昨年冬から年明けまで、クンストハレ・ウィーンで展覧会『Political Populism』が開催されていました。国際的なアーティスト25名が参加していたこの展覧会はとりわけ、キャッチーなタイトルとともにトークショーなど全てのプログラムが無料であり(*1)、また、政治家など著名人の公的な場での「ポピュリズム的」発言が引用されたポスターが街中に貼られるなど、展覧会が始まる前から注目されていた展覧会でした。
というのも、政治的な場における大衆迎合的な意味合いを帯びたこのタイトルは、政治団体に限らず、広く一般に使われているような、人々の心に響くシンプルで力強い言葉使いから着想されています。連日話題になっているアメリカ大統領選挙など世界中のニュース映像からは、発言の内容がどうであるということよりも、候補者や指導者が発する言葉に熱狂する人々の姿がうかがえます。
政治と芸術、そしてポピュリズムの三者の関係は歴史的にさまざまな変遷を経てきていますが、現在の政治におけるポピュリズムが、現代美術においても同様に表現の問題として横たわっているという問い立てをしたのがこの展覧会です。
オープニングに行われたクリスチャン・ファルスナエス(Christian Falsnaes)の屋外パフォーマンス《Front》(2015年)では、アーティストの呼び声に呼応して仮設の壁の前に招かれた数人の観客が無作為にスプレーをかけはじめました。その後、壁は大胆にチェーンソーで解体され会場内に持ち込まれて再構築されるという、それだけのものです。にもかかわらず、大声で周囲の人々を鼓舞して、そこに何かあるのではないのかと錯覚を起こさせる、彼の指導者的なレトリックを含んだパフォーマンスは、観客を極端に熱狂させ、その周囲への盲目性とイベント性において政治の場を擬似的に再現しているようでした。
とはいえ、展覧会の主軸は、コンピューター技術の標準化された環境下においては、政治と芸術の実践が重なるのがそのような伝統的かつ美学的な形式だけではなく、身近なポピュラーカルチャーや、コミュニケーションツール、インターネットを介したSNSの中で行われている、あるいはそこから生まれてきているという重なり合いにあったといえるでしょう。
難民問題からISに至るまで現在進行形で起こっている問題は、インターネットや電子機器を介した情報抜きに語ることは不可能であると同時に、私たちの個人の日常もそれらと切り離すことができません。また同時に、ドキュメンタリー映画『Citizen four』(2015年) (*2) も公開されるなど、エドワード・スノーデンが暴露した諜報同盟の存在はスキャンダルとして未だ記憶に新しいでしょう。
展覧会の中では比較的静穏な作品であったトレバー・パグレン(Trevor Paglen)のGoolge mapの地図にさえ載ることがない英米諜報機関の秘密施設を遠方から撮影した《89 Landscapes》(2015年) が、直接的にこの映画のイメージを使っているように、インターネット上に提供されたデータとその背後にある大衆監視の見えない権力は、直接的な情報規制とはまた違った形で現代の情報社会に横たわっています。
しかし、これらの諜報機関で使用されているシンボルが空想的なゲームキャラクターに似せてデザインされていることを、中世の知の象徴であったヴェネチア図書館と結びつけたサイモン・デニー(Simon Denny)のインスタレーション《Secret Power Highlighted》(2015年) のように、それら権力は奇妙な形で大衆文化に近づいています。
また、映画のトレーラーや人工衛星中継を使用したニュース番組、ゲームなどのデジタルイメージを、モーションキャプチャを用いて映像化し、異質な空間として再構築したヒト・シュタイエル(Hito Steyerl)の大規模作品《Factory of the Sun》(2015年) 、コンピューターのスクリーン上のインターネット画面やチャットカメラと、映画など様々な映像を重ねたケレン・シッテル(Keren Cytter)の映像作品《Metamorphosis》(2015年) 、ジュン・ヤン(Jung Yang)の自身のオーストリアへの移民経験とGoogle画像検索のイメージの一致/不一致を浮かびあがらせる映像作品《Becoming European or How I grew up with Wiener Schnitzel》(2015年) など、物質化されたイメージよりも、身近でかつスクリーン上に登場する表象こそが私たちのイメージとして現実的であるような両者の相互浸透性の中で、大衆的なイメージへ反応する政治と芸術は同様の傾向を共有しているものとしてもみることができます。
