近世の茶の湯の影の主人公? 後水尾天皇と相国寺

承天閣美術館には鹿苑寺の大書院の一部も再現されており、保存のために普段は大書院から取り外されている伊藤若冲の襖絵の展示コーナーになっている。若冲は後水尾上皇の100年以上後の時代なのでこの襖絵は行幸当時とは違うものの、今展示されている一之間の上段もまた、かつて上皇が座った場所のはずだ。

鹿苑寺大書院一之間の再現
伊藤若冲「葡萄小禽図」 江戸時代 宝暦9(1759)年 鹿苑寺蔵 重要文化財

江戸時代初期の後水尾天皇・上皇は、天皇の歴史の中でも屈指の傑出した、そして興味深い人物だ。三男だったのに皇位を継いだのは、父・後陽成天皇の反対(兄に譲位するつもりだった)を押し切った徳川家康の意向だった。この即位時から父との激しい確執も抱え込むことになった後水尾帝は、朝廷の統制を強めようとする幕府、特に二代将軍・秀忠と時に激しい応酬も繰り返し、抗議の意味を込めて何度も譲位を申し出る。最後には幕府にあえて断らないまま、突然のタイミングで退位を宣言し、幕府に反対・妨害する隙を与えずに実行した。

伊藤若冲 鹿苑寺大書院障壁画・一之間「葡萄小禽図」 江戸時代 宝暦9(1759)年 鹿苑寺蔵 重要文化財

一方で妻の中宮・徳川和子は秀忠の娘で三代将軍・家光の妹だった。彼女の仲介もあって兄の家光とその子・家綱の幕府は、上皇になった後水尾のために修学院離宮と仙洞御所(京都御苑内)を造営・整備している。

政治的には傑出した交渉力を持ち、人望も集め、時に頑固で激しい気性も見せた後水尾は、大変な教養を誇り、勉強熱心な趣味人でもあり、退位後には寛永期の京都文化を中心になって牽引することになった。自らの理想郷を具現しようとした修学院離宮(ちなみにこの離宮には田んぼも組み込まれ、近隣の農民が農作業を担当するなど、一般庶民もかなり出入りができた)を作るに当たっては色々な庭園をかなり研究している。鹿苑寺に行幸した時にも、上皇は熱心にその庭を見て回って修学院離宮の構想を練ったのかも知れない。なにしろ足利義満が幕府の命運をかけたとも言える鹿苑寺の庭園は、鏡湖池を中心に北山の峰々を借景とした見事な傑作であり、「夕佳亭」から見下ろした眺望もまた格別の美しさだ。

一之間の飾り棚 伊藤若冲「葡萄小禽図」 上の小襖4面は住吉如慶の筆なので、後水尾院行幸時のものか?

茶の湯がらみの後水尾院の逸話では、相国寺のすぐそばに宮中の和歌と漢詩の伝統を継承する役目を担った冷泉家の屋敷があり、平安時代以降の膨大な量の貴重な書が保存されて来た。江戸時代に入って茶の湯が大ブームになると、後水尾は同家の保有する書が茶席の掛軸として狙われ、売られて分散してしまうのでは、と危惧し、100年間蔵を開けることを禁ずる「勅封」を行なっている。

相国寺とも縁が深く、同時代の相国寺の往時の鳳林承章は、上皇の母方の親戚だった。この展覧会の後半展示の中心となるのが、その鳳林の詳細な日記「隔蓂記」で、相国寺がいかに広範な人脈を持ち当時の文化的な中心になっていたのかの、貴重な記録になっている。

鳳林承章 「隔蓂記」30冊 江戸時代 寛永12(1635)年〜寛文8(1668)年 鹿苑寺蔵

交友範囲がすごい。後水尾院を通して公家社会と密接な関係があった一方で、金森宗和、千宗旦ら茶人たちと広く交流し、江戸で徳川幕府初代御用絵師となっていた狩野探幽(守信)や、相国寺も多くの作品を所蔵している野々村仁清とは直接に交渉があって、自らが絵や茶道具の製作も自ら依頼した際の具体的な注文内容まで、しっかり日記に残しているのだ。

