今週の「カレイド シアター」は、まず11月27日に閉幕したフィルメックス東京の授賞式のご報告を。
そして、12月10日から新宿シネマカリテ他で公開される「ヒッチコック/トリフォー」にちなんで、新しい映画の時代とヒッチコックの関係について、ちょっとお勉強してみます。
最後に最新公開作は12月10日から銀座シネスイッチ他で公開の「ミス・シェパードをお手本に」をご紹介しましょう。

まずは11/19から11/27まで有楽町マリオンの朝日ホールで行われた「フィルメックス東京2016」の受賞結果をご報告しましょう。

まずコンペティション部門の受賞作を審査員のコメント共にご紹介しましょう。

【最優秀作品賞】 

『よみがえりの樹』 (チャン・ハンイ/中国/2016年/80分)
中国の山奥の村で、何年も前に亡くなった妻が息子と入れ替わって甦り、昔住んだ家に植えた木を植え替えてくれと夫に頼む、というお話です。

授賞理由;映画監督になる前はサッカー選手になりたかったという監督の、オリジナリティーあふれる初の長編映画。中国の片田舎でゆっくりと、しかし痛みを伴いながら村が消えていくという現実を捉えています - しかもそれをセンチメンタルにはさせず、安易なノスタルジーに浸る事もなく淡々と描き出しています。その手法も、男女の性別を超えるという驚くべき展開で。どの場面も強く記憶に焼き付けられます。

監督はフランスのナント三大陸映画祭に出席するために不在でしたがビデオメッセージで「初めてのフィルメックスで思いがけない賞をいただきありがとうございます。感激しています。評価に負けないようこれからも努力していきます。援助と励ましを繰れたジヤ・ジャンクーに感謝します。」と送ってくれました。

【審査員特別賞】 

『バーニング・バード』 (サンジーワ・プシュパクマーラ/フランス、スリランカ/2016年/84分)
1989年のスリランカを舞台に内戦の中で夫を殺されてしまった妻が8人の子どもと姑を抱え生きて行こうとする。というお話です。
授賞理由;本作品は、1980年代後半の残虐な内戦で負った痛みに対する痛烈な叫びです。夫と義母を失い、それでも力を絞り家族を守ろうと苦戦し、挙句の果てに子供たちからの敬意を失ってしまった、とある女性の視点から描かれています。
過去に起きた、ほとんど世間でとりあげられることのなかった出来事ではありますが、現代社会において、むしろ切迫した、今日的に意味のあることとして描かれています。

監督は「1989年の内戦で亡くなった人たちに捧げます。製作にかかわったすべてのスタッフキャストに感謝します。そして私の家族たち、母と兄弟、そして妻にも感謝します。」と丁寧にあいさつしていました。

今年はスペシャル・メンションがありました。

『私たち』(仮題) (ユン・ガウン/韓国/2015 年/95 分)
仲間外れにされがちな小学生の女の子が、転校生と仲良くなるけれど、新学期が始まるころにその子はヒロインから離れて行ってしまうのだが、というお話です。日本でも公開されることになりました。

授賞理由;とても繊細且つシンプルな手法で、子ども達のストーリーを語り気持ちを表現しています。特にクローズアップの子ども達の表情は、多くを語り、我々の心を打ちます。今後が楽しみな若い女性映画監督を激励する意味で、『私たち』をスペシャルメンションと致しました。

「私たち」はもう一つ、観客賞も受賞しています。さらに韓国のアカデミー賞というべき青竜賞で新人賞も受賞したため、その授賞式のためいったん帰国、再来日してフィルメックス授賞式に登場し、挨拶しました。
「初めての長編ですし、小さな作品なのでお客さんにどう受け取ってもらえるか心配でしたが、観客賞をいただけてとてもうれしいです。小さくても真心を込めて作れば伝わるのだなと思いました。ありがとうございます」とコメントしました。

