『オーファンズ・ブルース』公開記念
工藤梨穂監督(『オーファンズ・ブルース』)
✖️対談
清原惟監督(『わたしたちの家』)
進行役・野本幸孝
5月31日(土)からテアトル新宿で1週間の限定公開が始まった『オーファンズ・ブルース』。
昨年の第40回ぴあフィルムフェスティバル(PFF)グランプリ受賞作品であるこの瑞々しい傑作の公開を記念して、工藤梨穂監督と一昨年のPFFグランプリ受賞作品『わたしたちの家』の清原惟監督の対談をお届けする。
最も悲しいことは「いるのにいない」ことだと語る工藤監督と、「いないのにいる」不在を映しだす映像の力に魅せられる清原監督。記憶はつねに現在形でしかないということの悲しみと希望を胸に、二人の若手作家が投げかける映画の光はこれからもスクリーンの前にいる観客の「今」を照らし続けるに違いない。未来なきゆるやかな終焉へと向かう世界のなかで、忘却と不寛容に抗い、生と想像力の輝きを刻印したこの二つの映画がひとりでも多くの観客と出会えることを心から祈りたい。
映画とリアルのあいだで
司会進行 野本幸孝(以下、野本)
まずはお互いの監督作品である『オーファンズ・ブルース』と『わたしたちの家』について、それぞれの感想を伺えますか。
工藤梨穂(以下、工藤)
『わたしたちの家』は2回拝見しました。大好きな作品です。例えば、あのクリスマスツリーの電源を丘の地面に差したら電飾がつくという場面がとても印象的でした。映画のなかに物語を説明すること以外の要素がたくさん含まれている。また、これは以前お会いしたときにもお伝えしたのですが、俳優の衣装が完璧で素晴らしいと思いました。
清原惟(以下、清原)
私はつい数日前に『オーファンズ・ブルース』を拝見しました。まず、おそらく多くの方が感じると思うのですが、役者さんの演技が本当に素晴らしいと思います。もうひとつすごいと思った点は、物語の説明がほとんどないということ。その大胆な省略がとてもかっこいいと思いました。私はあまり気にしないタイプですが、説明が省略されていると観客は物語が分からないことへのフラストレーションを感じてしまうことが多いと思います。しかし、地に足のついた役者さんたちの存在感がありありと伝わってくることで、彼らが本当に実在していることを心から信じられる。そのような実在感があるからこそ、省略されていても観ているこちら側には物語が伝わってくるし、たとえ伝わらなかったとしても、それはそれでいいという気になる。その勇気がとてもかっこいい映画だと思いました。
工藤
ありがとうございます。『わたしたちの家』の役者さんたちも、ある一定のテンションがあるというか、少し不気味な、サスペンスを感じさせる部分がありますよね。菊沢将憲さんの気味の悪さや、セリちゃん(河西和香)が母親の新しい恋人を嫌がる感じなどもよく伝わってきます。役者さんたちに一定のテンションが保たれているなかで、そういった人物たちそれぞれが感じている思いや感情を観客に伝えていくためには、どのように演出されているのかと思います。また、黒沢清監督作品からの影響も強く感じました。やはりそのあたりは意識されているのでしょうか。
清原
そうですね、黒沢監督からの影響はよく指摘されます。ただ、私としては直接的に黒沢作品のようにつくろうと意識したことはありません。藝大時代に身近にお話を伺うなかで、自然と出てしまうというか。
工藤
その感じはよく分かります。私も京都造形大在学時代の2、3年生のときに青山真治監督からご指導いただいていました。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)の草原でギターを弾くシーンには影響を受けていて、今回の『オーファンズ・ブルース』でも草原でバンがエマの歯を磨くシーンなどはそれを参考にしています。
清原
あの草原をはじめ、何も人工物のない自然豊かな開けた場所が何度も出てきますが、それぞれが少しずつ異なった風景であるのが不思議で面白いです。また、先ほど衣装のお話が出ましたが、『オーファンズ・ブルース』の衣装も素晴らしいと思いました。風景や衣装など、細部にさまざまなこだわりが散りばめられていて、目を喜ばせてくれる映画だなあと。
工藤
色彩に関しては思い入れがありました。日本の日常生活のなかではビビッドな色があまりないのでロケーションには特異な場所を選んだり、人物たちが着る洋服の色も明確に決めていました。
清原
主人公であるエマ(村上由規乃)の洋服はずっと寒色系ですし、映画の衣装というのはたんに表面的なものだけでなく、着ている人物のパーソナリティであったり、そのときの心情が生々しく現れてくるものですよね。それも含めて、画面の隅々まで意識が行き届いていると感じました。
工藤
衣装もそうですが、映画のなかで表面的にいわゆる「今風」の意匠を使うことには違和感を感じます。私は現実に沿った整合性を優先することより、たとえ作為的で多少の違和感があったとしても、登場人物たちの置かれている状況とマッチするような表現ができるのが映画だと思っているから。『わたしたちの家』のセリちゃんは赤の印象が強いのですが、そこには何か意図があったんですか?
