スタンドに1台のベスパを預けるハメになる。そこでもう1台のベスパに4人で乗ってしまうのだ。しかも乱暴な運転で。この青春の無謀さを映像化しただけでこの映画は成功だったのだ。
映画の2/3くらいにこのシーンを持ってきて、次は夜のカンヌの街を彼女たちとデートするシーンに移る。昼があり、夜が来る。この当たり前のことがこの作品では、まるでなにがしかの映画的クライマックスかのように感じさせてしまう。青年たちはお金がない。夜のカンヌを彷徨するだけで、行き場もないのだ。浜辺でダンスを踊って、だが、それで恋が深まるわけでもない。どうやらこれは無理と判断するふたり。
そして翌日、ふたりは昼間のカンヌを歩いている。昨夜、「俺たちには明日がある」と呟いたように、また女のコ探しが始まったわけだ。たった22分の映像のなかに青春の見事な断片が詰まっている。
Orquesta Sensaciónの軽快なラテン・ミュージックで始まった映画は、最後も彼らの陽気な音楽で終わる。ちなみにアンリ・サルバドールも音楽担当でクレジットされている。
ジャン=リュック・ゴダールの『軽蔑』の裏側を撮った短編、
『パパラッチィ』と『バルドー/ゴダール』
『パパラッツィ』と『バルドー/ゴダール』は、ジャン=リュック・ゴダール監督の映画『軽蔑』のカプリ島での撮影のいわばメイキング映像であり、『パパラッツィ』のほうは撮影現場に来て、なんとかバルドーの特ダネ写真を撮ろうとするパパラッツィの生態を描いたものだ。ようするに『軽蔑』の撮影現場を撮ることによって、1本はそのメイキング映画を、もう1本はドキュメンタリー映画を作ったことになる。
1963年5月17日の夕方の5時にブリジット・バルドーがカプリ島に着いたところから『パパラッツィ』は始まる。ロケに使われたのは、アダルベルト・リベラによって設計された作家のクルツィオ・マラパルテ邸。『軽蔑』を観た人はわかるだろうが、海辺の断崖に面して階段上の屋上を持つ特異なデザインで、しかもこの邸宅に至る道は、細い一本の道しかない。
パパラッツィたちは、断崖の木陰から超望遠レンズを使ったり、海からボートで近寄って撮ろうとして、映画撮影隊との攻防が繰り広げられる。バルドーのビキニ姿1枚でも撮れれば、大スクープになった時代だ。
ロジェは実際にパパラッツィにもインタヴューする。バルドーにも。そしてロジェの編集によって両者は議論しているように対立する。緻密な編集と構成は、セミ・ドキュメンタリーと言ったほうが良いだろう。そのうえロジェ自身がパパラッツィのように両者を撮るから、この短編映画自体がパパラッツィ的であり、ゆえに観客は、ふだん観られないものをパパラッツィのように分け入って覗き込んでいるような気分になる。ただの生態を描いただけではない。映画の周辺で繰り広げられるもうひとつの物語を18分で描ききった佳作である。
たった20分の長編(?)映画『バルドー/ゴダール』
『バルドー/ゴダール』は、『軽蔑』の撮影の裏側を撮ったような作品だが、言葉を選んだナレーションが素晴らしい。ゴダールが歩いている俯瞰映像。そこにバルドーが後ろから追いかけてきて腕を組んで一緒に階段を上がるシーンには、誰もがグッとくることだろう。
しかし、つねにナレーションは映像を解説したりはしない。映画製作について語り、『軽蔑』に映画監督役で出演したフリッツ・ラングについて語り、ラングへのゴダールの敬意を語る。映像そのものは、船の上で撮影中のラングやそれを見ているゴダールを撮影しているだけのシーンで。
ラングによる映画撮影の現場が『軽蔑』のなかにエピソードとして挿入され、そのラングの撮影やゴダールの撮影をロジェが映画にする。これは映画に囲み込まれた映画なのだ。
最後はティレニア海を遠ざかってゆくボートのシーンで終わる。この間、たったの20分。だが、1時間半ほどの秀作映画を観たような豊穣さと、それ以上に強烈な映像と言葉の印象を残す作品である。
ロジェの映画は、短ければ短いほど良くなる。
『ブルージーンズ』を観たジャン=リュック・ゴダールは、彼をプロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールに紹介して、ロジェは長編の『アデュー・フィリピーヌ』を撮ることになる。それを観てさらにロジェを評価したゴダールは、『軽蔑』のメイキング映像をロジェに任せることにする。こうして『パパラッツィ』と『バルドー/ゴダール』が生まれた。
こういう友情こそが、まさにヌーヴェルヴァーグであった。
※ちなみにここで紹介したDVDは実売価格で8,000円を超える位だったが、現在、廃版になり製造数も少なかったためか、某サイトでは30,000を超える価格になっている。値下がりを待つのが賢明だと思う。
• 監督: ジャック・ロジェ
• 形式: Black & White / Color
• 言語: フランス
• 字幕: 日本語
• リージョンコード: リージョン2
• ディスク枚数: 3
• 販売元: 紀伊國屋書店
• 発売日 2011/10/29
• 時間: 349 分
長澤 均(ながさわ・ひとし)
1956年生まれ。グラフィック・デザイナー/ファッション史家。1981年に伝説のインディペンデント雑誌『papier colle』(特集=ナチズム)を創刊。林海象監督の1987年の『夢見るように眠りたい』ではコスチューム・ディレクション(アンクレジット)を担当した。CASIOのデータバンク・シリーズなどのコンセプト、ネーミングから川崎市市民ミュージアムでの「BAUHAUS」展のデザイン一式など、デザインの範囲も広い。著書に『流行服─洒落者たちの栄光と没落の700年』(ワールドフォトプレス)、『昭和30年代 モダン観光旅行─絵はがきにみる風景・交通・スピードの文化』(講談社)、『BIBA Swingin' London 1965-1974』(ブルース・インターアクションズ)『パスト・フューチュラマ─20世紀モダン・エイジの欲望とかたち』(フィルムアート社)、『倒錯の都市ベルリン─ワイマール文化からナチズムの霊的熱狂へ』(大陸書房)などがある。2016年に400ページを超える洋物ポルノ映画の歴史を綴った大著『ポルノ・ムービーの映像美学─エディソンからアンドリュー・ブレイクまで 視線と扇情の文化史』を上梓、すでに重版となって好評である。