明治20年、明治天皇を京都博覧会に招いた茶会

明治天皇を迎える茶会のために三井高福が永楽和全に焼かせた絢爛たる磁器の天目茶碗 北三井家旧蔵

天皇と首都の座を失って一時はどん底にあった京都は、次々と積極的な復興策を思いついては果敢に実行したこともあって、新しい街として立ち直って行く。禁門の変で中心市街地の多くが焼失したせいもあり、現代の京都には案外と明治創業の老舗が多い。江戸時代以前から懸案だった水不足の解消で琵琶湖から水を引く疎水が整備され、これは輸送用の水路や動力源としても活用された。今の京都の街づくりのベースは、むしろこの幕末から維新にかけての動乱からの復興期のものと言える。

博覧会も順調に回を重ねる中で、清水焼の陶磁器や蒔絵、金工、七宝などの伝統産業は明治の超絶技巧時代に入り、欧米で高級輸出品として人気を獲得した。西陣織も一般向けの最高級和服生地に生まれ変わり顧客を獲得して行く。祇園の花街は江戸時代までの建仁寺の境内地が政府に没収された四条通り南側の土地の払い下げを受けて移転・拡張し、新たな歴史を刻み始める。「都おどり」などもこの時期に始まった観光イベントだ。

京都博覧会は順調に回を重ね、東海道の鉄道が整備されたこともあって、第16回の明治20(1887)年に、ついに天皇を東京から招待することになる。この行幸の金銭出納係を担当したのも三井高福、つまり事実上三井家の出費で天皇をもてなしたと考えてもいいのだろう。

碌々斎 (表千家11代)「明治天皇献茶会記 」明治20(1887)年 北三井家旧蔵
上段やや左に「六畳囲屏風 雪中松 応挙筆」という記述が。「御茶碗」の項目には「金襴手天目」とある

こうして京都御苑東南の博覧会場の、旧大宮御所を下賜され移築した建物で行われた、明治天皇を迎えての茶会が、この展覧会のメイン・テーマだ。「雪松図屏風」が正式に三井家の記録に登場するのも、この茶会で広間を仕切って茶室を囲うのに使われたことが初めてだという。

三井高福は天皇を迎えるために、永年支援して来た千家十職の一つ、土風炉師・善五郎家の12代・永楽和全(祖父の10代了全までは「西村」姓を名乗る)に、全面に金の装飾を施し、見込みに金で鳳凰を描いた天目茶碗を作らせた。

永楽和全 赤地金襴手鳳凰文天目茶碗 明治時代19世紀(明治19・1886年?)
天目台は梅材で中川浄益の彫銘あり 共に北三井家旧蔵

この茶席の点前は、表千家の11代・碌々斎だった。

藤原定家 小倉色紙「うかりける…」 鎌倉時代13世紀 北三井家旧蔵

御所丸茶碗 李王朝朝鮮時代 17世紀 北三井家旧蔵

瀬戸肩衝茶入 銘「二見」桃山〜江戸時代17世紀 中興名物 北三井家旧蔵
天皇家の祖先神・伊勢神宮の近くにある夫婦岩で有名な二見ヶ浦に引っ掛けた言葉遊びか?

辻与次郎 日の丸釜 安土桃山時代16世紀 北三井家旧蔵

西村(永楽)了全 黒金入灰器 江戸時代19世紀 素焼きの陶器に何重にも黒漆を塗り重ねた善五郎家の伝統技法
伝 千利休所持 桑柄灰匙 安土桃山時代16世紀 共に北三井家旧蔵

伝 千利休 竹茶杓 安土桃山時代16世紀 北三井家旧蔵

樂長次郎 黒樂茶碗 銘「メントリ」(面取り、ないし雌鶏?)安土桃山時代16世紀 北三井家旧蔵

よくぞここまで揃えたものである。

掛け軸は「新古今和歌集」の編纂者で後鳥羽上皇の側近だった藤原定家の名筆で、定家を祖とする冷泉家は代々天皇家と朝廷の和歌の儀式を司って来た家柄だ。その定家の書、それに「御所」に引っ掛けた言葉遊びの御所丸茶碗、やはり言葉遊びで伊勢神宮近くの二見ヶ浦に引っ掛けた「二見」の茶入れなどは、御所風の和歌の伝統を意識しているのだろう。

華麗な鳳凰の茶碗も含めて天皇家本来の伝統への目配せたっぷりに、明治天皇に故郷・京都の宮中で育った幼少期へのノスタルジーを起こさせようとした選択だったのかも知れない。天皇に京都に戻って欲しいというのは、明治も20年にもなればもはや不可能と分かり切っていた話とはいえ、せめて忘れないで欲しい、という主催者側の強い思いも、ここには込められていたように思える。

釜が「日の丸釜」だったのも、明治新国家の国旗に引っ掛けた言葉遊びだろうか? 天皇はこの銘が気に入ったらしく記念の茶碗を作ってはと提案し、永楽和全がこの行幸を記念した365個の「日の丸茶碗」を焼いている(そのうち三口も展示)。

永楽和全 日の丸茶碗 銘「桜」 明治20(1887)年 北三井家旧蔵

一方で、ズラリと並ぶのは、三井家が蒐集して来た、千利休ゆかりと伝わる茶道具だ。

利休の作と伝わる竹茶杓、利休が使ったとされる灰匙や鉄鎌環、そして利休が理想の茶碗として樂家の祖・長次郎に焼かせた「黒樂茶碗」の、長次郎にはいささか珍しい幾何学的で直線的な筒茶碗。

そうした利休のシンプルで奥深い侘び寂びの美学の古びた落ち着きに、西村(永楽)了全の、素焼きに何重にも黒漆を重ねた艶やかな表面に金をあしらった、華やかで真新しく見える灰器と言った組み合わせには、長い歴史の伝統の美学を引き継ぎながらも常に新しい美を生み出して来たのが京都、という心意気も垣間見える。

野々村仁清 色絵鶏香合 江戸時代17世紀 真鶴羽箒 柄大和錦包 明治時代19世紀 共に北三井家旧蔵
羽箒の柄の錦は香合と色がマッチしている 羽は三井高福が自ら飼っていた鶴のもの

香合は江戸時代初期に華麗な色絵(利休的な美学とは真逆でもある)で一世を風靡した野々村仁清の得意とした、動物を象ったもので、この席に三井高福が選んだのは鶏。さらに遊び心というか趣味の多彩さで文化の厚みを見せつけるように、羽箒には自分の趣味のひとつである鳥類の飼育から、自分で飼っていた真鶴の羽を三枚仕立てたものを選び、しかも羽を束ねて柄を包む大和錦は、仁清の色絵の香炉に色を合わせているのが、なんともファッショナブルである。

水指は中国・明時代の染付で祥瑞松竹梅文、杓立は明時代の青磁で左右の耳に輪がつけられた花活けの転用、建水は桃山時代の備前。煌びやかな中国磁器と侘びた風合いの備前焼の対照的な組み合わせ

京都文化の総力結集というか、首都は東京に移ってしまっても、日本の伝統と文化の力は京都にこそあってその厚みは厳然として存続し、新興の東京ごときが敵うものではない、とでも見せつけているような凄みすら垣間見える。

しかもこれだけの道具を揃えて文化を維持できるのは、旧公家の華族でも、士族でもない。自分たち商人こそがその真の伝統文化の継承者にして新たな創造の担い手でもあり続けていることが、この席を囲うのに「雪松図屏風」の100年前の洗練されたモダンな美を配したところ等に、あくまでさりげなく、しかし決然と表明されていたようにも思える。