足利義満と唐物コレクション、「東山御物」の世界

義満は単に武家的なリーダーであるだけでなく公家的な側面も持たねばならず、その強力な支えだったのが禅宗寺院との関わりとそこから学ぶ文化・教養、例えば喫茶の風習、「茶の湯」だった。

国宝・玳玻散花文天目茶碗 南宋14世紀 相国寺蔵 松平不昧旧蔵
宋代の天目茶碗や青磁碗は典型的な「唐物」として珍重された

義満の死後に鹿苑寺となった別邸の北山殿は、公家の西園寺家の別邸があった跡地に建てられている。美しい鏡湖池が広がる庭園を整備したのは、公家や天皇その人を招いて自分の和歌や管弦の深い教養と才能を見せつけるための舞台装置でもあったし、さらに「金閣」を建てたことには、明との正式国交を結んだ際の答礼の使者を接待すると同時に、その明に日本の将軍の富と威光を見せつける狙いもあった。

右)足利義満 一行書「放下便是」室町時代 相国寺蔵 重要文化財
左)夏珪「松下眺望山水図」宋時代 鹿苑寺蔵
夏珪は中国で最高の評価を得ている山水水墨画の巨匠で、日本の雪舟にも大きな影響を与えた

禅寺に学んだ喫茶の風習はもちろん、そうした接待で活用できるものだった。義満は中国でも珍しいほど高い質の、宋時代の青磁や天目などの茶碗や、優れた工芸芸術の茶器、そして明の皇帝も驚くような北宋・南宋の文人画の名作を盛んに収集し、贈答品としても活用した。

唐物小丸壺茶入 東山御物 宋時代 慈照寺蔵 セットになっている専用の盆の緻密な螺鈿細工もいかにも中国風で、日本のスタイルではない

こうした中国渡来の最高級文物を「唐物」と呼ぶ。天目茶碗の名品(例えば相国寺の「玳玻散花文天目茶碗」のような、今では国宝になっている名碗)は、龍泉窯、汝窯などの最高級の中国青磁と並び、唐物の茶器の典型・最高峰として扱われた。

この義満の唐物コレクションは、孫の八代将軍・義政によって整理・体系化されたことから、義政が将軍退任後に住んだ東山の別荘(現在の慈照寺)の地名にちなんで「東山御物」と呼ばれる。

砧青磁浮牡丹文香櫨 中国・宋時代 相国寺蔵

足利義政というと「応仁の乱」の時代の将軍だったために後世、特に近代以降は無能な暗君と思われがちで、その生み出した「東山文化」についても政治から逃避して自分の趣味に耽溺したかのように謗られることが多いが、これは足利将軍家の元々の権力基盤の脆弱性と、義満の没後も相次いだ政治的な混乱、それに「東山御物」となった唐物コレクションをそもそも義満がなぜ蒐集したのかを考えれば、あまりフェアな評価ではない。

確かになかなか実を結ばなかったものの、義政は幾度も乱の収束に向けた調停に腐心したし、それも幕府の軍事力の主力を担っていた細川管領家と山名家との争いで、自分の意思で動かせる軍事力を持っていなかった中でだ。そう簡単にうまく行くわけがない。様々な手を尽くし、最終的には妻・日野富子の財力を使って乱を治めたのも、貨幣経済の浸透が進んでいた当時としては、賢明で現実的な判断だろう。

その義政が、将軍家の唐物コレクションの使用マニュアルと格付けをまとめて側近の相阿弥に書かせたのが、以来慈照寺に伝来してきた「君台観左右帳記」だ。この相阿弥がかなり謎の人物でもある。

伝 相阿弥 座敷飾花の子細伝書、「君台観左右帳記」室町時代 慈照寺蔵

室町将軍に「同朋衆」と呼ばれる文化美術アドバイザー集団がいたことは知られていて、相阿弥はその代表的人物だが、同朋衆の実態は最近の研究でやっと、徐々に明らかになりつつある。

相阿弥は自身の描いた絵も多くが残り(II期には「瀟湘八景図」の「平沙落雁」が展示・慈照寺蔵)、庭園デザイナーとしても才能を発揮し、京都の各所に相阿弥が作庭したと伝わる庭園がある。美術品格付けでは義政と一心同体とも言えそうな身近さだったと考えられるが、同朋衆は身分的には武士ではなく、「阿弥」という号を名乗っていたのは能の観阿弥・世阿弥のような、中世でいう「かわらもの」だったのかも知れず、つまり江戸時代身分制でいえば「えた・ひにん」階級に当たるのでは、という説もある。いずれにせよ、こと東山に移ってからの義政は、そんな身分差を全く気にしていなかった。

相阿弥 瀟湘八景・平沙落雁図 室町時代 慈照寺蔵

慈照寺の東求堂は晩年の義政の住居も兼ねた持仏堂で、その東北の角に義政が作らせた書斎「同仁斎」は日本家屋の「座敷」の原型と言われる(例年、春と秋に特別拝観が可)。

元祖・座敷でなおかつ元祖・四畳半で、名前の通り「同仁」、つまり身分などの隔てなく同じ思いを共有する者が心を寄せ合う場というのが、この部屋のデザインの基本コンセプトだ。義政はこの書斎で相阿弥と対等に語り合い、相阿弥が連れて来た狩野元信のような絵師らとも対等な時間を過ごしたのかもしれない。中央に炉が切られ、のちの「茶室」の源流でもある。

「君台観左右帳記」も、基本は中国からの伝来の品々について元の価値に従っているようで、その飾り方や使用法マニュアルには義政(あるいは相阿弥)の独創性にあふれる部分も多く、美術品の格付けにも中国とは違った価値観も見られる。例えば天目茶碗の最高位に格付けされた曜変天目は、現存例が日本に3点だけ(一部にだけ窯変が現れたものを含めると4点、MIHO MUSEUM蔵)、中国では窯跡などで破片や壊れた形でしか見つかっていない。どうも失敗作とみなされたか、偶然に現れる青の文様が「不吉」と考えられていた可能性が高い。

牧谿 瀟湘八景・江天暮雪図 中国・宋時代 鹿苑寺蔵

それに中国的な序列なら夏珪が最高位となる水墨画の画家だが、義政が最上としているのは中国で必ずしも評価が高かったわけではない、牧谿だった。特に牧谿の描いたふわふわの毛並みの猿は、その後狩野派や長谷川等伯と言ったそうそうたる日本の絵師たちが模倣することになる。

牧谿 柿栗図 宋時代 相国寺蔵

枇杷栗鼠図 天山印 室町時代 慈照寺蔵