齢61歳となった私が、このたび映画監督デビューすることになった。
私は、1963年京都生まれ。デビュー作品は『また逢いましょう』という。映画監督って、何歳でなれるものだろうか。どうやったらなれるのか。この問いに、正しく答えられる人はいない。公務員や会社員のように、組織に入ればそのまま役人や社員になれるのとは違い、映画監督には試験も資格もない。ついでに日本では給与の基準すらない。極めて曖昧な職業である。
映画監督は、何歳でなれるのか。かつて日本では、監督は助監督という監督の助手を何年かやってから監督になるのが普通だった。撮影所という、今で言えばテレビ局のようなその敷地の中で企画から配給・宣伝まで一貫して行っていた。仕事の場所が増えて、分業が進んだ今では考えられないことだ。そこでは、20歳そこそこで撮影所に入った若者(男性ばかりで、女性はほぼいない)が、ベテランの監督に師事して、何本もの映画に携わる。企画から撮影、仕上げまで、監督の下で修行をしながら、映画作りを学んでいく。そして、何本か、何人かの監督の下で仕事をした上で撮影所長から呼ばれて、「監督にする」と辞令が降りる。撮影所時代では、大ざっぱに言って、30歳過ぎぐらいで監督になっていった。中では早熟な者もいて20代のうちに監督になる者もいれば、不器用でなかなか監督になれず、とうとう他の職種、例えばプロデューサーになった者もいた。
1970年代以降、日本の大手映画会社は、撮影所に所属する人間を雇わずに、スタッフがみんなフリーになった。この頃、新人監督の数はぐっと減った。その後、監督になる方法は大きく変わった。8ミリフィルムによる自主映画を撮ったことで認められて、プロの監督になる者が現れた。これが1980年ぐらいからの潮流だ。一方では、テレビ出身、CM出身、あるいは漫才や小説といった他のジャンルで力を得た者が監督になるというケースが出てくる。監督デビューする年齢は様々だ。20代の者もいれば、50ぐらいになって監督になる者もいる。女性の監督が増えてきたのも大きな傾向である。
さて、私の場合はどうか。私は、助監督経験もないし、自主映画で認められたわけでもない。映画以外の仕事で名をなしたわけでもない。私は、監督以外の、映画の仕事を続けてきたのだ。映画の本や雑誌の編集、映画の配給や宣伝、映画のプロデューサー。それらの仕事を重ねている間に、年も重ねた。監督を志望したのは、17歳、高校二年生の頃であるから、いつの間にか44年も経っていた。その間、監督になるチャンスがあったのか、なかったのか。あったとも言えるし、なかったとも言える。私の場合、他の仕事をしながらも、いつか監督をするという夢をずっと持ち続けてきた。監督をするための勉強の場として、配給や宣伝、プロデューサーという仕事があった。それら全てが今も生きていると信じている。その中でも、最も重要なことは何か。人脈である。長年、映画の世界で生きてきた間に、無数の人たちと会って、仕事をしてきた。一期一会で、ひととき一緒の人もいれば、30年以上の付き合いの人もいる。これが、今度監督をする時に生きてきた。新人監督にも関わらず、素晴らしいスタッフ、キャストに集まっていただけたのも、そうした人脈のおかげである。映画は一人ではできない。大勢の人の力の結集である。新人監督でありながら、豊かな人間関係が築けていたからこそ、映画が形になったといえる。
この夏、還暦を過ぎた新人監督が生まれる。
「また逢いましょう」
製作・監督西田宣善
脚本梶原阿貴
原案伊藤芳宏
音楽鈴木治行
出演 大西礼芳 中島ひろ子 カトウシンスケ 伊藤洋三郎 梅沢昌代 田中要次 田山涼成 筒井真理子ほか