雪が降った夜の明けた、晴れた朝に映える二本の松。紙と墨つまり白と黒と、金のふた通りの使い方のみのシンプルさで、自然の神々しさの一瞬を切り取った円山応挙の「写生」の傑作中の傑作は、三井記念美術館で毎年お正月の時期に展示される。同じく松を描いた国宝の屏風では長谷川等伯の「松林図屏風」も東京国立博物館の正月展示の定番(1月2日から)で、東京の年始といえば毎年このふたつの国宝の松を門松代りに見られる。

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またやはり国宝に指定された三井記念美術館の所蔵品、つまりかつて三井家が熱心に蒐集した美術工芸品の、その中核をなす茶道具の中でも屈指の名品、安土桃山時代の志野焼の名碗・銘「卯花墻(うのはながき)」も、その志野独特の豊かな質感の白釉が雪景色にも見立てられる風情もあってか、この時期に展示されることが多い。

志野茶碗 銘「卯花墻」 安土桃山時代 16〜17世紀 旧・江戸冬木家伝来 明治20年代半ばより室町三井家に
今年は茶室「如庵」(織田有楽斎 作)の再現コーナーに展示。「如庵」は有楽斎が隠居先だった京都・建仁寺の塔頭、正伝院に建てたものだが、明治維新で正伝院が廃寺となり、後に三井家に買い取られて東京、続いて大磯に移築された。戦後の財閥解体で名古屋鉄道の所有になり、現在は犬山市の名鉄犬山ホテルに。国宝。
背後の軸は、後水尾上皇宸翰の和歌懐紙「深山鹿」 江戸時代18世紀 個人旧蔵

円山応挙の「雪松図屏風」をとりあえずは門松代りのオメデタ縁起ものとして、あるいは国宝だから的なスノビズムで見に行くのでも、ぜんぜん構わない。いったん展示室に入って細長い部屋のかなたに「雪松図屏風」が見える時、ただ自然の一瞬をありのままに写し取ろうとしただけの絵なのに、その創作姿勢の純粋さそれ自体の奇跡的な美しさと、そこから産まれるイメージの豊饒さに、そんな先入観なぞどうでもよくなるからだ。

縦長の展示室のかなたに「雪松図屏風」。この屏風を飾ることを前提に設計されたという

考えてみたら不思議なことではある。描かれている題材自体は、ありふれたとさえ言っていい、雪の後の朝ならどこにでもあり得る光景だ。

確かに松は常緑樹で生命力を象徴し、東アジア文明圏では無病息災と長寿に通じる吉祥とされ、近世の日本では寺院の書院や方丈、それに城郭や武家屋敷などの襖絵に好んで用いられた画題だが、そうした典型の狩野派の松(二条城二の丸御殿、西本願寺黒書院など)は平面的に極度に様式化され、日本で見るような現実の松からはかけ離れた表現が多い。

それに対し応挙の松は、その豊かな立体感のリアルさも含めて、姿形自体はいわば普通の松の存在、ただそれだけ、である。特に右隻の「雄松」は、取り立てて凝った手入れもされていない、自然の山林に生えていそうな松の木で、庭師が長年丹精を込めた凝った枝ぶりでもなんでもない。

日本の風景絵画は鎌倉・室町時代に中国・宋代の山水画が流行して以来、主に中国の、日本の日常から縁遠いエキゾチックな風光明媚で、漢詩に詠まれたような絶景や奇観が、狩野派を中心に定番の題材だった。やまと絵で日本の風景の中に松を描くのでも、駿河(現・静岡県)の、海を前景に富士山を背景とした三保の松原と言った名勝ならともかく(海岸に松であれば「浜松図」はやまと絵の定番の画題で、例えば現存はしないが江戸城本丸の松の大廊下の障壁画は長大な浜松図だった)、応挙が切り取ったのは雪深いこと以外はどこにもありそうな自然の、一瞬の限定された光景で、どこかの「絶景」どころか周囲の空間の広がりを排除した、写真で言えば望遠レンズ的な切り取り方からすれば、いわゆる「風景画」の常識・通例すら逸脱している。

江戸時代中期に西洋「近代芸術」を100年先取りしていた京都の町人文化

こうしたさりげない、世界をありのままに写し取ろうとする絵画表現は、西洋ならば例えばフランス絵画では19世紀後半の印象派の登場を待たねばならず、その背景には産業革命によるブルジョワ階級の勃興があった。産業革命以前にヨーロッパ絵画を支えたのは、主に王侯貴族の需要だ。

日本でも、例えば山水画ならば禅宗の文化の一部として鎌倉〜室町時代に流行が始まり、中国的な意味づけ・価値づけの含意も強く、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて狩野派を中心に武家の「公式絵画」として発展したし、平安時代からの流れを引き継ぐやまと絵ならば、朝廷・公家と深く結びついて来た。製作にはそれだけの権力と結びついた資金力が必要だったからでもある。例えば豪勢な金屏風は「雪松図」のような六曲二隻の大きなものとなると、安土桃山時代や江戸時代初期の狩野派なら、最低でも十万石規模の大名でなければ描かせられなかったほどだ。

「雪松図」のような新しい、より抑制の洗練と独創性を研ぎ澄ませながら遊び心もある美学を支えたのは、江戸時代に平和が続き商業・産業がめざましく発展する中で成長した町人階級の豪商たちだ。近世日本でもっとも成功した商人のひとつで、明治以降は三井財閥として日本経済の近代化を牽引した三井家は、そんな豪商の代表格である。「雪松図」の描かれた経緯の記録は残っていないものの、三井家の特注と考えてまず間違いないだろう。江戸時代中期には三井家などの豪商が大名家を平然としのぐほどの財力を持つに至っていたことも含め、円山応挙は西洋でこの100年近く後に近代絵画への流れとして起こったことを、すでに先取りしていたとも言える。

肝心の表現面でも、「雪松図」は画期的だ。

円山応挙「雪松図屏風」江戸時代18世紀 北三井家旧蔵 国宝

狩野派のような金屏風は、大名の権力と財力の象徴だったり、政治的な交渉の贈答品としても活用され、だから金だけでなく群青や緑青などの高価な顔料も多用されて豪華に仕上げられるものだった。ところが「雪松図」は、発想がまったく違う。金以外は紙の白と墨の黒だけで描かれ、枝に積もった雪の白さと早暁の日光を浴びた松の幹の明るさは、塗り残された紙の白の純粋さで表現されている。この白も、狩野派や土佐派、住吉派などの濃彩の紺碧障壁画や屏風なら、貝の内側を砕いて粉にした胡粉を塗ったところだろう。胡粉も高価で、ふんだんに使うことに注文主の威光・財力と権勢を示す意味がやはりあった。

紙をそのまま見せることで純粋な白を表現する応挙のテクニックでは、描き直しは一切できず、下書きもまず無理だろう。つまり一筆たりとも間違いは許されず、描きながら考えを変える試行錯誤もなく、一筆一筆が恐るべき精緻さで、確信を持って一気に描かれたはずだし、しかもその筆の運びには勢いがある。

金を使っていることにも、豪華さの狙いはほとんど感じさせない。応挙は反射率の低い金泥を背景に塗り、金の輝きそのままの金箔を細かく刻んだ金砂子を前景に蒔くことで、雪に反射した日光で輝く朝靄と、後景の朝日に染まった空や雲を描き分ける。注文主の意向が金を使った贅沢な屏風だったとしても、結果としてその金の使い方は、絵画表現として完全に昇華されている。