戦争と映画−戦意高揚映画から反戦映画まで。
『原爆の子』(1952)@京都文化博物館フィルムシアター

京都文化博物館フィルムシアターでは、戦争と映画−戦意高揚映画から反戦映画まで、と題する特集上映を開催中です。
8月11日は『原爆の子』(1952)が上映されました。

広島の被爆者児童が、自分たちの体験を綴った作文「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」が原作。広島出身の監督・新藤兼人は被爆時に幼稚園で教師をしていた女性が、7年経って、当時教えていた園児の消息をたずね歩くという形式で脚本化。

占領軍の指導により原爆の被害を何も知ることなく暮らしていた人々が、7年後に目の当たりにしたその傷跡は、のどかな瀬戸内の情景、一見復興したかに見える広島と、その中で未だ苦しむ被爆者の現実と対比され、見るものを画面に引き込んだ。

京都文化博物館 映像情報室 The Museum of Kyoto, Kyoto Film Archive

‪#‎ミニシアター‬ http://www.bunpaku.or.jp/exhi_film/

画像1: 戦争と映画−戦意高揚映画から反戦映画まで。 『原爆の子』(1952)@京都文化博物館フィルムシアター

京都文化博物館フィルムシアター、戦争と映画−戦意高揚映画から反戦映画まで。
8月11日は『原爆の子』(1952)。広島の被爆者児童が、自分たちの体験を綴った作文「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」が原作。

広島出身の監督・新藤兼人は被爆時に幼稚園で教師をしていた女性が、7年経って、当時教えていた園児の消息をたずね歩くという形式で脚本化。
占領軍の指導により原爆の被害を何も知ることなく暮らしていた人々が、7年後に目の当たりにしたその傷跡は、のどかな瀬戸内の情景、一見復興したかに見える広島と、その中で未だ苦しむ被爆者の現実と対比され、見るものを画面に引き込んだ。

‪#‎ミニシアター‬ http://www.bunpaku.or.jp/exhi_film/

画像2: 戦争と映画−戦意高揚映画から反戦映画まで。 『原爆の子』(1952)@京都文化博物館フィルムシアター

『原爆の子』
1952(昭和27)年近代映画協会・劇団民藝作品/96分・モノクロ

『原爆の子』
1952(昭和27)年近代映画協会・劇団民藝作品/96分・モノクロ
配給:北星映画 製作:吉村公三郎 協力制作:山田典吾、絲屋寿雄、能登節雄 監督・脚本:新藤兼人 撮影:伊藤武夫 音楽:伊福部昭 美術:丸茂孝 照明:田畑正一 録音:長岡憲治 監督補佐・編集:今泉善珠

出演:乙羽信子(石川孝子)、滝沢修(岩吉爺さん)、清水将夫(孝子の父・利明)、山内明、多々良純(労働者風の男)、下元勉(夏江の夫)、大滝秀治、庄司永健、芦田伸介、伊達信(芳夫の父・早吉)、細川ちか子(孝子の母・せつ)、北林谷栄(おとよ婆さん)、桜井良子、斎藤美和(森川夏江)、奈良岡朋子(孝司の妹)、

高野由美(芳夫の母・千代)、小夜福子(教会員)、富田浩太郎、垂水悟郎、松下達夫、日野道夫、佐々木すみ江、田中敬子、原ひさ子、東野英治郎(馬喰)、寺島雄作(木島浩造)、殿山泰司(船長)、柳谷寛、英百合子(木島の妻・おいね)、宇野重吉(孝司)

画像1: 『原爆の子』 1952(昭和27)年近代映画協会・劇団民藝作品/96分・モノクロ

昭和20年8月の原爆で石川孝子は家族を失った。瀬戸内海の小島で教員をしている孝子は夏期休暇を利用して、かつての教え子の消息をたずねる旅に出た。

7年の歳月を経て明るさを取り戻したかのよう見える広島の街で、彼女が最初に出会ったのは、物乞いに身を落としたじいやの岩吉であった・・・。

画像2: 『原爆の子』 1952(昭和27)年近代映画協会・劇団民藝作品/96分・モノクロ

15年に及ぶ戦争状態は日本の無条件降伏で幕を降ろすが、戦争が残した最も大きな傷の一つが“原爆”である。本作は、広島の被爆者児童が、自分たちの被爆体験を綴った作文を、広島大学教授で自らも被爆者である長田新が編集した「原爆の子 広島の少年少女のうったえ」を下敷きに、広島出身の監督・新藤兼人が脚本を書き上げた。

この映画の2年前、1950(昭和25)年に、当時松竹に籍を置く脚本家であった新藤は、監督・吉村公三郎と共に、自由な製作環境を求め、独立プロダクション・近代映画協会を設立。

本作は当初、近代映協と大映の共同製作の予定であったが、政治的反響を恐れた大映は契約を解除。近代映協は『安城家の舞踏会』以来密接な関係にあった劇団民芸に協力を求め、各自150万円を出資、計300万円(当時、一作あたりの製作費は大手映画会社で平均1,500万円ほど)で、広島市、広島市民の協力の下、製作を開始する。

原作は被爆時3歳から小学生までの子供たちのそれぞれの被爆体験を、子供の視点から素直に表現した文集だが、新藤は脚本化に際し、それぞれの子供の体験を、被爆時に幼稚園で教師をしていた女性が、7年経って、当時教えていた園児の消息をたずね歩くという形式を用いた。

占領軍の指導により原爆の被害を何も知ることなく暮らしていた人々が、7年後に目の当たりにしたその傷跡は、のどかな瀬戸内の情景、一見復興したかに見える広島と、その中で未だ苦しむ被爆者の現実と対比され、見るものを画面に引き込んだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

下記は、原爆投下直後の、1945年8月10日に、広島市内を全景360度でとらえた映像です。

京都文化博物館 映像情報室 The Museum of Kyoto, Kyoto Film Archive;

This article is a sponsored article by
''.