審査員長の言葉にもありましたが、今年の作品は「受難」に満ちた世界を反映するような重たいテーマの物がほとんどでした。メジャーは娯楽に、インティは社会のリアルにこだわる。これは世界が変わらない限りなくならない傾向だと思います。フィルメックスはそういう意味でも他の映画祭にはできないことをしていると思います。見てて辛くても、来年も楽しみにしたいと思いました。

さて。それでは12月10日から公開のドキュメンタリー『ヒッチコック/トリフォー』をご紹介しましょう。

映画『ヒッチコック/トリュフォー』は、フランスの若き映画監督フランソワ・トリフォーが、敬愛するアルフレッド・ヒッチコック監督に、その「映画術」の秘密を明かす本を作りたいと依頼し、ヒッチコックへの克明なインタビューによって書き上げられた本「映画術 ヒッチコック/トリフォー」について描くドキュメンタリー映画です。
1962年8月13日、ヒッチコック63歳の誕生日に始めたインタビューは、ユニバーサル・スタジオの会議室にまる1週間こもって行われました。それは、録音テープにしてざっと50時間分。
そのインタビュー音源を書き起こし、一作ごとにスチールやコマ撮りのイメージで、ヒッチコックのテクニックと映画理論を解説したのが「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」という本です。
この本はインタビューから4年後の1966年、フランスとアメリカで同時に出版され、1981年には日本でも出版されました。この一冊は、ヒッチコックを真の映画作家、芸術家として世界に認識させ、、世界中の若い映画作家や映画ファンの教科書、いえバイブルとなったのです。

ドキュメンタリー映画「ヒッチコック/トリフォー」は、この「映画術」のための伝説的インタビューの貴重な音源と、写真家フィリップ・ハルスマンによるインタビュー風景、そしてその後20年にわたるヒッチコックとトリフォーの友情を描きつつ、この本に影響を受けたという、マーティン・スコセッシ、デビッド・フィンチャー、ウェス・アンダーソン、リチャード・リンクレイター、黒沢清といった監督たちが、自分はいかに「映画術」の影響を受けてきたかを語り、自分にとってのヒッチコック映画を解説してみせるという、機長で贅沢なドキュメタリーになっています。

資料によれば、
「トリュフォーとヒッチコックの最初の出会いは、1954年の冬、「カイエ・デュ・シネマ」誌のためのインタビューでのこと。そして、その8年後の1962年の春、トリュフォーはヒッチコックにインタビューを申し込む長い手紙をしたためる。インタビュー本出版の暁には、“あなたが世界中で最も偉大な監督であると、誰もが認めることになるでしょう”と宣言入りで。
長年、アメリカでの評価にフラストレーションを募らせてきたヒッチコックは、この若きフランス人監督からの手紙に歓びを隠さなかった。その返事には、手紙を読んで涙が出たと告白し、 トリュフォーからの申し出を快諾する旨を書き送っている。」
と、あります。

ではなぜ、ヒッチコックはフラストレーションを募らせていたのか、トリフォーは世界にヒッチコックを認めさせる本を作らなければいけないと思ったのか。それには当時の映画状況を振り返ってみることが必要です。

