本日3月20日(土・祝)丸ビルホールにて「第2回大島渚賞 記念イベント」を開催いたしました。
下記、レポートとなります。
第2回大島渚賞 記念イベント<トークショー+参考上映>
■日にち:3月20日(土・祝)
■会場:丸ビルホール(東京都千代田区丸の内2-4-1丸ビル7階)
■登壇者
敬称略:審査員・黒沢清(映画監督)、荒木啓子(PFFディレクター)
ゲスト・大島新(ドキュメンタリー監督)
【第一部:黒沢清監督、荒木PFFディレクターによる審査員トーク】
第2回大島渚賞の選考過程において荒木PFF ディレクターが「坂本龍一さんはコロナ禍における映画とは何かを非常に考えている」と話すと、黒沢監督は選考当時を述懐し、「坂本龍一さんは、とても熱心で新しい無名な監督の作品に詳しく、普段からたくさん観ていて、時代性を重視している。意見が対立した訳ではないが、コロナ禍で、音楽活動が禁止されたのは、何千年ぶり、歴史的にも稀だとおっしゃっていて、音楽をライブでやることを重要視している方にとっては深刻なこと。ただ、映画の作り手は音楽とは違って、ライブ感覚とはズレがあり、あまり時流に乗ってしまうと映画公開時にぜんぜん違ってしまうので、警戒しながら作っています」と映画づくりには普遍性を求められることを語った。
黒沢監督は「不思議と、坂本さんとはほぼ趣味が合うんです。いちばん最初、第1回目の大島渚賞の時は緊張して、価値観の根本的対立があったらどうしようと思っていたのですが、ほとんど無かった。今回もほぼ意見が合って、圧倒的に凄い、問答無用でこれだと思うものは2人とも無かったのですが、坂本さんと僕の中にそれぞれ「強いて言えばこれかな」という作品が一本ずつあった。ここでお互いの意見が合わなかったんです。坂本さんと僕が一致して「これならば」という作品が無かった。2人が良いと思う作品があるならば、大島賞は無くても坂本賞、黒沢賞という形で賞をあげようかという案もあったが「そんな中途半端な事なら無しにしましょう」というPFF側の英断がありました」と意外なエピソードを明かした。
荒木PFFディレクターが「大島渚賞というのはこういう賞なんだ、というのを明確に示して道を作っていかなければいけない時に、ふたりの優しさを反映してそれをやってしまうと、開拓中の道がおかしくなるのではないか、と2人が懸念しながら話しているのがわかったんです」と、最終的な決断に至った経緯を話すと、黒沢監督は「僕は選ばれる側の身ですから、賞をもらえると嬉しいし、どなたかを選んであげたいな、という気持ちはあったのですが、やはりそれじゃダメですよね」と苦笑しつつ、「該当者なし」に至った審査結果を振り返った。
【第二部:大島新監督をゲストに迎え、大島渚監督作品の魅力を語る】
スペシャルゲストとして大島渚監督のご子息で『なぜ君は総理大臣になれないのか』など話題作を手掛ける大島新監督が登場。
黒沢監督に質問があるという大島新監督から「初めて大島渚作品を体験したのはいつか?」と問われ、黒沢監督は「最初に見たのは高校生、大島渚という人の映画を見たい」と意識して映画館に観に行ったことを明かし、「『ユンボギの日記』と『絞死刑』を観たのが初めて。それまでハリウッドやフランス映画の娯楽ものばかり観ていて、日本映画でこんなに身近なところに凄い監督がいたんだと気付かされた。その後は大島渚特集があると必ず行き、もちろん新作も、浴びるように観ましたね」と述懐。
『日本春歌考』をベスト作品に選んだ理由について質問が及ぶと、黒沢監督は「大島渚のエッセンスが全て入ってる。多種多様な作品群の中でも特に「自由」で、何をやっても良いんだ、という突き抜けたものがある。それでいて、映画であろうとする。ある種、両極端なものが絶対なバランスで入っている稀有な作品」。本イベントで、坂本龍一と共に大島渚のベストワンと声を揃えた『日本春歌考』を絶賛した。
父である大島渚監督に対する黒沢監督の熱い思いを受け、感謝を述べた大島新監督。父の素顔について「子煩悩でいわゆる普通の幸せ、良い大学に入って良いところに就職して、という少し保守的な(笑)父親でした。時に子供ながらに緊張することもあり、そういうオーラをまとっていたのかも。でも普通に可愛がってもらいましたね」。劇映画もドキュメンタリーも手がけた大島渚監督に、新さんが「ドキュメンタリーをやりたい」と伝えた際には「しっかりやりなさい」と背中を押してくれた、という親子のやり取りも明かしてくれた。
※大島渚監督の「渚」は旧字体となります。
【審査委員長・坂本龍一氏から寄せられたメッセージ】
去年の一回目は『セノーテ』があった。実は『セノーテ』も、もともとは候補作に入っていなくて、ぼくが推薦したものだった。それはともかく、『セノーテ』は全く大島渚が作っていた映画とは異なるものだけど、その質、実験精神、思想からみて、充分に大島渚賞にふさわしいものだったと思う。
さて今回の二回目であるが、ぼくは個人的に候補作を、いつも以上の好意の目をもって観た。「該当作なし」を避けるために、ギリギリこれか?!という作品もないではなかった。実際に、審査の話し合いの時に、そのタイトルも出した。しかし、全員の了解として、それはギリギリだし、無理しているし、大島渚の名前を冠した賞にふさわしいかと問われれば、答えは明らかだという空気が蔓延した。腰をひいて無理やり一作決めるか、それとも肚を据えて、敢えて「該当作なし」でいくか。当然後者の方が大島渚の名前にふさわしいだろう。
「該当作なし」は、一つの強烈なメッセージだと思う。来年こそは、大島渚の名前にふさわしい豪胆で、深い思想をもった、切れ味の鋭い候補作を観られることを、大いに期待している。
坂本龍一