明治維新で天皇が去った京都と、三井家
三井記念美術館の新年の展覧会では例年この「雪松図」を中心とするか、関連のある展示が企画される。今年はちょうど改元・天皇家のお代替わりがあったので、「雪松図」と三井家と天皇が接近遭遇した、明治20年のある茶会がテーマになっている。
その茶席に「雪松図」が飾られていたのだ。
江戸・日本橋室町の越後屋呉服店(現在の日本橋三越本店)が成功と繁栄の出発点だった三井家だが、本拠はずっと京都に置いていた。
その京都で、前近代の天皇は常に御所=禁裏の中にいる存在で、在位中の天皇がその禁裏を出た記録は江戸時代を通じて確か3度か4度しかない(二条城に行幸した御水尾天皇、光格天皇、御所の火災で外に避難した孝明天皇)し、宮家や公家・貴族も今は京都御苑になっている門で仕切られた地域で生活していた。とはいえ即位式などは一般庶民でも参列できたらしいし、また退位した上皇となると比較的自由に外出もしていた形跡もあったり、「宮門跡」と言って天皇家の人間が重要な寺院のトップを務める慣習もあって、江戸時代を通じて天皇は京都の人々にとって親しみのある存在だった。今でも天皇を「陛下」とは言わず「天皇さん」と呼ぶ人が少なくない。
またなによりも、「禁裏(=天皇家)御用達」をはじめとする宮廷社会の様々な需要は京都の商工業にとって重要なお得意先であり、宮中の仕事を請け負うことは繊維織物産業や陶磁器、漆器、金工などの手工芸産品のブランド・イメージ形成に大きく貢献もし、また生産者側にとっては品質・技術を高めるインセンティブにもなって来ていた。
このように京都がやはりなんと言っても天皇を中心に栄えた都市だったことが、幕末の動乱と明治維新で激変する。まず「勤皇の志士」を自称する地方の下級武士が幕末期に京都に乗り込んで来たことで治安が悪化し、挙句にその最大勢力のひとつ長州藩が御所に発砲した「禁門の変」が勃発、敗走する長州軍の放火で京都の中心市街地の7割前後が焼失してしまった。
そんな京都の荒廃に追い討ちをかけるように、新政府内では京都が山に囲まれた盆地で近代的な貿易産業立国のための工業立地が確保できず、伝統しきたりの制約も多いことから、首都を移す計画が画策された。京都市民の反発を恐れてこの遷都論は公に議論されることはなく、明治天皇がまず大阪に、そして徳川幕府が天皇に領地を返上した関東を「視察する」という名目で江戸つまり東に「行幸」することになった。
明治天皇の「東幸」である。そして天皇はそのまま江戸城改め宮城・皇居に居を定めてしまった。その後今に至るまで、東京への正式な「遷都」は宣言されていないが、京都市民の期待を裏切って、天皇の住む都の地位が京都に戻って来ることは二度となかった。
時代の激変と急速な近代化の中で、江戸時代の豪商から近代の大財閥へと変貌する三井家もまた、ビジネス上の拠点は新首都の東京に移して行く。財閥の中枢となる三井銀行と三井物産は、金融業ならやはり東京中心になるし、世界相手に商売を拡大していくには貿易港である横浜を外港に持つ東京と、大阪が中心になるのが必然だった。
それでも三井家の当主はプライベートの家としての本拠は京都に置き、東京の本社には「出張」という形を守り続けはしたし、江戸時代に築いた茶道具など美術品のコレクションと、円山応挙のような文化芸術の担い手たちのパトロンだった精神を継承して、京都の文化を援助し続けた。
さびれた京都を建て直せ! 三井高福と京都博覧会
天皇に伴って公家・貴族も揃って東京に移ってしまうと、京都の産業・商業は重要なお得意先を失ってしまった。御所・大宮御所・仙洞御所は辛うじて宮内省によって維持されたものの、公家屋敷が並んでいたその周囲は、今でこそ京都御苑として丁寧に整備された公園になっているが、当時はボロボロに朽ちてゆく空家と、それを取り壊した空き地だらけになっていたはずだ。
