こんなものを書いてきた シリーズ 『ドア・イン・ザ・フロア』
『バクダット・カフェ』が放映されるのか、you tubeにあげられたのか「♪コーリング・ユー♪聞くと泣いちゃう」という書き込みを見て思い出したのがこの記事。私にとって「コーリング」というと思いだすのが『サイダー・ハウス・ルール』なのだけれど、その理由を書いたのがこの記事です。もうすぐ四月。新しい進路があなたの「コーリング」でありますよう。
「喪失」「再生」そして「コーリング」
『ドア・イン・ザ・フロア』
ジョン・アーヴィングの5本目の映画化作品である。
アーヴィングが、というより、彼の作品を映画化した映画作家たちがアーヴィング作品から抽出しようとしたのは「喪失と成長」そして「コーリング」というテーマではなかったか、と思う。無垢なる時代を喪失し、大人へと成長すること。アメリカ映画得意のテーマである。しかし、アーヴィングの主人公たちは自分だけで「成長」や「再生」を遂げるのではない。そこに「コーリング」があるのだ。
「コーリング」とは「神があなたのなすべきことを告げる呼び声」とでも言ったらいいだろうか。例えば『サイモン・バーチ』で障害を持つサイモンが自分の存在を神が必要として作られたものだと信じていること。『サイダー・ハウス・ルール』で主人公のホーマーが、自分がしたいことではなく、しなくてはいけないこととして堕胎医の仕事を継ぐこと、などである。
『ドア・イン・ザ・フロア』でも、主人公になる三人の登場人物たちはそれぞれに「喪失」に向き合う。彼らの「再生」や「成長」は可能なのか…。
息子二人を失いその「喪失」感を埋められるかと娘を産んだマリアンは、彼女に恋する小説家志望の少年エディに向かって言う。「だれかが私のことを思っていてくれたと知ってうれしいの」と。子どもを失い、夫の愛を失い、母親として生き直す努力も喪失感を埋めることはできないと感じ、自分の存在を失いつつあるマリアンにとって、「someone to watch over me」と感じさせたのがエディの想いだった。それが彼女にとって「生きていていいんだよ」という「コーリング」になる。そしてマリアンは生き直す「再生」するために家を出る。
夫テッドは神なき時代の落とし子のような作家である。伝統や家族、宗教に背を向け自由に生きよう、創作しようとして行き詰っている。絵本作家として評価されたことについて彼は自嘲気味に語るが、それを彼は「コーリング」だとは思わない。「神は死んだ」のだから。そんな彼に「再生」は訪れない。彼は自らが描いた「ドア・イン・ザ・フロア」すなわち”不安””絶望”の中に消えていく。
エディはマリアンとテッドの葛藤の中で彼の無垢な少年時代を「喪失」し「成長」する。そしてエディはこの一家にとっての語り部となる「コーリング」を聞く。それを描くのが原作の後 半三分の二、なのである。映画は原作の第一部を描いたのみ。それが観客の中に広がりを生み、余韻は小説に観客を誘う。うまいコラボレーション(?)である。