清原
セリも含めて、人物たちにはそれぞれが属している世界のイメージカラーがあります。セリの世界は暖色系。だから照明にも暖色系を使ったり、昼間のシーンを多くするようにしたり。衣装だけでなく、美術、照明、撮影なども含めて、作品全体として二つの世界があることを表現できるように、スタッフと話し合いました。もう一方のさな(大沢まりを)と透子(藤原芽生)の世界では、蛍光灯の白々しい光や夜のシーンを多用したり。やはり「映画的なもの」と「リアルに見えるもの」との中間点にある表現を見つけることが大切だと思います。『オーファンズ・ブルース』の衣装もそれぞれがテーマ性を持っているんだけれど、それがとても「自然」に見える。もちろん、それは人物のパーソナリティとマッチしているからでもあるんですが。美術も素晴らしいですよね。エマの部屋で押し入れを机や本棚代わりにしているところとか。
工藤
あれは私はただイメージを伝えただけで、美術部のスタッフが作ってくれました。あのメモが貼ってある壁は本当はドアなんです。どうしてもここを白い壁にしてほしいとわがままを言って頼み込んで、壁を作ってもらいました。
清原
あの押し入れにある机は、実はセリが使っている勉強机と同じものなんですよ。彼女も押し入れを机にしていて、そう考えるとお互いになにか通じるものがありますね。
工藤
えっ、そうだったんですか!? それは見落としていました。でも押し入れを机にするっていいですよね。
清原
本当に。人生のうちで一度はやってみたい(笑)。ところで、『オーファンズ・ブルース』は、なぜ「孤児」なのでしょうか。
工藤
この作品の前に2本映画を撮っているのですが、以前それらを見た友人から「工藤の映画の人物は親がいるように見えない」と言われたことがありました。そんなことが念頭にあって、ウォークマンでいろいろと曲名を見ていたときに「オーファンズ」という曲を見つ
けて、自分の作風とぴったり合う言葉だと感じたんです。そこで「オーファンズ・ブルース」というタイトルが決まり、そこからエマ、バン、ヤンたち人物の背景をつくっていきました。
「記憶」というテーマ
野本
お互いに通じるものがあるということでいうと、お二人の作品には「記憶」というテーマも共通しています。映画もまたひとつの記憶装置であることを考えるなら、お二人とも映画でしか表現できない「記憶」を描いていると思います。お二人が映画で「記憶」をテーマに描こうと思った理由は何でしょうか。
清原
『わたしたちの家』を企画する以前に、もともと3つの物語がありました。それはすべて「記憶の空洞」というテーマにもとづいて脚本を書いたものです。いまおっしゃったように、記憶とは映画=映像そのものだと思います。私が映画で一番不思議で神秘的だと感じることは、もうこの世には存在していない人たちが映像に映っていることです。映像を見慣れている私たちは、それを普通のこととして意識せず受けとることが多いけれど、ときどきその事実を思い出す瞬間があります。例えば昔の映画を観て、もう亡くなっている俳優さんたちの顔がそこにあることもそうだし、SNSで亡くなった人の映像や写真を偶然目にしてしまったときも、その人が今ここにいないことが信じられない。まだ映像のなかで生きているという感じがします。それは極めて原初的な映像の力ですし、映像とはそういう人の不在を映すことができるメディアなのだと思います。
『わたしたちの家』でいえば、もういないけれど、その人がかつて存在していた事実がありありと実感できる瞬間があってほしいと思っていました。例えば、セリのお父さんはもうこの世界にはいないかもしれないし、まだどこかで生きているのかもしれないけれど、少なくともこの映画では姿を見せない。セリたちの目の前からもいなくなってしまっているけれど、その人物が実在していたということは映画で表現することができる。たとえ姿が映っていなくても、そこに「映しだす」ことはできるのではないか。『オーファンズ・ブルース』も不在をテーマにしているので、そういう意味では共通していると思います。
工藤