 トリフォーは1932年生まれ。日本で言うなら大島渚監督と同じ年です。家庭に恵まれなかったトリフォーは不良少年として鑑別所に入れられますが、その彼を引き取って育てたのが映画評評家のアンドレ・バザンでした。バザンの主催する映画雑誌「カイエ・ド・シネマ」に15歳くらいから記事を書き始めたトリフォーは、1954年初めての映画を作ります。それから5年。1959年に自伝的と言われた『大人は判ってくれない』を作り、カンヌ映画祭で監督賞を受賞、一人前の監督として認められることになります。
 と、いっても、トリフォーは当時、カイエ・ド・シネマに書いていた若い映画マニアたち=シネフィルが、伝統的なスタジオシステムによる映画作り、文学や演劇といった先行する芸術に近づくことをよしとする、文学的シナリオ重視のフランス映画などを批難し、自分たちで新しい映画を作り出そうとする運動「ヌーベルバーグ」派を率いる映画人のトップランナーのひとりでした。
 文学的シナリオ重視、という伝統的なフランス映画に対して、ヌーベルバーグの人々が、映画とはこうあるべきだとお手本にしたのが、映像重視、映像で語る、というヒッチコック映画だったのです。
 ハリウッド映画というのは、不特定多数の人が見てもわかりやすいことを大事にします。そのために、映画の表現方法の決まりを作ったり、映像で語る方法を編み出して行ったりしたわけです。そしてその中でヒッチコックは常に前衛を行き、新しい映像表現や映画方式にチャレンジし、実験し続けていました。けれど、ヒッチコックが得意としたジャンルがサスペンス・ミステリー・スリラーという、B級とされがちなジャンルの映画だったことと、興行的に失敗のないヒット作家であったことで、アメリカでは作家・芸術家としては認められていなかったのですね。
 それを、映画史上の偉大なる映画作家として尊敬していますと言ったのが、トリフォーだったわけで、ヒッチコックは感動したのです。自分の試みの数々をわかってくれて、評価してくれる人がいた、と。  そして、「映画術」ができるわけですね。

ヌーベルバーグはフランスの「新しい映画」運動の呼び名ですが、この時代、世界中で「新しい映画」運動が盛り上がります。その担い手は1920年代半ばから1930年代生まれの、「若い」世代でした。年齢的に「若い」とは言い難い人々もいましたが、彼らの価値観は明らかに「戦後」世代であり、伝統的な、スタジオ・システムによって守られた映画界や映画作法にはこだわらず、「新しい」時代を拓く映画、「新しい」表現、「新しい」人材などを積極的に求めていったのですね。
1930年代生まれの「若者」にとっては、自分たちがかろうじて死なないですんだ戦争に対しても、その後の世界の進み方に対しても、それを支えている自分の周りの多数派の人々に対しても怒りがつきまとっていました。例えばフランスではアルジェリアとインドシナの植民地独立戦争を抱え、朝鮮戦争を終えたアメリカはフランスの片棒を担ぐ形でベトナム戦争に突入し、日本はその後衛基地となり日米安全保障条約を改定します。そして、世界の怒れる「若者」たちはあらゆる既存勢力に対して叛旗を掲げ、映画だけではなく、様々な分野のアート界においても同じでした。政治や社会とアートが切り離すことのできない時代が、この50年代の終わりから60年代一杯だったのです。
 そんな時代に、各国の「新しい映画」運動がはじまり、そして若者たちの支持を得て行ったのですね。
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 では、「新しい映画」とはなにか。いくつかの条件が各国に共通してあてはまります。
・スタジオ・システムによらない製作システムをとっている。・セットよりもロケーションを好む。したがって現代ものが多い。
・固定されたカメラ・ワークよりも、機動的な能動的なカメラ・ワークを好む。戦争中に開発された機動力の高い、手持ちでも撮影がしやすいカメラを使用した、即興的な撮影も好む。音に対しても同様の傾向がみられる。起承転結のはっきりしたわかりやすいストーリーや予定調和的なハッピーエンド、文学的、もしくは説明的なせりふより、映像で語ろうとする。編集などのセオリーにもとらわれない。
・音楽の同時代性を利用し、劇伴的な映画音楽よりも、その時に流行っている曲やジャンルの音楽で、監督の好みが反映された音楽を使うことも多い。
・取り上げるテーマは、エスタブリッシュメントに対抗する、若者や労働者階級の人々を主人公としたもので、社会や秩序、権威というものへの反抗を描くことが多い。勢い演ずる者には、演技術や美しさより、リアルな存在感を要求することになる。
などです。

