©2023『1秒先の彼』製作委員会
「オフビート」あるいは「終わり」の感覚
長編デビュー作『どんてん生活』(99)以降の向井康介との脚本コンビによる“ダメ男三部作”において、山下敦弘監督作品の特徴は「オフビート」だといわれてきた。それらの作品で描かれる社会や世間からドロップアウトしたはみ出し者たちのさえない日常は、ときに可笑しさを誘うものだ。それは彼ら疎外者たちによって、私たちの生きるこの日常が外側から見つめられ、異化されているからだろう。だが異化されることで生まれる可笑しさは、その対極にあるおぞましさと通底している。その例が、閉塞した地方の田舎町を舞台にした『松ヶ根乱射事件』(07)だ。田舎町に流れる停滞した時間は、そこで生活している人々の欲望を奥底に澱ませながら、上辺は限りなく静かでオフビートだ。だがオフビートとは文字通り「鼓動の停止」であることを思えば、その行き着く先は「死=終わり」しかない。だからこそ、山下向井コンビはそのオフビートな静けさに抗うような苛立ちと衝動をもって、最後に乾いた銃声を響かせる。あるいは、ハロルドのようにつまらない大人になることから逃避している『もらとりあむタマ子』(13)のタマ子が最後にふと呟く「自然消滅」という言葉にも、やはり虚無的な響きとともにそこはかとない死=終わりの匂いが嗅ぎ取れはしないだろうか。タマ子もまた社会や世間から疎外されている部外者のひとりだからこそ、この社会では「誰もが仮面をつけて」生きていることを誰よりも強く感じ、生きづらさを抱えているのだから。