私のなかにも「いるのにいない」というテーマが根底にあります。今回の『オーファンズ・ブルース』では、記憶の喪失によって、目の前にいるのにその人の存在がなくなってしまうというような。私にとって最も悲しいことは、そのような「いるのにいない」という状況です。本作で記憶というテーマを取り上げた理由には、私の祖母がアルツハイマーを患っていたということがありました。エマの役柄の参考にもしたのですが、幼い頃に記憶を失っていく祖母を間近で見ていたということが、本作をつくるきっかけにもなっている。私が記憶というテーマに固執してしまう理由も、そういうところにあるのかもしれません。
清原
実は私はかなり記憶力が悪いほうなので(笑)、エマを見ていて彼女の気持ちが分かる気がしました。エマは自分の記憶がなくなっていくことに対して焦りや不安もあるのだけれど、どこかあきらめているようにも感じます。記憶に対してだけでなく、エマの生きていく姿勢全体に、悪い意味ではない、生きていくためのあきらめというものをすごく感じました。記憶を失っていくことって、自分ではどうすることもできない。普通の人であっても、記憶は日々失われていくものですよね。あきらめというとネガティブな感じがしますが、忘却という事実に対して大きく構えているというか、記憶を失っても前に進んでいくという覚悟のようなものを感じます。だから、ラストもとても悲しいことではあるのだけれど、エマにとっては希望でもあるというか。
工藤
ラストについてはハッピーエンドとバッドエンドの混在を表現したくて。悲しいのに希望的であるというか。それを考えた結果、ああいう形になりました。むしろバンのほうがこれから生きていくための覚悟をしているといえるのかもしれません。逆にエマと同じ記憶喪失という状態でも、『わたしたちの家』のさなさんは記憶を喪失したところから始まっていますね。そこから記憶を獲得していくというか。
清原
さなの状態というのは「子ども」なんです。彼女の保護者として身近にいる透子にいろいろなことを教えてもらい、一緒についていくうちに、明らかに以前とは異なる新しい自分を獲得していく。そういうことを描きたいと思いました。その意味では『オーファンズ・ブルース』は最後に「子ども」へと戻っていく。未来に希望を持てなくなった若者が「子ども」へと回帰していくことで再び希望を取り戻していく、というのはとても面白いと思います。
工藤
そう考えると真逆ですね。
野本
映画はある失われた瞬間の断片化された記録=記憶でもあるわけですが、記憶を失っていくエマは、ある意味で流転し連続する生そのものともいえます。その人の抱えた記憶を超えて、いま存在しているありのままの生を愛することを『オーファンズ・ブルース』は映画によって肯定しているようにも思えます。
清原
『わたしたちの家』では人物を肯定したいという気持ちと同時に、世界を肯定したいという思いがありました。これはなぜ複数の世界を描いたのかということにも関わってくるのですが、複数の世界というアイデアには、それぞれの人間にはその人の世界がひとつずつあるという意味が込められています。普段私たちは他人の世界は自分の世界と同じであるという共通認識のもとで生きているのですが、実際には見たり感じたりしているものはまったく違う。それはほとんど別の世界に立っているようなものだと思ったりするんです。いま世界的に他者に対する不寛容が蔓延していると感じていますが、みなが自分の世界を信じることで手一杯になっていることがその要因のようにも思えます。もともと難しいことではありますが、現代では自分の世界とは別の世界があるということを想像したり、それを肯定したりすることがより困難な状況にあるのではないか。自分の世界とは違う別の世界が存在していて、それを自分の世界と同じように等しく肯定することができたら、世界は平和に近づくのではないかと思います。
工藤
宗教の違いなども争いの要因のひとつになる場合がありますよね。
清原
宗教や国家も、より大きなレベルでの「世界」です。だから、自分と違うものを肯定したいですし、それはとても重要なことだと思います。
映画を学び、つくることの意義
野本
二つの作品ともに映画のなかで自己完結せずに、その向こう側にちゃんと世界=他者や現実を見ようとするつくり手の意志を感じます。お二人はそれぞれ京都造形芸術大学映画学科と東京藝術大学大学院映像研究科で映画づくりを学んでいらっしゃいますが、デジタル技術の発達により、誰もが手軽に映画をつくれる環境を手にできる現在において、映画を「学ぶ」意義をどのように見出したのでしょうか。