そんな時代に、実はハリウッド映画の最たるものであると見えるヒッチコックが一番新しかったというあたりが、この『ヒッチコック/トリフォー』をみると、なるほどとわかる、というドキュメンタリーになっているのですね。

では、次は最新作をご紹介する「カミング・スーン」のコーナーです。
今週は12月10日からシネスイッチ銀座他で公開される「ミス・シェパードをお手本に」をご紹介しましょう。

「ミス・シェパードをお手本に」はもともと舞台劇です。作者は「ブリック・アップ」「英国万歳!」など映画化も多い劇作家のアラン・ベネットで、彼の経験を元にした戯曲「レディ・イン・ザ・バン」の映画化です。脚本もベネットが書いています。ちなみにこの芝居、日本でも黒柳徹子の主演で上演されています。

 アランは劇作家。売れっ子、とは言えないが、中堅というか、ちゃんと定期的に上演されているし、それで暮らしていける稼ぎはある。時々自作自演で演じてもいる。テーマは自分の身の回り、口うるさい母親との出来事をネタにすることも多く、リアリズム演劇というか、キッチンシンク演劇というか、チェーホフ的、というか、ともかくそういう作風の劇作家、です。
彼はロンドンの北西部にある町カムデン・タウンに住んでいます。今では、ロンドンの原宿と呼ばれるパンクファッションの店の立ち並ぶハイ・ストリートや何でも売っているカムデン・マーケットが有名な街ですが、アランの住む一角グロスター・クレセント通りは文化人が多く住みヴィクトリア朝様式の家が並ぶ閑静な住宅街です。
ここに、どうにも場違いなバンの中で暮らすミス・シェパードが居ついたのは、アランがここに越してくる前のことでした。ミス・シェパードの車は、この通りの坂の上から少しづつ止める場所を移動してきて、どうも坂の下のアランの家の前にたどり着いたようです。
町の人たちは、バンで暮らすレディをどうするでもなく、普通の年老いたレディとして、それとなく世話を焼いてきました。けれど、それをありがたく思う風もないミス・シェパードは悪態をつくばかり。が、ある日、ミス・シェパードのバンが珍しく路上駐車をとがめられ、もうカムデン・タウンにこの先はなくミス・シェパードが困っているのを見て、アランはつい、ひと先ずうちの駐車場にバンを停めたら、と言ってしまいました。
それから15年。ミス・シェパードはアランの家の駐車場に止めたバンの中で暮らし続けています。
そんな不思議なレディとの暮らし、謎めいたレディの過去…。劇作家アランの想像力はいたく刺激されるのですが?!

 なんでショパン?と思われるでしょうが、それはミス・シェパードの過去と関係があります。今ではボロボロの服を重ね着したホームレスファッションの老女ですが、まず第二次世界大戦の時には救急車の運転手をしていたらしいことがわかります。だから車には詳しいし、運転も年取っている割にはちゃんとできます。ま、最初の頃は、ですが。そして、意外なことにフランス語にも堪能で、音楽にも詳しく、この通りに住む子供たちが音楽のおさらいでへたっくそな楽器演奏をしているのを聞くと、我慢ならないで怒り出すのです。
 そんな、彼女がどうしてバンで暮らすようになったのか、少しづつ明かされる事実は、小説より奇なり。実際にアランの家の駐車場に住みついていた謎のレディとの暮らしを元に、アランは戯曲を書いたわけです。
 ちょいと臭い立つようなミス・シェパードを演じるのは、マギー・スミス。舞台でも同じ役を演じたそうですが、これが上手い。全然愛すべきという感じではないし、優しくも温かくもないけれど、どこかユーモアがあって、厳しくも誇り高い、人としての尊厳を主張し、言いたいことは言うし、負けないというイギリス老婦人らしさに、彼女が生きた時代やいろいろな葛藤をにじませて、じつに上手いんですね。イギリス映画を見た~っていう満足感が味わえる作品です。

上映劇場はシネスイッチ銀座など。12月10日からの公開です。


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