10/29から渋谷ユーロスペースで公開される「フランコフォニア ルーヴルの記憶」と、ちょっと先ですが11/26からヒューマントラストシネマ有楽町で公開される「グレート・ミュージアム ハプスブルク家からの招待状」はミュージアム・ドキュメンタリーとは、と考えさせてくれる2本のドキュメンタリーが登場です。
ことしは7月にも「フィレンツェ、メディチ家の至宝 ウフィツィ美術館」が公開されたり、ウフィツィ美術館を舞台にした『インフェルノ』が公開されたりと、なにかと美術館がフィーチャーされる年だな、と感じています。
『インフェルノ』は別にして、といっても実際にウフィツィ美術館やヴェッキオ宮殿でロケをしているので美術館好きにはドキドキものではありました。しかしなー、いくらなんでも壊しちゃ、やだわ(笑)
さて、この2本のドキュメンタリー。ジャンルとしては美術ドキュメンタリーに入るんだと思いますが、作品や作家、美術史に寄り添うのではなく、作品を収集し展示する美術館という入れ物、もしくは美術館に展示するという行為について描くという点で、ここではミュージアム・ドキュメンタリーとよんでみましょう。
ミュージアムには美術館と博物館などが含まれますが、「もの」を展示する博物館ではなくて作品を展示する美術館についてドキュメンタリーを作った方が、しがらみが多くて面白くなるのではないかしら。作品を作る芸術家がいて、その作品を収蔵したい博物館があって、キュレーターがいて、スタッフがいて、お客さんがいて、美術館は成り立つわけです。博物館に収蔵・展示する「モノ」については、その博物館の基準によって、たとえ他の人にとってはガラクタでしかないものも、「お宝」になる可能性があります。
しかし、美術館に展示するものは「美術品」「アート作品」として、「ガラクタ」とは一線を画す「作品」でなければなりません。ま、もっとも、その境界線は、今や限りなく曖昧になりつつありますが。それでも、20世紀の半ばくらいまでは、境界線がある程度はっきりしています。美術館はその境界線の向こう側、美術品・芸術作品として認められたものが到達する場所、なのです。
さてそこで。世界中にあまたある美術館の中でも、ルーヴルといえばその白眉。世界三大美術館というのはどこを差すかと調べた人がいて、その結論としてはだいたいこの4パターンになったそうな。
A ルーヴル美術館、エルミタージュ美術館、メトロポリタン美術館
B ルーヴル美術館、プラド美術館、メトロポリタン美術館
C ルーヴル美術館、エルミタージュ美術館、プラド美術館
D ルーヴル美術館、プラド美術館、ウフィツィ美術館
あれ? アムステルダム国立美術館とか、グレート・ミュージアムのウィーン美術史美術館とか、ベルリン美術館とか入らんのかなーと思いましたが、3大だとこの辺りに落ち着くんでしょうね。10大なら有名どころはだいたい網羅できそうだけれど。
ともあれ、ルーヴルは絶対入るわけですね。ということはもうすでにいろいろな角度から描かれているわけですよ。それを新たなドキュメンタリーにする、というのは冒険だと思います。
さて、話をルーヴルに戻しましょう。ルーヴル美術館は、というか、フランスのミュージアム文化は伝統を守るだけでなく、常に新しさをとりこむチャレンジも行っています。例えばいまでは文字通りルーヴルの顔になったガラスのピラミッドだって、作る時にはそりゃあもう、たいへんな騒ぎになったもんです。でも、やっちゃうんですねルーヴルは。
そんなところですから、今までとは違う形でルーヴルを描いてくれと、どうぞお好きに、といったかどうかは分かりませんが、アレクサンドル・ソクーロフ監督にルーヴル美術館のドキュメンタリーを作らせたわけです。
ソクーロフ監督は2002年にエルミタージュ美術館をワンシーンワンカットのデジタル撮影で撮影したドキュメンタリー『エルミタージュ幻想』を作っています。『エルミタ―ジュ幻想』は、240年のロシア王家の歴史とエルミタージュ美術館を重ね、歴史ドラマが美術館の、もともとはここは宮殿なので、そこで歴史的な出来事や人間ドラマが起こっているかのように、扉から扉へとカメラが移動しながら歴史と展示を総まくりする、という手法でした。
