『男と女』と『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は同じ映画の
前編と後編。恋愛とは速度の話。
現在、恵比寿ガーデンシネマで上映されており、全国に拡大するデジタルリマスター版『男と女』(1966)。主演され挿入歌作曲し歌っているピエール・バルーさん、先日ピエールさんの奥様のアツコバルーさんと映画上映前に恵比寿ガーデンシネマでトークショウをしてきました。
トークショウでは、ピエール・バルーさん主催のヨーロッパ最古のインディペンデントレーベルと言われる「サラヴァレーベル」の立ち上げのエピソードや現在の「サラヴァレーベル」の状況。そして右でも左でも中立でもない、一貫したそのリベルタンでクレオール性を話していただきました。
さて、今回のデジタルリマスター版では画像が大変美しくなっているばかりか音色や音質も格段に上がっております。
恵比寿では、その本編上映前に8分48秒の短編『ランデヴー』(1976)が上映されています。実はこの作品が『男と女』を解読する重要な補助線になっていることに気付かされます。『男と女』は甘いだけの恋愛物語ではないのです。。『ランデヴー』は大変カルトな映画とも言えます。
8分48秒『ランデヴー』を拡張すると102分の『男と女』本編になるという仮説を立てます。
逆に言うと『男と女』を8分に圧縮した映像が、まさにカルト映画『ランデヴー』ということになります。
早朝のパリ市内、暗闇のトンネルから始まり凱旋門からコンコルド広場を通過し、オペラ座を尻目に、モンマルトルの丘まで一気にワンカットで自動車が疾走します。車種はメルセデス450SEL6.9とのことですが、爆走する音はフェラーリ275GTBを後から被せているそうです。赤信号はすべて無視し、歩行者や鳩も蹴散らし、時には対向車線をはみ出し爆走し続けます。セリフや説明は一切ありません。
もちろん無許可で、一発撮影なのですが、その相当スリリングな映像はスピードの欲望に訴えるだけではなく、だれかの犯罪現場を目撃してしまっているような後ろめたいが何故か惹かれてしまう欲望に刺さるギリギリの作品です。というか完全にアウトなマズイ作品となっております。
どちらの感情も理性や計画性のあるものではなく、完全に生理的な動機に基づき、生理的な感情に訴えてきます。
そもそも<ランデヴー>という意味は、デートや、会談、会合といった意味ですが、この場合は人工衛星など宇宙飛行隊の言葉として捉えるとさらに明確になります。
高速で飛行するふたつの飛行体のそれぞれの軌道が一致し速度が近づき、相対速度がゼロに近づくことです。
まさに恋愛とは完全に速度の話であり、相対速度が徐々にゼロに近付くとき人は相手を意識し、さらにさらにゼロに近付いていき恋に落ちます。そして速度が完全に等しくなったときに人は付き合いだすのです。まさに<ランデヴー>状態になります。
そして、その速度も次第にずれていくとき恋愛は終わりに向かいます。
また、人間は常に飛行体ですので、またふたつの軌道が一致し相対速度がゼロに近づくとき、また恋に落ちるのかもしれません。。。
「恋愛とは速度の問題である」という定義が成り立つならば、『男と女』もまた速度の話であり、劇中にはレースシーンも幾つか出てきますが、ドーヴィルまでの自動車や列車、船、馬、駱駝、歩行、小走り、、、など幾つかのヴィークル(乗り物)が速度ともに示唆的に表示されます。
ジャン=ルイの子供アントワーヌも幼いながら消防士に憧れ、消防自動車というヴィークルに既に興味を持っているのです。
そしてジャン=ルイとスタントマンが職業であるピエールは、アンヌとともに三角関係で、対極する人物像に描かれているようですが、スピード狂か爆発狂かの違いで、どちらもスリルなしでは生きていけない男性特有の性格のようです。。。
さて、恋愛と速度の関係に話を戻します。
昨年、大ヒットした作品『マッドマックス 怒りのデス・ロード』もまた恋愛と速度の話と捉えることができます。
この作品は逃げだした花嫁たちを必死に追いかける映画です。冒頭から花嫁たちの飛行する(生きる)を速度とイモータン・ジョーの飛行速度が異なっております。映画では描かれておりませんが、同じ速度のとき、相対速度がゼロの時期、いわゆるランデヴー状態はあったのでしょうか?あったはずです。
要するに、『男と女』は恋愛が始まろうとする予感の気配の映画だとすると、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は恋愛が終わろうとする焦燥感の映画なのです。
さらに『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を体験した現代の我々が、制作され50年のときを経て今回の『男と女』に接する態度にはどのような可能性があるのでしょうか。。。
さらに踏み込んで解釈すると、『男と女』は「〈恋愛の始まり〉第1章」で、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は「〈恋愛の終わり〉 第二章 続編」となります。このふたつの作品に挟まれたところがいわゆる<ランデヴー>状態=相対速度ゼロの所謂「ラヴラヴな恋愛における臨界状態に入る」ということになります。
そこでは物語は生まれません。ランデヴー状態の平滑空間から異変が起き心が掻き乱され、予測しないノイズが生まれた時に物語は始めて生まれます。ノイズそのもの物語だと言ってもいいのかもしれません。。
そして、最後に『男と女』にまた話は戻ります。
恋愛もジェンダーにおいても、現代という時代は典型的な類型はさらに解体がすすみ、この映画の『男と女』という題名から想像してみても、「男」であることや「女」であることの問題が浮上します。この映画は、現代性というパラメータを使用することにより、「男性性」や「女性性」の何を問いかけるのでしょうか?
「男と女」という問題は、さらには「男は女」、「男で女」、「男か女」、「男や女」、「男の女(女性性)」など現代のジェンダー論に発展して考えることができるのです。
またジャン=ルイもアンヌも、結婚相手が既にこの世から居ない男やもめであり、未亡人です。そこがこの物語の設定の興味深いところで、新しい恋愛の始まりとはひとつ前の恋愛のパートナーを殺害することに他なりません。それは実際に前パートナー亡くなっていなくとも、本人の中では死んだことと同義なのです。逆説的に言えば、相手に興味がなくなったということは相手を殺害することなのです。
人は恋に落ちるときに盲目になり、まずは自分自信を殺害し、全パートナーとの誓い破棄の言い訳として、前のパートナーも死んだことにしてしまう免罪符を自ら知らずに作り出してしまうのかもしれません。
美術家、文筆家、非建築家、映画批評家、ドラァグクイーン、プロモーター。ジャンルを横断していき独自の見解で何事をも分析。自身の作品制作発表のみならず、「同時代性」をキーワードに映画や演劇など独自の芸術論で批評/プロモーション活動も展開。 野宮真貴、故山口小夜子、故野田凪、古澤巌など個性派のアーティストとの仕事も多い。2011年からVANTANバンタンデザイン研究所で教鞭をもつ。各種大学機関でも講義多数。