モデルとしても活躍する中川えりなが主催となって、政治やセックスについてざっくばらんに話し合える空間を目指すカルチャーイベント「Making-Love Club」の第2弾が2つのインディペンデントマガジン、HIGH(er) Magazine、Emotional Loveと共にを開催されることになった。
「自由って気付いたら案外なくなってるもんなんだよね。ちょっとぼけっとしてたらさ、この7年で日本の報道の自由度ランキングが11位から72位までさがってたんだなんて誰が気付く? テレビじゃコントみたいな国会のやりとりが 流れてて、道徳の教科書にはパン屋って書いちゃいけないんだとかほんと笑っちゃうけど、でもそれがこの国で、私た ちはそこで暮らしてる。そんな時代に、ここで生きてるってどういうことなんだろう。」
「学び考え、表現する権利が誰にでも与えられている。そんな開かれた国に私たちは生きている」 平成の教育は子供たちにそう教えてきた。
生まれた時から憲法によって自由が約束され守られているんだと安心して、いつのまにか私たちは、その自由を意識すること すら忘れてしまったみたいだ。「共謀罪」、改め「テロ等準備罪」設立に向けた動きが勢いを増している。この法案は「テロ “等”、何かしらの犯罪と関係がありそうだから」という理由で集会や政治活動を取り締まることを可能にする。ジャーナリズムはもちろん、アートや文学といった産物が社会を多角的に切り取って、意見を交換し合うことは、とても大切だったはずだ。 話し合うことが既に処罰の対象となりうるような社会が現実になった時、Making-Love Clubが前回のイベントから掲げる「民主的政治空間の構築」というゴールは一向に達成されない。
私たちはやっぱり、アートも政治もどんなカルチャーも全て同じテーブルの上で話していたい。
自由にまつわる私たちを取り巻く環境は今徐々に、もしかすると急速に、変わってきている。この状況を黙ってじっと見過ご してしまったら、この国の民主主義なんて幻想に過ぎなかったんだと未来の誰かは嘆くだろう。私たちは声を大にして「そうじゃない」と訴えかける必要がある。
10年後の若者に「あのころあいつらが何もしなかったせいでカルチャーは廃れたんだ」だなんて言わせない。(もっとも、そんなことを言う事すら許されない社会になっているのかも知れない。)
自由の虚像の上であぐらを掻いている場合じゃないんだ。
大前提として当たり前に捉えていた民主主義を、今改めて考える必要がある。