ラブコメやエロコメの戦い方

高田
スクリューボール・コメディって、最初にそういう立場が明確に示されているから、立場上「できない」とは言えない縛りができて、その縛りを何とか崩そうとする戦いになってくる。それが面白いんですよね。『ヒズ・ガール・フライデー』なら新聞記者だし、『レディ・イヴ』だと詐欺師だから、執事は近づけちゃいけないと阻止する。一人ひとりがくっきりとしてますよね。そういう人物の記号性みたいなものをいまは退屈だと思って避けてしまうというか、リアリズムの平均的な所に落とし込むじゃないですか。

根岸
いかにも「ありそうだ」という所に落とし込みやすい。

前田
その人物が等身大に感じられるかどうかという所がありますよね。

高田
そうですね。でも、そうすると粒立たなくなって、もうスクリューボールは成り立たなくなったように感じられるけど、すごく細かくやっていけば、粒は立たせられるっていうのがこの10年やってきたなかで多少思ったことではあるよね(笑)。スピーカーのケーブルにこだわってるだけでも、粒は立たせられるみたいなことから始まって。

前田
雑な言い方ですけど、「常識外な人間を見たいけど、常識に寄りかからないといけない」という(笑)。

高田
常識と繋がってないといけない。

前田
そう、繋がってないといけない。だけど、変わっていないと全然面白くない。難しい所ですよね。

高田
そこは本当に難しいよね。

前田
でも、アメリカのラブコメやエロコメとか、いまの日本だと劇場未公開のストレートDVDの作品などには、スクリューボール・コメディ的なものが多いなって思うんですよ。

高田
例の「ヘイズ・コード」(*編注:1934年から1968年までのあいだ、アメリカ映画界に設けられた自主規制条項。現在のレイティングシステムの前身)で、男女二人がベッドに一緒にいてはいけないという規制ができてからスクリューボール・コメディは始まったといわれてますよね。そこから“Sex war comedy”みたいなものが発展してきたという説があるじゃないですか。でも、ある時期からベッド・インしている所を映しても構わないという時代になり、むしろエロネタを豊富に投入することで、逆にスクリューボールっぽくなってしまった映画っていうのもたくさんありますよね。ジャド・アパトー的な。

前田
『無ケーカクの命中男/ノックトアップ』(07)とか、もうスクリューボール・コメディだよなと思うし。

高田
脇役の面白さとか、全部そうだよね。『ある日モテ期がやってきた』(10)なんて、飛行場で働いているブルーカラーの男がキャリア・ウーマン的なイケてる女子と付き合えたんだけど、「俺なんかが付き合えっこない」とコメディになっていく話。

前田
そうなんですよね。「人は点数制なんだ」って。40点以上離れている人と付き合ったら上手くいかないってことを言われて、「俺は何点だ?」と計ってみたら「お前は30点だ」と。その30点の男が100点の女と出会う。

高田
「お前が付き合ってる女は100点だから、70点も離れてるお前とは絶対に上手くいかない」って。

前田
それで今度はアラ探しを始めるんですよね。逆に、どこかにアラがあってほしいとなる。そこから始まっていくみたいなね。

©︎2020「まともじゃないのは君も一緒」製作委員会

根岸
何となく『婚前特急』的な所もあるのかな?。

前田
ゲーム性が入りながら展開していく。

高田
確かに。点数という基準値を入れることで、立場をくっきりさせてるわけですよね。粒を立たせて、その差を埋めるために動くんだけど、100点側の女はそういうことをまったく気にしていないっていう(笑)。

前田
そのひっくり返し方は面白かったですね(笑)。

高田
「私にもコンプレックスがある」って言い出すんだよね。

前田
「彼女にも秘密があった。やった!」と思って、ひどいことがあるんだと思って期待したら、彼女が靴下を脱いで、足指を広げて「この皮がちょっと人より大きい」って(笑)。「そんなことで⁈」となっちゃって(笑)。

高田
そういう自意識を上手く使って、経済格差やヒエラルキー的なものを立たせた後で、それを無効化していくっていう話になってくる。ラブコメも多いし、アメリカ映画はまだそういうことをしっかりとやれているんだなって思います。

前田
アメリカ映画はずっと続いてますよね。いろいろな監督がいい意味でライバル関係にあって。

根岸
あと往年のスクリューボール・コメディは資産家や大金持ちが出てくる一方で、変わった学者や、いまでいうオタクっぽい人が出てくる。その両者の格差や組み合わせの面白さがあったけど、ある程度時代が下ってくると、お金持ちの設定もあるけれど、庶民同士という関係が多くなってきたのかな。

高田
結局、粒を立たせて二人がくっつきやすい状況さえ作れば、コメディとしては成り立つという自信がアメリカ映画にはある気がします。「40歳で童貞だから、女の人とは上手くやれない」ということだけで良いんだと(*編注:ジャド・アパトー監督・脚本『40歳の童貞男』(05)のこと)。エロコメの中の突飛な人たちを次々と登場させて、彼らをどこかにいるかもしれない感じにしつつ、40歳で童貞というだけで、こんなことができるんだと感心しました。コンプレックスをどこに置くかで、スクリューボール的なものが展開できる。商売になっているということも含めてですけど、そこがアメリカ映画の強みですよね。

ある日モテ期がやってきた(日本語吹替版)

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