工藤
私は地元で専門学校に入学するという選択肢もあったのですが、専門的な技術だけを習得するのではなく、例えば絵画を見たり、友人たちと話したりといった映画以外のことも大切だと感じ、自分で選択できる学びの時間があるなかで、映画を含めたさまざまなことを勉強したいと思って4年制の京都造形芸術大学で学ぶことにしました。
清原
私は東京藝術大学大学院に入学する前に、武蔵野美術大学の映像学科に通っていました。ムサビに入ろうと思った理由は、まず映画を撮りたいという目的が第一でしたが、私も工藤さんと同じく他の領域の表現にも興味があり、幅広く学べる学べるムサビに入学しました。実際、入学してからも映画のゼミには4年時まで入らず、メディアアートのゼミに入り、映画とは異なる表現をしている人たちとともに制作することで刺激を受けていました。逆に言えば、専門的な映画の勉強はあまりしておらず、4年生になるまではきちんとした脚本の書き方も知りませんでした。それまでにも映画を撮ってはいたのですが、4年生のときに先生から「脚本の書き方も知らないの?」と言われながら教わったりして(笑)。
野本
京都造形芸術大学には青山真治監督、東京藝術大学大学院には黒沢清監督や諏訪敦彦監督と、それぞれ世界的に活躍されている映画人の方々が数多くいらっしゃいますが、二つの学校の違いや共通点などはあるのでしょうか。
工藤
青山監督には2年時の短編映画制作ゼミと3年時の中編映画制作ゼミでお世話になりました。ゼミでの青山監督はとても楽しそうでしたね。本当に愛情を持って学生の皆を可愛がってくださいました。
清原
確かに青山監督は学生とわいわい楽しそうにしている印象がありますね。私は黒沢監督は在学時はお忙しいこともあり、諏訪監督のゼミを多く受講しました。諏訪監督も黒沢監督も基本的にファミレスでお茶をしながら世間話をするというスタイルでしたね。
工藤
私たちは居酒屋でした(笑)。
野本
そうすると、お二人とも技術的なことを教わるというよりは、映画のつくり手としてお話を伺うという形が多かったのでしょうか。
清原
そうですね、藝大の場合は脚本の指導などもほとんどなく、最初の作品構想のときに相談をして、あとは制作現場が終わって、編集ができたものを見てもらうという形でした。構想や脚本段階での相談も、ここをこうしたほうが良いといった具体的な直しは一切なくて、全体的なことに関して意見をいただくという感じです。
工藤
私の場合は、ゼミのときに青山監督が撮影現場に来てくださることもありました。私の監督作品ではないのですが、3年生のときに一日だけ現場を見に来てくださって、そのとき青山監督はその作品の監督のようでした(笑)。「スタッフ、何してるんだ!」と撮影を進めていくうちに段々と青山監督が指示する形で現場を引っ張ってて(笑)。怖くもあり、とても楽しく貴重な体験です。鈴木卓爾監督にも最初の作品の企画を立ち上げる際に相談にのっていただいたり、アドバイスをいただきました。『オーファンズ・ブルース』のキャストやスタッフもほとんどが、それまで一緒に制作してきた仲間たちです。
清原
『わたしたちの家』はスタッフに関してはほとんどが同期や後輩で、外部の方が数人という感じです。キャストは東京藝大には俳優コースがないので、オーディションで来ていただいた方のなかから決めました。
工藤
『わたしたちの家』は藤原芽生さんが素晴らしかったですが、彼女は俳優ではないのですよね。
清原
芽生ちゃんはムサビの後輩で、もともと知り合いでした。他の菊沢さん以外の俳優さんはオーディションできていただいた方々です。芽生ちゃんの配役だけは最初から決まっていました。透子はとても特殊な存在で、演技でどうこうできる役柄ではないと思っていたので、初めから芽生ちゃんをイメージして当て書きしました。京都造形も村上由規乃さんという方が同期でいらっしゃるのは奇跡的なことですよね。本当に素晴らしい役者さんだと思います。
工藤
奇跡的ですね。彼女は実際には私より年齢はひとつ上なので、もしかしたら先輩になっていた可能性もあります。
清原
先輩だったらまた関係性も違っていたでしょうね。まさに出会うべくして出会った。
