コロナ禍により4月の開催が延期となっていた好評企画「台湾巨匠傑作選2020」が、いよいよ9月19日(土)~11月13日(金)開催となります。
2014年からスタートし、年々来場者が増え続け新宿K’s cinema で恒例の特集上映になった「台湾巨匠傑作選」。5回目を迎える今年は、本邦劇場初公開となる台湾映画界のレジェンド、名匠ワン・トン監督の大作『バナナパラダイス』がデジタルリマスター版で劇場初公開となる他、エドワード・ヤン監督上映可能全作品、ツァイ・ミンリャン監督4部作、人気の台湾青春映画、アニメ、ドキュメンタリーからホラー、サスペンスまで幅広い盛沢山の名作ラインナップ、 日本に知られざる台湾映画を伝える台湾映画伝道師セレクトによる貴重な未公開映画6選、あわせて全33作品の台湾映画を連続上映。
このたび、ワン・トン監督から「台湾巨匠傑作選2020」にメッセージ動画と、『バナナパラダイス』についてのインタビューが到着しました。
ワン・トン監督は、ホウ・シャオシェン、エドワード・ヤンが牽引した台湾ニューシネマにおいて、彼らの活躍以前から、時代の変化を予兆するかのように骨太のリアリズムで映画を発表し、プロデュースまた美術指導としても多くの傑作に携わった名匠。
キン・フー監督の『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿』『侠女』の美術スタッフを経て、バイ・ジンルイ監督らの下で美術を担当し高い評価を獲得。名作「無言の丘」「村と爆弾」の他16本の自身の監督作に加え、『熱帯魚』『藍色夏恋』のプロデュースの他、100本以上の作品で美術指導にあ たり、2007年には台湾文芸界における最高栄誉賞である国家文芸賞を、2019年には金馬奨の名誉賞である終身成就奨を受賞。
王童(ワン・トン)監督インタビュー
『バナナパラダイス』 ~ルーツは中国、ふるさとは台湾~
――まずは、ワン監督の小さい頃の事を聞かせてください。中国安徽省のお生まれですね。
わたしが生まれたのは、1942年(国共)内戦中の中国です。父は軍人で、4歳のころに蘇州へ移りましたが、それ以前のことは記憶にありません。だから今も、中国に里帰りする際には蘇州を訪ねます。それから、6歳を過ぎて家族と一緒に台湾へ来ました。蘇州では中国文化に囲まれて暮らしていたので、台湾に来て「え?どうしてこんなに日本っぽいの?」と驚いたのを覚えています(笑) 台湾ではじめて生活した家は、日本式の木造建築でした。
――ご自分の記憶を作品に投影したようなところはありますか?
そうですね、と言っても(わたし自身の話と呼べるのは)ほんの少しです。国民党が台湾へとやってきた頃には、とにかく様々な出来事があり、いろんな物語が生まれました。それは私自身の記憶というより、いまの70歳以上の世代がもっている共通記憶といっていいでしょう。ですから『バナナパラダイス』にも、そうした思い出を入れました。 しかしそれも、だんだんと忘れられています。あのころ特に強かった「外省人」「本省人」(※注参照)という区別も薄くなり、(外省人) 三世以降はみな「台湾人」になりました。
――『バナナパラダイス』制作の経緯を教えてください
「海を見つめる日」のあと、台湾の歴史をテーマに三部作を撮ろうと思いたちました。それが「村と爆弾」『バナナパラダイス』「無言の丘」という“台湾近代史三部作”です。3つの時期の異なる境遇の台湾の人々を通して台湾人の身分の変遷を探りたいと思いました。でも資金不足だったこともあり、まずは一番お金のかからない「村と爆弾」を撮った。これが結構ヒットして、会社(中央電影) も『バナナパラダイス』を撮らせてくれました。これもヒットして、最も資金のかかる「無言の丘」まで撮ることが出来たわけです。この3本を通して11年かかりました。「村と爆弾」は台湾の“昭和時代”の物語ですが、この次には是非とも、戦後に国民党がやってきた時代、つまり私の父親たちの頃を描かなければと思いました。そこに興味深い物語が、余りにもあふれていたからです。
――どのような実話が、実際に『バナナパラダイス』に投影されたのですか?モデルになった人物は?
『バナナパラダイス』の登場人物の、戦後に中国から台湾にやってきて名前を変えて別の人として生きる、というのは実話です。モデルのひとりは映画会社(中央電影)の編集マンで、もうひとりは中央ラジオ局(中央広播公司)の会計士。身近なこの2人の話を合体させたのが『バナナパラダイス』です。“原郷”(中国)の子供たちが“天国”と言われる台湾にきて、でも実際にまったく天国じゃないという話です。これをワン・シャオディーに話して、脚本にしてもらいました。
――実際に、当時の中国でも台湾は「バナナ天国」と言われていたのでしょうか?