さらに神仏分離令で京都経済のもう1つの大事なお得意様だった大寺院も寺領を没収されて財政基盤を失い困窮し、しかも廃仏毀釈で焼き討ちにあった寺も少なくない。こうして突然、政治の気まぐれで衰退に追い込まれた明治初期の京都は、さぞ荒廃した街になっていたことだろう。
そんな京都をなんとか建て直すために、三井本家(北家)の八代目三井八郎右衛門こと三井高福らが発起人になって立ち上げたのが、明治4(1871)年に第一回が開催された「京都博覧会」だ。初回は西本願寺と知恩院の広大な境内で、2回目以降はなんと天皇の留守中の京都御所と大宮御所・仙洞御所を借りて会場にしていたというから驚きだ。第10回(明治14年)以降は京都御苑の東南部分に専用の博覧会場が整備され、大宮御所の一部が下賜されて移築され、メインの会場建物になった(跡地は今は野球のグランドになっている)。
「京都博覧会」がアピールしたのは、西陣の織物や清水焼などの陶磁器、高台寺蒔絵などの伝統がある漆器や七宝、金工や書画など、伝統工芸に根ざした京都ならではの文化性の高い産品だ。朝廷や公家の需要がなくなって危機に陥っていたとはいえ、新たなマーケットさえ開拓できれば、商品価値の高い産業はまだまだ京都にはあったのだ。
それに幕末の開国以来、国際的なマーケットで日本の強みといえばこうした高度な伝統手工芸技術に支えられた高級民生品で、公家や大名家相手レベルの凝った特注品こそ売れなくなったとしても、近代的な大量生産技術を導入して工程を合理化したり、時代の需要に合わせた商品開発を進めて海外にも新たな市場を確保できれば、内陸の盆地で重工業を誘致する立地の余地がなく、輸出用の港湾もない京都でも、十分に生き残りのチャンスはあった。
この三井高福らの京都復興と近代化ビジョンは、東京に移った明治政府に先んじたものだったとも言える。薩長の下級武士出身者が中心となった明治政府は、西洋列強並みの軍事大国化を念頭に日本に重工業を定着させようと目論んだが、そこはこう言っては難だが「田舎の下級武士」の上昇志向が強過ぎた現実の見えなさの大言壮語というか、もともと鉄鉱石にせよ石炭にせよたいした資源がない日本列島で、いきなり英米並の重工業立国を目指すのはそもそも無理があり過ぎるか、少なくとも一朝一夕でできるものではない。現に明治から昭和初期まで、日本の主要輸出産業として近代化と経済発展を牽引したのは生糸や織物、陶磁器などの軽工業、つまり三井高福たちが京都の復興のために考えた路線の方だったし、このように原材料を生産する農家まで含めて広く利潤が行き渡る工業化によってこそ、日本の近代化は順調に進んだのだった。
藩閥政府の中では群を抜いて(というかほとんど稀有な例外として)優秀なリアリストだった大久保利通も、内務卿に就任すると明治10年に東京の上野公園で「内国勧業博覧会」を開催している。スローガンは「殖産興業」、「京都博覧会」が先駆けてアピールしていたような伝統産業とその技術を活かした地方の地場産業ベースの製品が幅広く展示された。第一回京都博覧会から6年後のことである。
ちなみに同じ明治10年に近代日本最大で最後の大内戦の西南戦争が勃発、この危機はなんとか乗り切った大久保だったが、翌年に不平士族に暗殺されてしまう。西郷隆盛がすでに西南戦争で死に、大久保も世を去った明治政府で主導権を握った長州閥は、重工業化の「富国強兵」政策を押し進めて行く。国内で深刻な貧富の格差の拡大と、その国内の不満を外に向けた植民地帝国化、さらには原料資源を求めての軍国主義侵略へと突き進んで行ったその結果については、今さら言うまでもあるまい。