『君の名は。』その1

現在(11/4)、興業収入が170億円を突破した同作品。今年の東宝の一番の目玉と言われていた『シン・ゴジラ』が65億円。今年中には200億円突破するのでは、と囁かれている。
さて、こういう私も劇場で三回鑑賞。

物語の構造が実によく出来ており、今までの新海監督の閉じられたアニメファンだけに向けた作品作りではなく、万人に向けられた作品作りだというところが最も特徴的だ。
よく注目されるところではあるが、大林宣彦作品の『時をかける少女』(原作は筒井康隆)や『転校生』(山中恒原作)のタイムスリープや思春期の男女の肉体の入れ替わりというある種お決まりの定型の設定にアニメとアニメに対して親しみやすい世代への親和性がある。

物語の設定で、タイムスリープや肉体の入れ替わりは現代の日本人にとって、さほど珍しくも驚くべきことでもなく、既視感すら疾うに超えて、「物語の中で、そういう話はよく聞くし、むしろ伝統的」と思われるはずだ。「男女肉体の入れ替わり」や「タイムスリープ」は、もはやそれ以上でもそれ以下でもない、それ自体をテーマは賞味期限が切れており、寧ろこの作品はメインテーマにしていない。
この新海誠『君の名は。』が、特異なのは、もはやB級テレビドラマや亜流アニメでしか扱われないそういった要素を敢えて深掘りせずに記号として入れつつ、もっと「現代性」のある視点から物語をとらえ、また制作されているところであろう。

まず、幾つか脚本と絵作りで思ったことを挙げてみよう。
新海誠が最も得意とするところのひとつは、「言葉」である。選ばれた「言葉」たちは、ときには呟きや曖昧さを露呈する。それは感情を言語化できないという状態そのものの表出となる。これは誰しも経験したことがあるであろう言葉にならない(いまは)決定や判別できない感情である。
もうひとつ新海作品の得意とするところは風景における光や空気感の描写である。
また、実際に存在する風景や建物などが随所に登場するのも特徴だ。架空の都市や街の物語ではなく、とくに説明的な描写やセリフで言われなくとも実在の風景が使用されているのが把握できる。しかし、それが本当の意味でリアリティがあるのかどうかどうか。どこか冷たく、一度フィルターに通されたもうひとつのリアリティともいうべき印象を獲得している。実在する固有の場所でありながらどこか冷めた距離感のある、しかしとても美しすぎる風景。描写。それは映画の中で完結するものではなく、実際のモデルになった風景や街に跳ね返ってくるリアリティさである。それは映画の中だけの閉じられた体験ではなく、実際にその場所や街を知っている人物には、これから見え方を変えてしまう映画体験にもなるし、鑑賞後初めてその場を訪れる者には、新たな場所のイメージを付加させる新体験させる効果を持つものだ。どちらにせよ、鑑賞者にアクチュアルな衝動を起こしうる作品なのだ。

このふたつ要素でこの『君の名は。』は、非常に開かれた印象の作品になっているのだと思う。
特に昨今の日本のアニメでは舞台になった地方都市やスポットが、鑑賞後にファンにとって聖地巡礼という対象になる。これは、作品を共同体験することによって、何かしらの感覚が配信ダウンロードされることに近いのかもしれない。

磯崎新は ロサンゼルスに行ったときの印象から始まる「見えない都市」(1967)で、都市というものがあらゆる記号の揺れ動く波の中で埋められ始めている、と述べた。19世紀まで行われてきた都市の認知の仕方や、見る視線をそこに貫通させて作られた空間構造は解体してしまった。それは「実体的な都市空間の体験のため」だと。
また、イタノ・カルヴィーノは『見えない都市』(1972)で、マルコ・ポーロはフビライ汗に自分が廻ってきた世界中の諸都市のことを語る。とても修辞的に視覚のみならず臭覚や触覚までも刺激するような文体で艶めかしく、その都市の幻想的な断片を語るにつれて、我々は入れ子構造の迷宮の都市に入っていく錯覚に襲われる。

昨今のアニメ映画と聖地巡礼の曖昧な関係性は、この『君の名は。』において、最も現代的で感覚的でありながら、実体験に基づく都市論への昇華寸前の状態になったといってもいいのかもしれない。

画像: 映画と実際の四谷

映画と実際の四谷

具体的に固有の場所について述べるとしよう。
この映画は新宿から、四谷、千駄ヶ谷、代々木、六本木、、、あたりが都内での主な舞台である。
あとは飛騨や広島とのこと。筆者は東京新宿在住なので、都内に絞って場所性を考えてみたい。
都内ではJR新宿駅、JR四ツ谷駅、JR千駄ケ谷駅を結ぶトライアングルの中で展開する物語であり、それはJRという「電車」で囲われた「徒歩圏内」という最も身体的な単位であることが特徴的だ。
地下鉄や他の交通機関は出てこず、東京ではあるがとてもシンプルに空間を面でと捉えているところが、より一層巨大彗星が横断する天空と対比されている。都内のビル群は摩天楼として出てはくるが、それらは千年に一度の天空ショウに比すれば、微々たるものだ。(岡崎乾二郎は複雑に地下鉄が絡み合う赤坂見附の駅の特徴に注目し、様々な用をが重なりあっても透明性を保つ「意味の透明性」をコンセプトに彫刻作品を展開した。これはコーリン・ロウの『コラージュシティ』の考えである。)
そのトライアングルは最近の岩井俊二監督の『リップヴァンウィンクルの花嫁』にも登場する疑似家族の出会いの場でもほぼ同じであることが興味深い。岩井作品の場合は紀尾井町から四谷、そして新宿だったが、、、。(岩井作品は面というよりより点的で都市を捉えている)

画像: 『リップヴァンウィンクルの花嫁』場面写真

『リップヴァンウィンクルの花嫁』場面写真

東京の中で「四谷」という場所の持つイメージはとても透明性があり、浄化しやすいイメージがある。それは意味の透明性やガラスや鏡、パンチングメタルなどの建物が多いなどの物質的なものとも異なるものだ。この物語で根底にある「神道」的な気の透明性ではないか。「水」に関する透明性とも言えるのかもしれない。四谷にはその類の透明性が確かにあるのだ。太田道灌から徳川家康の都市計画を下敷きにされた大都市東京は、古来から水都とも言われ、水路や堀、上水道が発達してきた。また武蔵野台地からの岩盤が幾つかの場所で断層として露出する。四谷という場所はそれらが一堂に交わる複雑な場所でもあるのだ。


(続く)

画像: 『君の名は。』その1

ヴィヴィアン佐藤 略歴

美術家、文筆家、非建築家、映画批評家、ドラァグクイーン、プロモーター。ジャンルを横断していき独自の見解で何事をも分析。自身の作品制作発表のみならず、「同時代性」をキーワードに映画や演劇など独自の芸術論で批評/プロモーション活動も展開。 野宮真貴、故山口小夜子、故野田凪、古澤巌など個性派のアーティストとの仕事も多い。2011年からVANTANバンタンデザイン研究所で教鞭をもつ。各種大学機関でも講義多数。 

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