映画にみる戦国時代。6月17日は『宮本武蔵 般若坂の決斗』(1962)@京都文化博物館フィルムシアター

白鷺城の暗黒蔵に籠もること三年、名を宮本武蔵と改め、
沢庵に別れを告げて武者修行の旅に出る。

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京都文化博物館 映像情報室 The Museum of Kyoto, Kyoto Film Archive

画像: 京都文化博物館 映像情報室 The Museum of Kyoto, Kyoto Film Archive

京都文化博物館 映像情報室 The Museum of Kyoto, Kyoto Film Archive

『宮本武蔵 般若坂の決斗』

1962(昭和37)年東映京都作品/106分・カラー
製作:大川博 企画:辻野公晴、小川貴也 原作:吉川英治 監督:内田吐夢 脚色:成沢昌茂、鈴木尚之 撮影:坪井誠 照明:和多田弘 録音:野津裕男 美術:鈴木孝俊 音楽:伊福部昭 編集:宮本信太郎 記録:石橋成子装置:上羽峯男 装飾:宮川俊夫 美粧:林政信 結髪:桜井文子 衣裳:三上剛 擬斗:足立伶二郎 進行主任:植木良作 助監督:山下耕作、富田義治、杉野清史 邦楽:中本敏生

出演:中村錦之助(新免武蔵、後の宮本武蔵)、木村功(本位田又八)、木暮実千代(お甲)、浪花千栄子(お杉)、坂東蓑助(池田輝政)、加賀邦男(辻風典馬)、風見章子(お吟)、花沢徳衛(青木丹左ヱ門)、阿部九州男(淵川権六)、谷口精二(竹細工屋・喜助)、小笠原章二郎(七宝寺の和尚)、有馬宏治(村人)、梅沢昇(同)、大崎史郎(同)、長島隆一(同)、赤木春恵(竹細工屋の老婆)、高松錦之助(村の老人)、浜田伸一(村人)、近江雄次郎(同)、中村錦司(同)、遠山金次郎(同)、河村満和(木戸役人)、片岡半蔵(同)、浅野光男(山伏)、石丸勝也(炭焼きの男)、源八郎(村人)、菊村光恵(同)、大浦和子(同)、鈴木金哉(木戸役人)、五里兵太郎(役人)、波多野博(使者)、潮路章(亡霊)、宮城幸生(同)、黒部武司(同)、伊藤克彦(村人)、野間勝良(同)、春路謙作(寺男)、岡嶋艶子(その妻)、三国連太郎(宗彰沢庵)、入江若葉(お通)、丘さとみ(朱実)

画像: 京都文化博物館 映像情報室 The Museum of Kyoto, Kyoto Film Archive http://www.bunpaku.or.jp/exhi_film.html

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白鷺城の暗黒蔵に籠もること三年、武蔵は名を宮本武蔵と改め、沢庵に別れを告げて武者修行の旅に出た。京都の吉岡道場で高弟達を片っ端からなぎ倒したあと、武蔵は奈良へ向かう。

宝蔵院の槍の名手・阿厳との試合で武蔵は彼を木刀で殺してしまう。
その後、宝蔵院の荒法師達が般若坂で待ち伏せしているとの噂を聞きつけた武蔵は、一路般若坂へ。だがそこにいたのは、武蔵を倒し名をあげようとする牢人衆であった。荒法師たちも武蔵に加勢し、武蔵は牢人衆を一掃する。

アメリカでの“西部劇”はテレビ放送の浸透と共に衰退を余儀なくされたが、日本でもそれまで圧倒的興行力を誇っていた時代劇がレジャーの多様化、大型化の中で退潮を示し出した。

そんな中気を吐いたのが、内田吐夢監督による“宮本武蔵”シリーズであった。
1935(昭和10)年から39(昭和14)年まで、朝日新聞に連載された吉川英治原作の同名小説を、鈴木尚之と内田吐夢が脚本化した。吉川英治の『宮本武蔵』は、剣禅一如の世界へと進む苦悩に満ちた人間・武蔵を剣の精進と求道によって成長する課程を描き、当時の青年層の支えとなった。

さらには徳川無声の朗読によるラジオドラマや映画、テレビなどで度々取り上げられては多くの人々の心を捉え、国民文学と呼ばれるまでになった。とりわけ内田吐夢監督による“宮本武蔵シリーズ”は、これまでに映画化された武蔵映画の中でも、一際抜きんでた傑作として評価が高い。

本シリーズは1年に一本ずつ、5年がかりで取り組んだ連続長編となり、出演する俳優達の年齢的成長とシンクロするかたちになった。

お通を演じた入江若葉は、往年の大女優入江たか子の娘で、当時17歳。女優経験が全くない素人だったが、五年の歳月を経て徐々に成長を遂げていく。

さらに、主演の中村錦之助の演技は年を重ねるごとに深まり、役者としての存在感に厚みが加わる様子は興味深い。中村錦之助は、デビュー以来東映のドル箱スターとして、『笛吹童子』(1954)、『紅孔雀』(同)、『里見八犬伝』(同)、“源氏九郎颯爽記”シリーズ(1957〜)等で白ずくめの美剣士として商業規格的娯楽路線を堅持する一方、『織田信長』(1956)あたりから本格的な演技者への道を模索し始める。

加藤泰監督による『風と女と旅鴉』(1958)では、チンピラ渡世人・銀次役をノーメイクで好演、そして演技派への飛翔の大きな契機となったのが、内田吐夢監督による芸術祭参加作品『浪華の恋の物語』(1959)であった。

この近松モノで、金で縛られる遊女・梅川(有馬稲子・初共演)への御しがたい恋情と、金に生き、金を生かす浪速商人の土性骨を巧みに演じ巨匠の期待に応えた錦之助は、1961年、内田監督により“宮本武蔵”に抜擢された。

剣戟においては『一乗寺の決斗』のクライマックス・泥田の中での大殺陣の評価が高く、時代劇演出の白眉と言われている。
これは滋賀郊外に広大なセットを作り、日の出前後の光線を狙ってぶっつけ本番で撮影されたという。

内田監督は、殺すか殺されるかという状況での倫理的命題、“強さ”とはなにかという禅的命題、お通への恋情と禁欲、と結局“強さ”のこだわり、生にしがみつく武蔵に課せられる様々な試練を武蔵の人間的成長の契機として、ドラマとしての決斗までのプロセスに織り込み、自己実現して行く武蔵を描いた。

京都文化博物館 映像情報室 The Museum of Kyoto, Kyoto Film Archive

cinefil編集部

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