もう一つの展覧会の軸は、地理学的に具体的な出来事や政治への言及を通して、政治と大衆の軋轢から生まれた排除や周縁化された人々や表現についての作品群です。例えば、ミヌーク・リム(Lim Minouk)の映像を組み合わせたインスタレーション作品《Navigation ID》と《from x to a》(2014年) は、50年代の冷戦構造下に韓国政府によって行われた、共産党党員として疑われた者の大量殺人を、残された資料や遺族のインタビューを通して構成したものです。
エリック・ヴァン・リースハウト(Erik van Lieshout)の《Dog》(2015年) もまた、オランダに亡命申請を出した反プーチン派の政治家が申請拒否されて自殺した事件(後にそれがコンピューターのエラーに過ぎなかったことが分かる)の追悼パフォーマンスを人権活動家たちと行った記録を、現在実際にオランダに暮らしている難民のインタビュー映像と並べるなど、過去の出来事と自身のアーティスト活動、そしてさらに現在進行形の出来事を重ねた作品です。
ゴシュカ・マクーガ(Goshka Macuga)の《Notice Board》(2011年) は、ポーランドの現代美術の文脈で起こったスキャンダルを集めたもので、例えば、マウリツィオ・カテラン(Maurizio Cattelan)の立体作品で、隕石にぶつかって床に倒れた等身大のローマ法王の人形である《La Nona Ora》(1999年) がポーランド内で大議論を巻き起こし、最後は右極政党員によって破壊された事件を伝える新聞や雑誌の記事、手書きのノートなど大量の紙の資料だけが貼り付けらた作品です。
展覧会のキュレーターであるニコラウス・シャフハウゼン(Nicolaus Schafhausen) によると、2005年にデンマークで起こったムハンマド風刺漫画掲載問題事件からこの展覧会の構想を始めたそうです (*3) 。しかし、「表現の自由」と「表現の検閲」の両者が同様に政権的なプロパガンダのように働いている現在において、これらの個別の事象を扱った作品は、大衆(文化)に絡む形で存在している政治と芸術の関係性を様々な形であぶり出しているとはいえ、作品が雑多に並べられた展覧会空間からは、それら個別の問題が各地でのヴァリエーションとして見えてしまいました(ちなみに、ジャーナリズムではない現代美術として、これらの作品各々は示唆に富んだものが多かった反面、展覧会では作品の背後にある調査研究があまり反映されずに、個別の作品が並ぶという従来の展覧会形式に還元されてしまっているというのが私の第一印象でした)。
これらの個別の問題は国際的に切実さをもって共有・捉えられるべきである一方で、さまざまな文脈から集められると、現代美術のポピュリズム的な節操のなさを逆に露呈しているようにも見えてしまったように思います。
最後にもう一つ付け加えると、本展覧会のキュレーターでありクンストハレのディレクターであるシャフハウゼンは昨年のヴェニス・ビエンナーレのコソボ館のキュレーターでもあり、その代表作家であったフラカ・ハィティ(Flaka Haliti)もこの展覧会に参加していました。
また、先述したサイモン・デニーとヒトー・シュテイエルの作品は両者ともヴェニスビエナーレの為(ヴェネチア図書館とドイツ館)に作られたものでしたが、会期中にも関わらずそのまま再構築されていたということは私の展覧会経験としてはとても新鮮でした (*4)。
アートのグローバル化におけるアートサーキットへの批判は常套句のように各方面で使用されていますが、こうしてサイトスペシフィックに構築されたものが、すぐさまに別の場所に持ってこられるという、現代美術の“速さ”についても考えさせられたことは言うまでもありません。
*1: 通常の場合と比べて入場者数や階層にどれくらい差があったのかは不明ですが、無料の目的であった「何度でも足を運ぶことができること」は、少なくとも私も含め周囲の人々の間では達成されていたように思います。もともと芸術の学生は入場料が2ユーロですが、無料であるため、友人らとともに、長い映像作品を見るために、あるいはアーティストトーク、スクリーニングに参加するために何度も展覧会会場に足を運びました。
*2: 監督はローラ・ポイトラス監督で、エドワード・スノーデン事件の経過を追うドキュメンタリー映画(個人的には、ハリウッドのフィクション映画のようなドキュメンタリーだったので、その意味でも興味深かったです)。
*3: キュレーターツアーのトークより。事件は、デンマークの日刊紙に掲載されたムハンマドの風刺漫画を巡り、イスラム諸国の政府および国民の間で非難の声が上がり外交問題に発展したもので、パリのシャルリー・エブド襲撃事件にもつながる事件です。
*4: この展覧会は2015年11月頭に始まり、ビエンナーレは同年11月末まで。