「幽霊」としてのレイカ
物語の終結に至って、両親が辿った道を自らも歩むかのように思わせながら、レイカは「再生」する。だが、その復活はむしろレイカという実存性を欠いた疎外者が、より死者に近い存在、いわば実体を持たない幽霊に等しい存在であることを我々に示してはいないだろうか。天橋立から戻ってきたレイカが布団に横たわるハジメを見つめる場面があれほど美しいのは、それが死者=幽霊だけが存在する世界で起こっている出来事のように見えるからだ。すべてが静止した「終わり」の時空で、二人だけが永遠の持続を生きている。
青春というかけがえのない時間がいつか終わってしまうように、私たちの人生も終わりを迎えるときがくる。だが逆にいえば、今という時間は終わりから見つめることでこそ煌めくのだ。山下監督作品には、いまここを生きている時間というよりも、終わることを自覚した、静かで穏やかな時間が流れている。現在を生きているその只中では誰にも見出されることのない、すべてが静止した「終わり」の時間と場所があるということ。だが、たとえいま見出されなかったとしても、その時空は確かに存在する、あるいはかつて存在したと信じることはできる。なぜなら、レイカがそうしていたように、記録=カメラがそれを証する手段としてあるのだから。
『天然コケッコー』において「終わり」の時空が「始まり」の時空へと持続していったように、すべてが静止した「終わり」の時空とは「始原」の時空でもある。そして、いまここには存在しないその時間と場所の記録は、つねにまだ見ぬ人々へ向けて開かれ、差し出されている。そう、まだ見ぬたくさんの映画が、これから先の未来に生きる人々にとっての贈り物であるように。本作のラストカット、ハジメが見つめる視線の先にいるのは、レイカという名の過去=終わりであり、未来=始まりなのかもしれない。