禅から数寄へ、利休革命のインパクト

義政は応仁の乱にもめげずに自らの感性と祖先から引き継いだものを統合し、今につながる日本文化の原型となった「東山文化」として遺したが、戦国時代に突入してしまっては幕府の政治的・軍事的な没落はいかんともし難く、義政の後の将軍は自分たち自身が京都を追われてしまう状況にも陥った。この京都の荒廃はしかし、逆にその文化が全国に拡散しての新たな発展にも繋がった。

とくに茶の湯の文化は、京都の禅の大寺院や将軍家の保護を離れることで、逆に全国の武家階級に受け入れられて行った。

そして、千利休が登場する。

千利休 一行書「孤舟戴月」竹掛花入・銘「早舩・昔男」桃山時代 共に鹿苑寺蔵

茶杓が日明貿易で輸入された象牙から、日本の茶人たちが自ら竹を削ったものへ、花活は足利将軍たちが愛した宋時代の龍泉窯などの青磁から、竹を切っただけのシンプルで自然素材の個性を活かしたものへ。

千利休 竹掛花入・銘「早舩・昔男」桃山時代 鹿苑寺蔵

こうした「侘び茶」がいきなり利休から始まったわけではなく、師の武野紹鴎などからの流れも既にあったとは言え、やはり禅宗寺院から始まった歴史の流れをまとめられた文脈で見て来るほどに、利休登場のラディカルさは際立つ。

例えば天目茶碗と天目台という組み合わせも、利休の手にかかるとこうなる。

紅葉呉器茶碗 銘「龍田」 李王朝朝鮮時代 益田鈍翁 旧蔵 鹿苑寺蔵

だが天目茶碗、建盞が、元は実用本位だからこその丈夫でシンプルな黒釉の器だった原点に立ち返ると、利休の「革命」が決して断絶を意味しなかったことにも、思いが及びはしないだろうか?

例えば、利休が樂家初代の長次郎と共に作り出した「樂茶碗」がある。

長次郎 黒樂茶碗 銘「喝食」 桃山時代 鹿苑寺蔵

茶の湯が禅寺の修行の一貫として始まったことから見て来ると、黒樂の茶碗が天目の黒の延長上に発想された可能性にも容易に気づくだけでない。一見華やかな赤樂茶碗の赤が実は透明な釉薬を通して自然の赤土の色を見ていることにも思いが至り、そのそぎ落とされた美学の精神性・哲学性にも、より目が向く。

本阿弥光悦 赤樂茶碗 銘「加賀」 江戸時代 仙叟宗室 所持、松平不昧 旧蔵 相国寺蔵 重要文化財

利休の茶の湯の完成形である二畳台目の茶室は、分かり易い記号的な装飾を排除して空間を抽象化することで、従来の建築空間に組み込まれていた身分の上下も排除して行った。これは義政の「同仁斎」にも通じる精神を究極まで突き詰めたもの、と言えないだろうか?

利休がすべてをいったん削ぎ落とすことで、茶の湯が日本の禅寺に入ってきた当初は修行の一部であった、その精神性を回帰させようとしていたようにも、この展示の流れの中では思えて来る。一方で禅宗の茶にまつわる宗教儀式の形式的な決まりごともまた取り払い、茶を喫することと修行の原点・本質に立ち戻ることの中に、原点に戻ってこその原初的な自由を手にしていたのかも知れない。

長次郎 黒樂茶碗 桃山時代 鹿苑寺蔵

利休の到達した「侘び茶」の自由さの中では、たとえば元は茶器として作られたのではないものを転用する「見立て」がよく見られ、利休の弟子たちも好んでやっている。いい例が、織田有楽斎が茶席の水差しとして用い、相国寺の塔頭・慈照院(足利義政の塔所)に寄進した緑釉の四足壺だろう。

緑釉四足壷 自・織田有楽斎 贈・昕叔顕晫 平安時代 慈照院蔵 重要文化財

有楽斎は織田信長の弟だ。この壺を彼は朝鮮青磁だと思い込んで水差しに転用したようだが、実は平安時代の骨蔵器が発掘されたもの、つまり埋葬に使われた骨壷だった。数百年土中にあったので釉薬の色が変化して、朝鮮青磁にも見えるようになったのだろう。

だいたい「侘び茶」で好まれた「高麗茶碗」と総称される、李王朝の朝鮮から輸入された茶碗(井戸茶碗、呉器茶碗、刷毛目茶碗、等)も、本来は庶民の器として作られたものだった。その質素な民具に、日本の茶人たちは抑制されそぎ落とされた美と、宮廷などを相手に高度な技術で作られたわけではないだけに偶然性に大きく左右される見た目の不規則性に「景色」を見出し、江戸時代になると日本からの注文でわざわざ素朴に見えるように作られるまでになった。