工藤
そうですね。これからも一緒にやっていければと思っています。エマという役柄は初めはワンピースを着ているような女性をイメージしていたのですが、徐々にあのようなハードボイルドな女性に変わっていきました。
映画は共同作業と出会いの積み重ね
野本
村上さんは編集にもクレジットされていますが、どのように関わっていらっしゃるのでしょう。
工藤
編集は私がメインで行いましたが、彼女から助言などをもらった部分もあったのでクレジットに載せました。『わたしたちの家』には以前にも清原さんの作品に出演されている俳優はいらっしゃるのですか。
清原
以前にご一緒したことがあるのは菊沢さんだけです。菊沢さんには初期の頃から私の作品に出演していただいています。
工藤
逆に菊沢さんの監督作品『おーい、大石』(16)にも清原さんが出られていますよね。
清原
そうなんです。初スクリーンデビューの作品で、黄色いセミの役で出ています(笑)。菊沢さんの作品には2回ほど出演しているのですが、どちらも人間の役ではなくて。人間ぽくないのかな(笑)。スタッフは何度か一緒に仕事をしているメンバーもいますが、俳優の方々はほとんど初対面でした。脚本の加藤法子さんとは、東京藝大に入ってからの作品のすべてを一緒に書いています。
工藤
私の場合は俳優を含めて何度か一緒に仕事をしている方が多いのであまり実感がわかないのですが、初めて組んだ方々との共同作業は大変でしたか。
清原
『わたしたちの家』は撮影前にあまり時間がとれなかったので、もう少しリハーサルができていれば、また違ったものになっていたとは思います。現場に入ってから一緒につくりあげていくという感じでしたので、やはり難しさはありました。
工藤
複数の世界を描いているので、それぞれを切り替えながら違う頭で考えなければならないこともあったと思うのですが。
清原
前半と後半の二つに分けて撮影をしたのですが、家という同じ場所があることで気持ちがひとつに繋がることはできたとはいえ、それぞれ別の映画を撮っているような感覚はありました。やはり物語がまったく違いますし、お互いの世界にいる俳優さんは現場では一度も会っていないのです。彼らは映画が出来上がって初めて、スクリーンのなかで一緒にいるところを観ました。だから、映画のなかで起こっている現象がそのまま現場でも起こっているような感じがありましたね。自分にとっても周りの方々にとっても、すごく不思議で、誰も体験したことのないような現場だったのではないでしょうか。ただ、物理的には美術の飾り替えなどは相当大変だったと思います。
工藤
私だったらパンクしてしまいそうです。あの舞台になっている家は横須賀にあると聞きました。
清原
はい。脚本を書いている段階ではまったく日本家屋のイメージは頭になかったのですが、あの家と出会ってここしかないと確信しました。築90年ぐらいの古い家屋なんですが、最初は炭屋で、次が牛乳屋、その次にタバコ屋になり、現在は多目的スペースとして運営されています。入り口のシャッターなど、あまりにも一般の生活とかけ離れているので、観ている人はついていけるのだろうかと少し不安にもなりましたが。
工藤
でも、そういうロケ地や場所との出会いには奇跡的なものがありますよね。
清原
そうですね。『オーファンズ・ブルース』は四国など日本全国で撮影されていますよね。
工藤
これも奇跡的に香川県出身のスタッフがいたので、その方の実家で寝泊まりしながら撮影を進めました。
時代性について
野本
『わたしたちの家』のシャッターがある家もそうですが、『オーファンズ・ブルース』でのラジカセや8センチCDなども、意図的に時代性を曖昧にしている印象を受けます。そのあたりはどのような意図があったのでしょうか。
工藤
私はなぜかあまりiPhoneなどを映画のなかに出したくないという思いがあります。ブラウン管やカセットテープなど、しっかりと「形」として在るもののほうを写したい。
