Cinefil原稿『映画と小説の素敵な関係』
第八回 『ロンドン・ブルバード―LAST BODYGUARD―』―前編
『ロンドン・ブルバード―LAST BODYGUARD―』――この作品は2010年のイギリス映画で、日本でも2011年に公開された作品ですが、私は日本に入って来る前から楽しみにしていた作品でした。それは、名脚本家ウィリアム・モナハンが初めて監督した「ノワール作品」だと聞いていたからです。
「監督って具体的には何をする人なの?」と、時折、映画業界以外の人から聞かれることがあります。もちろん、「監督」とはすべてを指揮する人なのですが、映画制作者でなければ確かに少し漠然としているのかも知れません。
「脚本家」はストーリーを作る人、「キャメラマン」は画を撮る人と、イメージしやすいわけですが、「監督」が具体的には何をするのかという疑問を抱かれる場合があるのです。
そう聞かれると私は、「演出をする人」と答えるわけですが、ひとことで「演出」といっても、それは映画のすべてを指しているのと一緒で、具体的なことが解りにくいようです。
そこで私は「演出」の根幹である「コンテ」(カット割り)についての話しをします。まず一つのシチュエーションを設定し―大抵は解りやすいように、「喫茶店の窓際の席で若い男女が向かい合って話しをしている。」とします―、まず、セオリーと呼ばれるようなスタンダードなコンテを口頭で説明をするのです。映画やTVドラマを一度も観たことがない人はまずいないので、誰しもが簡単にイメージ出来、「映画とかドラマって、だいたいそういう撮り方している」と、納得します。それから別なコンテで構成する手法をいくつか説明し、それぞれの場合の観客が目にした時の印象度の違い、要するにキャメラワークを含めた映像の視覚的効果を説明します。もちろん、会話の内容によっての見せ方の違いも含めて。
つまり、それが「演出」の根幹にあるものであって、脚本を基に、いかに効果的な映像として見せるかを考えて決める(注:厳密には大抵はキャメラマンさんと相談しながら決めてゆきます)のが「監督」なのだと。すると、まず皆、納得します。
そうすると、脚本にはどこまでのことが書いてあるのかと追って聞かれる場合が多いです。脚本家は映画の「設計図」を作っているのですから、もちろん「どう見せるか」まで基本的には考えていますが、それをどこまで脚本に書き込むかは脚本家さんそれぞれだと思います。
私は監督もする人なので、つい細かく書いてしまったりするのですが、今までに脚本を担当した仕事で監督さんたちに、「コンテがあきらかに見えるような書き方しないでよ~」と苦笑しながら言われたりしたことがあるので、書き込み過ぎないように注意しています。
つまり、脚本家の頭の中には、常に脚本家としての「演出」が存在しているのです。
前置きが長くなってしまいましたが、そういったこともあって、私は名脚本家が監督までした作品と聞くと、非常に興味をそそられるのです。
ウィリアム・モナハンはあの香港映画の傑作『インファナル・アフェア』をハリウッドでリメイクした『ディパーテッド』でアカデミー脚色賞を獲った人です。
私はモナハンがその後に脚本を担当した『復讐捜査線』という作品が好きなのですが、この作品はイギリスで人気を博したという、TVドラマ『刑事ロニー・クレイブン』を劇場用映画として焼き直したものだったのです。
つまり、ウィリアム・モナハンは「脚色の達人」ともいえる脚本家であり、その人の初監督作品なのです。しかも、「ノワール作品」の上手な。
この『ロンドン・ブルバード』もまた、日本では『ロンドン・ブールヴァード』(原題はどちらも『LONDON BOULEVARD』)というタイトルで刊行されているノワール小説を原作として脚色したものでした。私は未読だったのですが、その小説の存在は知っていました。
そして、この映画と巡り会ったことで、この小説じたいもまた、ある名作を「脚色」したかのような小説であることを知ったのです。