金海堅手茶碗 銘「藤浪」 千家名物 藤田家旧蔵 朝鮮時代 鹿苑寺蔵

元は質素な民具なのに、欠けたり割れたりすると、わざわざ金を使って補修して使われ続けることも少なくない。

熊川堅手紅葉手茶碗 銘「清泉」 箱書・片桐石州 松永耳庵旧蔵 朝鮮時代 鹿苑寺蔵

茶碗が壊れ、補修すると、偶然性の介入でかえって味が増すという考え方は、すでに義政に先例がある。南宋時代の中国・龍泉窯の美しい輪花碗に大きなヒビが入ってしまったので同じものを注文しようと、壊れた碗を送ったところ、最早これだけの品を作る技術が明時代にはないので、との断り書きと共に、ヒビの部分を鉄のかすがいで留めて送り返されて来た。義政はかえって風情が増したと喜んで、かすがいをイナゴに見立てて「馬蝗絆」と名付けて珍重したと言われる(東京国立博物館蔵)。

井戸茶碗 銘「瀬田」 朝鮮時代 慈照寺蔵

だが利休的な精神性の問い詰め方、シンプルさと抽象性を突き詰めた厳格さからこそ生まれる精神の自由は、次第に時代のニーズから乖離して行ったようにも思える。

たとえば秀吉は、最初は利休の簡素で仄暗い茶室を好んでいたのに、天下人になると自らの威光を示す派手好みな茶に転じ、「黄金の茶室」などを利休に作らせるようになる。最終的になぜ秀吉が利休に切腹を命じたのか、動機は定かではないが、権力者としての秀吉が求める茶のスタイルを、利休が受け入れなかったゆえの確執もあったのであろうとは、容易に想像がつく。

利休の死後、次第に茶の湯の文化が現実のニーズに合わせて変容する中で、利休が徹底して排除した要素が復活して来る。たとえば野々村仁清の華やかで雅な色絵の茶碗は、およそ樂茶碗を理想とするような美学からかけ離れているが、茶の湯が世俗社会の社交ツールにもなっていた以上は、こういう需要も当然だったのだろう。

野々村仁清 銹絵寒山拾得図茶碗 江戸時代 鹿苑寺蔵 「寒山拾得」は禅宗で好まれる画題

野々村仁清 銹絵夜の富士絵茶碗 江戸時代 鹿苑寺蔵

富士山と三保ノ松原の図案

とは言え禅寺のためとなると、その仁清も得意とした和風の雅とは正反対にも思える、先述の天目茶碗や、朝鮮の呉器茶碗の写しのような、大陸風でシンプルな茶碗も作っている。その作風のあまり知られていないこうした一面が、歴史的な文脈の中に置かれると、かえってその技術の高さと感性の鋭さ、陶器づくりの哲学が際立って来るのは興味深い。

野々村仁清 呉器写茶碗 江戸時代 鹿苑寺蔵 高麗茶碗の形を踏襲しながら仁清の轆轤の技術の冴えが際立つ

承天閣美術館には鹿苑寺の、金閣と鏡湖池を見下ろす高台にある、金森宗和の茶室「夕佳亭」が再現されている。金森宗和は利休より三世代ほど下の茶人(利休が亡くなった時点で10才くらい)で、桃山時代の終わりから江戸時代にかけて活躍した。

「夕佳亭」は、後水尾上皇の行幸のために建てられたものだと伝わる。お忍びだったせいか精確な記録が残っておらず、建てられた年代も確定していないが、たぶん寛永年間だろう。

金森宗和 茶室「夕佳亭」再現 原建築 江戸時代 寛永年間

茅葺の、農家風の作りは侘び茶の数寄の趣向を踏まえている。しかし一方で見た目のおもしろさを狙って曲がった材木を強調して使っていたり、開放的でふんだんに光が入る構造や、窓の奇抜な作りなど、利休の美学からかけ離れた部分も多い。「侘び」を基本思想におきながらも「派手」であり「華やか」だ。

なによりも、仄暗く狭い、俗世から隔絶された空間で主と客が人と人として向き合うことを理想とした利休の哲学では考えられないことがある。「夕佳亭」の基本構造は三畳の茶室だが、利休であれば躙り口を設けたはずの面に、別棟のようなものが斜めに追加されている。竹のスノコを挟んで床が一段高いところに畳敷きの上座が設けられ、天井も凝った作りだ(写真右手)。後水尾上皇の御座所である。

義政や利休が人間がただの人間としてひたすら対等に向き合う場の茶席を追求したのに対し、身分制度が明確に取り込まれているのだ。