東欧チェコの珍しい宇宙SFで、55年前の作品にもかかわらず、その独自性は現在も色あせていない。長い間、その名のみ知られていたのだが、ようやく日本公開となり、とてもうれしい。
私の記憶に間違いがなければ、この作品のことを知ったのは、私がSF映画について調べ始めた1970年代初頭のこと。オーストラリア出身の映画史家ジョン・バクスターの『SF・イン・ザ・シネマ』に本作の記述があった。
バクスターはフェリーニ、ルーカス、スピルバーグ、アレンといった監督に関する著作も執筆、これらは翻訳出版されているが、残念ながら『SF・イン・ザ・シネマ』は未訳のまま。日本人読者の興味を引きつける派手なSFはまだ製作されていなかったし、取り上げられている作品も60年代なかばまでで未公開が多く、未訳なのも無理はない。私にとっては示唆に富む内容でSF研究の貴重な参考書となったのだが。とまあ、本作には直接関係のないことを書きつらねたが、60年代SF映画のトレンドを本作に見ることができ、つい脱線してしまった。
1951年の「遊星よりの物体X」を皮切りに、アメリカを中心にSF映画ブームがまきおこった。観客の興味を容易く引き付けられる宇宙からの侵略者か、湖沼にすむ半魚人、放射能や化学物質で突然変異したモンスターとの戦いといった内容のものがほとんど。
製作会社もインディペンデントが多く、粗製乱造のきらいもあった。一方、共産圏のSF−−「金星ロケット発進す」(59)、「大宇宙基地」(59)、「火を噴く惑星」(62)−−は、宇宙を舞台に各国の人々が協調するという設定(もちろん指揮するのはロシア人だ)が目立ち、類型的なストーリー、プロパガンダには苦笑を禁じえなかった。
「イカリエ」の時代背景は2163年。多くの科学者を乗せた宇宙船イカリエが亜光速で、太陽系に最も近い恒星系アルファ・ケンタウリに出発する。乗組員は夫婦者もいるが、ほとんどは独身の男女で構成されている。
船内はとても広く、乗組員が集うホールやエクササイズ・ルームも宇宙船とは思われぬほど広く、さながら健康施設完備の研究所といったところ。ダンス・パーティが開かれ、女性はひらひらのエレガントなドレスをまとい、男性も白いスーツを着ている。地球との最後の交信で、帰還した時には年下の妻が夫よりも年上になることを再確認させられる場面や、妊婦の乗組員が無事出産できるか不安がる場面など、多くの宇宙飛行ものでは等閑視されている問題を取り上げているところがいい。
宇宙空間に漂う宇宙船を発見し二人が調査に赴くと、司令官を始め、全員が死亡していた。
どうやら20世紀の地球のものらしい。核爆弾が搭載されており、それが爆発し、二人は死亡。「20世紀と言えば、アウシュビッツ、広島だ」と吐き捨てるように言う科学者にもう一人が「オネゲルもいますよ」と声をかける。ここで仏音楽家オネゲルが出てくる理由が私にはわからなかったが、ともあれ、ダークスターが発した放射能の影響で、精神に異常をきたしたミカエルが光線銃を発射するなど、混乱状態に陥る。だが、星雲の電磁フィールドが、彼らをダークスターの放射能から守ってくれた。イカリエは星に到達、雲間を通り過ぎて見えた地上には、道路や建物があり、高度の文明があるようだ。
日常生活、ロマンス、危機的状況、新しい生命の誕生という宇宙空間規模のメロドラマ要素に、地球以外の文明を持つ星とのファースト・コンタクト、科学の進歩、理性に対する考察といったSFらしさを織り込んで、ジンドリッチ・ポラック監督は淡々としたテンポで演出している。
ロボットが登場するが、その形態は「禁断の惑星」(56)のロビーを彷彿とさせ、音楽も「禁断の惑星」の電子音楽に似ていた。この作品はSFを多数手がけたアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズが、買い付けて再編集したヴァージョン(オリジナルより16分も短い)で64年に公開。
ラストの映像は取り替えられ、自由の女神が見えるショットに変えられていた。ということは、あの衝撃的なラストで有名な68年の「猿の惑星」よりも4年も早いのだ!
北島明弘
長崎県佐世保市生まれ。大学ではジャーナリズムを専攻し、1974年から十五年間、映画雑誌「キネマ旬報」や映画書籍の編集に携わる。以後、さまざまな雑誌や書籍に執筆。著書に「世界SF映画全史」(愛育社)、「世界ミステリー映画大全」(愛育社)、「アメリカ映画100年帝国」(近代映画社)、訳書に「フレッド・ジンネマン自伝」(キネマ旬報社)などがある。