金森宗和の竹花入と、その花入れについて注文主だった鳳林承章に宛ててた手紙 江戸時代 承応元(1652)年 鹿苑寺蔵

「隔蓂記」に書かれた、金森宗和に竹を送って花入れの製作を依頼した経緯 江戸時代 承応元(1652)年

すでに紹介した野々村仁清による天目茶碗も、鳳林承章が仁清に依頼していることが「隔蓂記」から分かるそうだ。江戸の狩野探幽に絵絹を送って4枚の絵を依頼し、完成品が送られて来ると表具師に中国風の座屏に仕立てるよう依頼し、同時に探幽に礼状を送っている。

狩野探幽 「鳩図座屏」(反対側は鶺鴒) 江戸時代 慶安元(1648)年 相国寺蔵

狩野探幽 「尾長鳥図座屏」(反対側は鶏図) 江戸時代 慶安元(1648)年 相国寺蔵
上の写真の鳩図の座屏とワンセットで、4枚の絵を鳳林自身が探幽に絵絹を送って注文、完成した時には丁寧な令状も送っている

また「隔蓂記」では鳳林承章がそうした知人・友人たちを招いた茶席についても、どんな道具を使ったのかまで細かく記録が残り、その実際の茶道具が展示されている。

夢窓疎石 墨跡「応無所往而生其心」 南北朝時代 相国寺蔵

砧青磁茶碗 銘「雨龍」 宋時代13世紀 鹿苑寺蔵
「隔蓂記」によると寛文7(1667)年に鳳林が大名茶人の片桐石州を旅先で訪ねた際に石州から贈られたものが

鳳林の日記に言及がある寺宝の書の中には、法会で使ったと記録がある、無学祖元の名筆もある。展覧会の最初の方にあった筆談と比較するのもおもしろいが、実に堂々たる力強い字に圧倒されるこの名筆、もちろん相国寺の名宝中の名宝のひとつで、国宝に指定されている。

無学祖元墨跡 与長楽寺一翁偈語 鎌倉時代 弘安2(1279)年 相国寺蔵 国宝
4幅のうち2幅め

4幅のうち2幅ずつを I期・II期に分けて展示・II期展示の2幅

国宝 無学祖元墨跡 与長楽寺一翁偈語 鎌倉時代 弘安2(1279)年 相国寺蔵

天皇家とも縁故がある名家の出身で、詳細な日記をつける几帳面さ、そしてもちろん大きな禅寺のトップという立場で、絵や茶器の注文内容からも高い教養が読み取れるが、しかし鳳林自身は気さくでユーモラスで親しみやすい人柄でもあったようだ。

交友範囲の広さも親しみやすい丁寧な人柄と人付き合いの良さ、細やかな気配りの賜物だったのかも知れないし、自身の筆になる絵や、最晩年のちょっとおどけた自虐的な言葉を記した愚痴のような手紙も展示されていて、使った茶道具に見られる美意識の高さ共々、人柄が察せられる。

鳳林承章 自画賛 「布袋図」(部分・杜子美図と双幅) 江戸時代 鹿苑寺蔵

鳳林の時代に、後水尾院は相国寺と相当に深い関わりを持ったようだ。天皇としての在位中は記録に残る限り御所を出たのはたった一度、大御所になった秀忠と新将軍に就任したばかりの家光に招かれて二条城を訪れた時だけだが、譲位後の鹿苑寺への行幸も公式な朝廷の記録には残っていないし、修学院離宮との往復も同様だ。つまりそれだけ、退位した上皇は自由になれたわけでもあり、しかも主な住居だった仙洞御所(現在の京都御苑内)は相国寺の目と鼻の先だ。相国寺に鳳林をお忍びで訪れたり、逆に鳳林が仙洞御所に出向くこともあったのかも知れない。

そうした深い関係の証なのか、相国寺の境内の法堂の西、浴室の側に、後水尾院の死後に頭髪と歯を埋めて菩提を弔った「髪歯塚」がある。

この「後水尾天皇髪歯塚」が実は、承天閣美術館の次の、来春の展覧会「いのりの四季」の重要なテーマに関わって来るそうだ。天皇家と相国寺の知られざる歴史が明かされるようだが、これについては詳しい内容も含めてまた次回のお楽しみとして、今は後水尾上皇が日本の「天皇」の歴史の中でも、平安末期の後白河上皇、鎌倉初期の後鳥羽上皇と並ぶもっとも傑出した人物で、強い個性も含めてとても興味深いことを、改めて強調しておきたい。