そう考えると「現代」を描いた映画としては成立しないのかもしれませんが、それでもいいと思いました。作品の舞台設定として日本の特定の場所や土地を明示していないことも、本作のひとつのテーマだった「ロードムービー」であることと関係しています。ロードムービーとは、私たちをどこかに連れて行く映画であり、観ている私たちもどこかへ連れて行ってくれることを期待している映画です。だから、近未来のアジア圏という設定はありつつも、映画の舞台や時代を現実に沿わせない形で、観客をどこか見たことのない世界に連れて行きたいと思いました。
清原
『オーファンズ・ブルース』に登場するミニCDやカセットテープは幼い頃に接していた記憶があります。私たちミレニアル世代はよく「デジタルネイティブ」といわれて、確かに小学生の頃からパソコンなどに触れてはいますが、それと同時にアナログにも接していた最後の世代だと思います。だから、幼い頃にミニCDを聴いていた記憶もあるし、ピアノの発表会のときの記録がカセットテープで残っていたりして、身近にアナログな物があった。小さい頃はスマホもなかったですし、そういう手にとって触れるアナログな物への愛情は私にもすごくありますね。それを映画に写したいという気持ちはよく分かります。
『わたしたちの家』は一応現代という設定にはなっています。劇中ではっきりとは映りませんが、実はセリと友だちが浜辺を歩いているシーンで、セリはポケットからキッズ携帯を取り出しているんです。そういう形で現代だと分かる物をわずかに入れてはいますが、分かりやすい現代性を表す物は出さないようにしました。その理由は、現代性を説明するために分かりやすく現代的な物を見せるのが苦手だからです。流行りの服やインテリアを写したりすれば、観ている人にはすぐに現代性は伝わると思いますが、そういう世界だけが現代に存在しているのではありません。現代でもエマのような生活を送っている人はいるだろうし、セリのような家に住んでいる小学生も必ずどこかにいると思うんです。だから、そういう分かりやすいリアルをどんどん排除していって、結局は自分が惹かれるものや、その人物に合ったものを美術や衣装などで表現していきました。
工藤
そういう映画づくりの姿勢のなかにも、先ほどおっしゃった自分とは違う世界に対する寛容さが表れていると思います。
清原
自分の映画のなかには典型的なものを入れたくないというのがあります。例えば人物を描くときでも、「こういう人いるよね」とか「女の人ってこうだよね」という、皆が持っている共通認識を一度疑いたい。普段の生活のなかでも、そういう共通認識を信じきってしまうことは怖いことだと感じています。
工藤
最後に、今後の次回作について聞かせていただけますか。
清原
『わたしたちの家』で二つの複数世界を描きましたが、先ほど言ったようにもともとは3つの物語があったので、もう少したくさんの複数世界を描いてみたいですね。より複雑だけれど、『わたしたちの家』とは違った複数世界を描けたらと思っています。
工藤
私はまだ撮れるかどうかは分かりませんが、漠然とサムギョプサル屋の話を考えています。「サムギョプサル」という語呂の良さに惹かれて(笑)。あとは光というモチーフをもっと追求した映画を撮りたいと考えています。
(文・構成=野本幸孝)
公開スタート!『オーファンズ・ブルース』予告
5/31(金)~6/6(木)テアトル新宿にて公開中!
〈STORY〉
夏が永遠のように続く世界で生きるエマ。
最近、物忘れがひどい彼女はノートを手放さず、家にもあらゆるメモを貼っている。そんなある日、彼女の元に、孤児院時代の幼馴染であり現在行方不明のヤンから象の絵が届く。エマはその消印を手掛かりに彼を探す旅に出た。
道中で彼女は、ヤンと同様に幼馴染であったバンに邂逅し、その恋人であるユリとも知り合う。タヒチへ高飛びする計画が失敗した彼らは、ずるずるとエマの旅についていくこととなる。その一方で、エマはヤンへの思いを募らせ、また自らの記憶の喪失が加速していることを恐れ始めていた…。
村上由規乃
上川拓郎
辻凪子
佐々木詩音
窪瀬環
吉井優
監督・脚本・編集:工藤梨穂
撮影:谷村咲貴 録音:佐古瑞季
照明:大﨑和 美術:柳芽似 プロムムアン・ソムチャイ
衣装:西田伸子 メイク:岡本まりの
助監督:遠藤海里 小森ちひろ
制作担当:池田有宇真 谷澤亮
2018/日本/カラー/16:9/5.1ch/89分
配給・宣伝:アルミード
Twitter: @orphans_blues
Instagram: orphansblues