今回はルーヴルの歴史をたどるのではなく、ナチスドイツによる占領を軸に、戦争と美術館と歴史という視点でルーヴルを語りなおして見せました。ルーヴルが宮殿から美術館に変わった革命期、美術館として発達したナポレオン期、そしてナチスによる占領期、それぞれを象徴する人物を登場させ、誰もいなくなった廊下を亡霊が徘徊するような感じで、ルーヴルの象徴するものを描いていきます。
美術館や博物館というものは、はっきり言うと戦争と略奪によって作られたようなものです。世界的なものであればあるほど、独裁者たちはそれをまとめて手に入れたいと願うわけで、その点においてはナポレオンもヒトラーも似たようなものでした。もともと、芸術とは、権力者にとっては、神にとって代わって人々を支配する自分たちを讃え、その業績を伝えるものです。芸術は神の栄光を讃えるものから権力者を讃えるものになっていくのですが、それは権力者が王族や貴族から金持ちに変わっただけで、今も続いている気がします。
ルーヴルの収蔵品は占領当時の館長ジョジャールと、フランスびいき、つまり「フランコフォニア」だったナチスの担当将校メッテルニッヒの協力で守られることになるわけで、そのあたりの二人の駆け引きや、ヒットラーの命令のかわし仕方などはなかなかサスペンスがあります。今も、戦争で美術館や博物館や遺跡などが破壊され略奪されることがありますが、そこにジョジャールとメッテルニッヒのような関係があれば、と思ってしまいました。
『フランコフォニア ルーブルの記憶』がフィクションを織り込んで実験的な手法で作られ、監督の意思を表現したドキュメンタリーになっているのとは対照的に、『グレート・ミュージアム ハプスブルグ家からの招待』はフレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリーを思わせる「ダイレクト シネマ」の手法で作られています。
監督はヨハネス・ホルツハウゼン。ナレーション・インタビュー・音楽などを一切排除して、そこにいる人びと・そこで起こっている物事・そこで聞こえている音だけで構成しています。
といって、それは単なる記録ではありません。何を撮影し、どのシーんを使い、どのコメントや音を残し、どう編集するか。それによって、映画の意味、つまり監督の意図というものがドキュメンタリー作品として浮かび上がってくるのです。
この手法は、何層にもなった人間群像があり、それぞれのプロフェッションが発揮されるひとつの舞台を描くとき非常に効果を発揮します。美術館なんて、ぴったり。創立120周年を機会にあちこちを改装することになったウィーンの美術史美術館に密着。2年かけて、収蔵庫や修復担当者から、各部門の展示責任者、運営部門の人々、お掃除の人から総館長まで、それぞれのプロが、予算と格闘しながら、伝統と新しさと、保存と展示と収入と、などなどひたすら取り組んでいく様子がつぶさに記録されていきます。
その事実の集積によって浮かび上がってくるのは、現在の世界の美術館が抱える様々な問題。まず、予算。増え続ける収蔵すべきものにたいして少なすぎる予算と収蔵場所。展示の機会の奪い合いや、熟練の人手が足りず修復の順番待ちになっている収蔵品、展示のための新しい技術が美術品に与える影響の良し悪し、広報と現場、運営と現場など、管理運営側と現場の確執などなど。こんな美術館内部の問題だけでなく、世界的な美術館事情を巡る生き残り競争にも思いをはせることになります。おそらくここに登場する人たちは、オーストリア屈指のプロフェッショナルたちなんでしょうが、なんか人間臭い。というか、フツーっぽい。自分の仕事は超一流なんだとも意識していない風なんですよね。それが、うらやましいです。私には到達できない世界なんだろうなって思うんですね。そういう、超一流プロの仕事を見るのが私は好きなんですよね。もう、わくわくしちゃいます。
「フランコフォニア」「グレート・ミュージアム」全く違う手法で作られた、けれどどちらも非常に優れたドキュメンタリー。ぜひ比べてご覧になってくださいね。
「フランコフォニア ルーブルの記憶」は10/29から渋谷のユーロスペースで、「グレート・ミュージアム ハプスブルグ家からの招待」は11/26からヒューマントラストシネマ有楽町で公開されます。