1950年代に北朝鮮からモスクワ国立映画大学に留学した若者たちのその後の人生を追いかけたドキュメンタリー映画『さらばわが愛、北朝鮮』が5/2(土)から新宿K's cinemaにて劇場公開されます。

1950年代にモスクワ国立映画大学に留学した
北朝鮮の若者8人が母国に戻らずソ連に亡命したその望郷の思いとは―

・第42回モントリオール世界映画祭ワールド・ドキュメンタリー部門(コンペティション部門)出品
・山形国際ドキュメンタリー映画祭2019出品
・第9回釜山平和映画祭コンペティション部門出品
・2019年ソウル国際女性映画祭ニュー・ウェイブ部門出品

画像1: ©822Films+Cinema Dal

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1952年に北朝鮮から8人の若者がモスクワ国立映画大学に留学した。だが、彼らは北朝鮮に帰らず、当時の金日成首相を批判して、エリートとしての約束された将来を捨てて、1958年にソ連に亡命し、広大なユーラシア大陸に移り住んだ。

『さらばわが愛、北朝鮮』は、それから50年以上にわたり、カザフスタンを始めとするユーラシアの各地で、ある者は映画監督として、ある者は作家として活動した彼らのその後を追ったドキュメンタリー映画である。

彼らのうちの3名はカザフスタンとソ連で映画製作者となった。キム・ジョンフンはカザフスタンで、特殊効果の専門家となり、チェ・グギンは“The Year of The Dragon” (1980年①)で、高く評価される映画監督としての地位を確立し、ウイグルのレジスタンス運動に結束を呼びかけた。ハン・ジン(後に改名してハン・デヨン)は、中央アジアに居住する朝鮮民族のための劇場、“高麗劇場”の作家となった。彼は1993年に亡くなっているが、本作では、彼のロシア人妻がインタビューに答えている。 ※①“The Year of The Dragon”

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監督のことば

半世紀以上の間に北朝鮮からソ連へ亡命し、中央アジアへと移動した8名に会い、その足跡をたどるのは確かに困難なことだった。彼らは北朝鮮出身の若いエリートで、1950年代の多くをモスクワ映画大学で学んでいた。金日成を批判しソビエト連邦へ亡命した後、彼らは新たな仕事と家を探すのにたいへん苦労した。幾人かは映画監督、撮影監督、作家として名を上げた。他の人たちは貧しく死んだか、無名に終わった。このドキュメンタリーは、亡くなった人々を目覚めさせ、様々な方法で彼らに人生を語らせることとなるだろう。
製作に着手した際、8名のうち7名がすでに亡くなっていた。撮影当時の生存者はただ一人が
最後のサバイバーであり、朝鮮戦争、南北朝鮮分断、金日成、そしてスターリンの目撃者でもある。彼らは、未だ語られない歴史についての生身のアーカイブである。中央アジアの広大な風景に対抗してアーカイブを収集することは、残された世界で共鳴する声と出会うために、権力に抵抗した若者たちの手法を考察することになるだろう。
これはユーラシア大陸をめぐる大きな敗北と小さな勝利についての壮大な物語である。南北朝鮮分断と再統合についての考察を迫るだろう。

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亡命した8名について

・キム・ジョンフン
映画監督。黄海道(ファンヘド)(夢金浦(モンガンポ)のある長淵(チャンヨン)郡)出身。大学では物理数学部で勉強し、朝鮮戦争では迫撃砲中隊小隊長として戦う。亡命後、北極海に近いムルマンスクに分散移住させられた。その後ハン・デヨン、チェ・グギン、ヤン・ウィンシクとともにカザフスタン南部のアルマトイに定住し、カザフフィルムの特殊効果部門に配属。韓国公開時の唯一の生存者。

・チェ・グギン(1926〜2015)
映画監督。8真では最年長。1934年両親と中国に移住し人民解放軍に入隊、1948年に北朝鮮に戻り、平壌映画撮影所で北朝鮮で初めて製作された「わが故郷」で俳優デビュー。1953年に留学し、亡命後カザフスタン南部アルマトイに移住しカザフフィルムの劇映画部門に配属、「龍の年」でアサナリ・アシモフとともに共同監督を務め、1987年「チョカン・ワリハーノフ」で芸術・文化部門国家賞を受賞。本作最後のインタビューを終えた後、2015年5月に死去した。ハン・デヨンの「38度線」の映画化を望んだが叶わなかった。

・ハン・デヨン(ハン・ジン)(1931〜93)
金日成総合大学外国語文学部でロシア語を勉強していたため留学生たちに授業内容を朝鮮語に翻訳していた。亡命後、モスクワ・カザン駅で休暇でモスクワに来ていたロシア人女性ジナイダ・イワノフナと出会い、1959年結婚、1960年には第一子アンドレイが生まれた。テレビ局に勤めたが、規制の多いテレビに不満を抱き辞職。カザフスタン・クズロルダでレーニン・キチ新聞社(現・高麗日報)に文芸部の記者として入社し執筆活動を始める。1962年に短編小説「ムクドリ」を発表、「肖像画」などの小説を世に送り出し、高麗人2世の文学をリードした。1946年「継母」の公演を機に高麗劇場に加わり、劇場の文芸部長に任命された。その後も作家生活をしながら多くの作品を創作した。

・リ・ギョンジン(1930〜2002)
1958年に8月に一時居住証が与えられたのち、モスクワ近郊へ分散移住させられた。ロシアで死去。

・ホ・ウンベ(1928〜97)
義兵運動で知られたホ・ウィ(許蔿)将軍の孫である。映画大学シナリオ科に通う学生であったが、1957年11月27日、モスクワで開かれた朝鮮留学生大会に参加し、金日成の個人崇拝を批判して行方をくらました。大使館の追跡と説得によって、自主的に大使館に戻ったが、すぐに監禁されてしまった。大使館のトイレの窓から逃げ、地下鉄に飛び込んで駅員に助けを請うた。ソ連当局に引き渡され、医科大学に留学していた恋人(チェ・ソノク)と一緒に亡命した。1982年、イム・ウン(林隠)名義で『北朝鮮王朝成立秘史―金日成正伝』を出版、在ロシア高麗人協会会長や高麗日報会長を務めた。1997年モスクワで持病により死去。

・チョン・リング(1931〜2004)
1958年に8月に一時居住証が与えられたのち、中央シベリアのイルクーツクへ分散移住させられた。ロシアで死去。

・リ・ジンファン(1933〜2005)
1958年に8月に一時居住証が与えられたのち、ウクライナのドネツクへ分散移住させられた。ロシアで死去。

・ヤン・ウォンシク(1932〜2006)
1958年に8月に一時居住証が与えられたのち、ロシア・スターリングラードへ分散移住させられた。その後ハン・デヨン、チェ・グギン、キム・ジョンフンとともにカザフスタン南部のアルマトイに定住し、カザフフィルムのドキュメンタリー部門に配属。ドキュメンタリー映画を監督し国際的にも高い評価を得た。またカザフスタン高麗日報のハングル版の主筆を務めたが、2006年にカザフスタンのアルマトイで暴漢に刺殺され死亡した。

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監督:キム・ソヨン

2017年製作/韓国・ロシア/カラー/デジタル/80分  

配給:パンドラ
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5/2(土)〜新宿K's cinemaにてロードショー、全国順次公開

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