その通りです。私も小さいころ蘇州に住んでいましたが、滅多に食べる機会はなくて、たまに家にあっても子供の口に入るのは一切れぐらい、という高級な物でした。だから台湾に来てたわわに実るバナナを見たときは嬉しくて、バナナばかり食べた揚げ句に下痢をする、というエピソードは自伝的映画「赤い柿」のなかにも出てきます。
――主人公のニウ・チェンザーやチャン・シーへの演出について
演出については特に苦労しませんでした。設定が山東出身なのは、国民党軍には山東出身者が多かった為です。今の台湾のマントウなどの小麦粉食文化は彼らがもたらしました。ニウ・チェンザーたちはどちらも外省人ではあるが山東人ではないので、彼らの芝居の山東訛りも厳密にいえば似てないけれど、まあOKの範疇でしょう。
――お気に入りのシーンは バナナ園のある田舎でチャン・シーが酔っぱらって畑を彷徨うシーンです。とてもエネルギーのある場面になりました。 ――ワン・監督にとって故郷とは?
私の故郷は台湾であり、私の親にとっての故郷は中国です。でも実のところ私にとって「故郷はどこか?」という質問は、そんなに重要ではありません。昔読んだある作家の言葉で忘れられない言葉があります。「故郷とは、あなたの祖先がもう動けないほど歩き疲れて離れられなくなった場所である」 故郷とは、実は先祖にとっては異郷だった場所なのです。故郷という概念は相対的なものです。例えば私の息子はアメリカにいて、まだ結婚はしていませんが、例えば100年後に彼の子供がいたとして、その子供にとって故郷はアメリカでしょう。でも彼の“原郷”は台湾です。人が変化していく様が、誰かを感動させる物語になります。物語は変化して、小説・文学・脚本になる。「変わる」ということ、それこそが文化ではないでしょうか。
――ワン監督にとって映画とは?
映画とは思想です。物語を通して自分の世界の見え方や判断を伝えたい、それが創作です。絵もそうですね。同じものを見て絵を描いたとしても、あなたと私で全く違うものができる。それは見え方が違うからです。 一番好きな日本の映画監督は、小津安二郎ですね。まるで脚本のないように見えて、ものすごいエネルギーが底を流れている。そこには人の性(さが)のすべてがあります。寂しさ、別れ、失うこと。これが人です。
――最後に日本の観客に一言。
よく東京や京都に行きますが、私の映画を知っている日本の方は少ないです。日本の皆さんが是非とも私の映画を見て、面白ければ拍手してくれたら嬉しく思います。
(※注) 現在、台湾では「外省人」(中国の国共内戦に敗れた蒋介石率いる国民党軍と共に、第二次世界大戦後に台湾へと渡った人々を指す。それに対して戦前よりずっと台湾に住んでいる人々は「本省人」)という呼び名が差別性を含むという見方があり、公的な場では使用されない。しかしこのインタビューでは、ワン・トン監督作品が「外省人」という存在をひとつのテーマとして作られていることから、インタビューでも「外省人」「本省人」という呼び名を使用している。
<インタビュー協力:栖来ひかり>
『バナナパラダイス』 日本公開に寄せたワン・トン(王童)監督メッセージ動画
台湾巨匠ワン・トン監督『バナナパラダイス』デジタルリマスター版予告
『バナナパラダイス』
デジタルリマスター版
1949年、幼馴染みのダーションを頼って、寒風吹きすさぶ荒涼たる中国華北から、バナ ナが実る緑豊かな南国台湾へとたどり着いた青年メンシュアン。その新天地で、二人にスパイ容疑がかけられて逃げ出す途中、ある男の臨終に出くわしたメンシュアンは、その妻ユエシャンに彼女の夫になりすまして仕事に就くことを持ち掛けられるが...。大陸からパラダイスバナナがたわわに実る<天国>台湾へ渡り、名を変え、身分を偽り、他人の人生を必死に生きる青年の数奇な運命を綴る、社会派エンターテイメント大作。メンアシュンを若き日のニウ・チェンザー(『風櫃の少年』主演、『モンガに散る』『軍中楽園』監督)が好演。ダーションを演じたチャン・シーは、金馬奨で最優秀助演男優賞を獲得した。日本人の知らない戦後台湾史を、ユーモアあふ れるエピソードと奇想天外な展開で描き出す最高傑作が、30年の時を経て遂に日本劇場初公開。
1989年・台湾/148分/カラー
[原題]香蕉天堂
[英文タイトル]BananaParadise
第26回金馬奨最優秀助演男優賞
監督:ワン・トン
脚本:ワン・シャオディー(王小棣)、ソン・ホン(宋紘)撮影指導:リャオ・ベンロン(廖本榕)
主演:ニウ・チェンザー(鈕承澤)、チャン・シ ー(張世)、ゾン・チンユー(曾慶瑜)、リー・シン(李欽)、ウェン・イン(文英)