1980年代の池袋、最先端だった西武(セゾン)文化の恩恵
⸻お二人の共通点として、映画作品を読み込んでから音楽を付けていくというアプローチがあると思います。
柳下
おそらく私よりも映画が好きなのは鈴木さん。でも、最初に鈴木さんに好きな映画をうかがったときに、「『太陽がいっぱい』(1960)」と答えられたのが意外でした。
鈴木
いや、それは勘違いです。前に柳下さんに映画に目覚めたきっかけを聞かれて、高校の時に見た『太陽がいっぱい』と答えたことはありました。それは確かに新鮮な体験だったけど、その後ヌーヴェル・ヴァーグとかいろんな映画を発見してゆくにつれて順位はだんだん後ろになっていったので。でもそれですぐに映画に目覚めたわけではなくて、高校の頃はむしろ音楽や美術の方が中心で、映画にはまったのはもっと遅くて、大学生の終わり近くになってから。
柳下
高校のときの音楽はどういうものを聴いていたんですか?
鈴木
もともとは中学生のときにクラシック音楽に目覚めて、最初は古典派やロマン派などからスタートして、高校の頃には近代もある程度聴くようになりました。高校3年ぐらいからはロックにも目覚めて、やがてジャズにも広がっていったという感じ。
柳下
なるほど。私は音大まで行ってるのに、そういう方向までまったく広がらなかった。 恥ずかしい話だけど、私は小さな頃から英才教育だったんです。戦時中にピアノを習うことができなかった母親の影響で、とにかく娘をピアニストにさせたかった。それで、幼少期から競争の中に入ってたんです。途中までは優等生だったけれど、中学生ぐらいになると自分が習っていた先生のところに様々な生徒さんたち習いに来て、その人たちのピアノをやりたいという情熱には勝てなかった。惰性で音大にまで進学しましたが、音楽にそれほど情熱が持てませんでした。何に対しても受け身だったんですが、大学進学で東京に出て、自分で生活を始めて、ようやく自分自身で何かを探していくことができたと思います。
鈴木
子どもの頃にやらされていると、どうしても受け身になると思う。逆に僕が子どもの頃はまったくそういう環境ではなくて、ある程度自分の好きなものを意識する歳になってから自覚的に自分でやり始めた。
柳下
ピアノやギターを弾くのも小さい頃ではなくて、中学生ぐらいになってからですか?
鈴木
そうですね。楽器の最初はギターが先でした。小学校のときに近所の日曜学校に通ってたんだけど、賛美歌の伴奏ためにギターを持たされたのがきっかけで。自宅にピアノがなかったので「ピアノも習いたい」って親に言ったら、「高校に入学したら買ってあげる」と言ってたのに、結局入っても買ってくれなかった。騙された(笑)。ただ、妹が習っていた簡素な電子オルガンが家にあったので、それを自分で勝手に弾いていたりはしてました。高校に入って近所の地域施設に頼んで、ボランティアで何かイベントの時手伝ったりする代わりに無料でピアノをいじらせてもらったりして。だから、すべて自覚的な選択です。柳下さんは、映画に関しては小さな頃から見ていたんですか?
柳下
私は最初に見たのは、おそらく親と一緒に行った『101匹わんちゃん』(1961)だと思います。そのあと、中学生の頃に見たのは『ある愛の詩』(1970)や『ロミオとジュリエット』(1968)、『あゝ野麦峠』(1979)とか。テレビでは高校のときに『ディア・ハンター』(1978)を見て感動して、クリストファー・ウォーケンのファンになりました(笑)。
ちゃんと映画を見はじめたのは、セゾングループ西武百貨店池袋店の「スタジオ200」に入社してからですね。会社が池袋にあって住まいも近くだったので、文芸坐(現・新文芸坐)のオールナイトに行ったり、セゾン系列のミニシアターが出てきた頃でもあったので、会社の優待でタダで入れてもらったりしていました(笑)。今だと世界各国の映画祭はさまざまな所で行われていますが、当時はほとんどなかったと思います。そんな中で「スタジオ200」はいろいろな映画祭を開催していて、受け皿になっていました。
鈴木
1980年代の池袋って、そういう意味で理想的な文化環境だったと思います。「スタジオ200」では、映画に限らずさまざまなジャンルのアート作品が見られたし、文芸坐もあった。僕は池袋にあった東京音楽大学にもぐっていたので、その帰りに「アール・ヴィヴァン」(註:《ART VIVANT》。池袋の西武百貨店内にあった美術書専門店。前衛的なアート専門書のほか、現代音楽のレコードなども扱った。1995年閉店)や「スタジオ200」にもよく通っていました。
柳下
そうですね。「アール・ヴィヴァン」の他に「ぽえむ・ぱろうる」(註:池袋の西武百貨店内あったリブロ池袋本店に併設された詩の専門書店。2006年閉店)などもありました。リブロには「今泉棚」っていう有名な担当者の方が選書した棚があって、すごく評判になっていたり。あと、池袋コミュニティ・カレッジ(註:池袋の西武百貨店内あるカルチャー・スクール)には、のちに芥川賞を受賞する保坂和志さんが橋本治さんの企画を立てていたりして。私は橋本さんが大好きだったので、講座を受講していました。まあ、いい環境だったんですよね。だから、そういう環境がなかったら今の仕事もできていないと思います。
この仕事を始めようと思った頃、ロンドンの大英博物館に行ってサイレント映画の伴奏に関する資料を調べたりもしたのですが、まだそれが職業になるかどうかもわかりませんでした。それでも、気負わずに「もしかしたらできるかもしれない」と軽々としたスタンスでやれたというのは、やっぱり「スタジオ200」の影響が大きかったと思います。あそこでは有名無名にかかわらず、皆さんすごく楽しそうに表現していたんですね。そういうのを見ているから、「なんか自分でもできるかも」っていう、自分の中にある可能性の力をもらったような気がします。
鈴木
僕らの世代には、やっぱり80年代の西武(セゾン)の文化の影響は大きかった。当時東京にいた近い世代でそういう人たちはたくさんいると思う。武満さんのやっていたMusic Todayも西武だったし。だから、ある意味では西武に感謝しているところもある。今の世代から見れば、おそらく想像もつかないと思うけれど。
柳下
そうですね。当時は本当に最先端だった。ミニシアターの文化も、セゾングループが少しづつ開拓していった。その点でも感謝しています。ときどき受付の仕事をサボって、映写室から映画を観たりして、上司にお尻を叩かれたこともありました(笑)。「スタジオ200」の名前の通り200席入れる会場なんだけど、すべて可動式だったんです。だから、催しごとに平台を運んで舞台を作り、重い椅子を全部並べ替えないといけない。いま思うといい思い出ですね。映画を見つけたのも「スタジオ200」ですし、あそこが私の原点だったと思います。あそこでの経験がなかったら、おそらく今の仕事は出来ていないと思います。
柳下さんが伴奏を始めた頃に使っていた『ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険』のキューシート