ウィーンから電車で1時間ほど、クレムスという小さな街で毎年春に開催されているドナウ・フェスティバルに足を運んだ。
音楽とパフォーマンスの総合的なフェスティバルとして、オーストリアのなかでも有名なイベントの一つである。
今年のテーマは“Du steckst mich an(直訳すると「あなたは私に感染する」)”。共感や感情移入といった他者の代理経験を含めて、目の前の出来事が否応なく皮膚を突き抜けてくるような、何かに夢中になってしまうようなものを指している。このテーマのもと、今年のフェスティバルの目玉の一つがドリス・ウーリッヒ(Dolis Uhlich)の5時間にも及んだ『Habitat』(初演)であった。
このパフォーマンスは、メイン会場の一つである古い教会のなかで、若者から老人まで、性別や肌の色、体型など、本当にさまざまな身体を持つ30人が裸で踊るというものである。パフォーマー全員に共通していることは、全くの裸であることと黒の靴を履いていること、そして無表情なことだけだ。5時間という長時間を全員がずっと踊っているのではなく、パフォーマーも観客も流動的に教会を出入りしながら、常時、両者が空っぽの教会の空間を共有する。
基本的にパフォーマーは、ダンスステップを緩やかに踏んだり、スキップや足踏みなど、各々が一つの動作を教会のあちらこちらで反復し続ける。その5時間の間に2回のピークを迎え、そのピークはウーリッヒの振付に特徴的な「身体を揺らす」ことによって推し進められる。小刻みな揺れは、身体の一部、例えば二の腕やお尻、頬を揺らすことから始まり、二人一組で互いに身体を揺らし始め、それがグループになり、だんだんと大きな流れへと伝播していく。そこに、電子音が流れだし、音楽が反響する教会の空間が身体の振動とともに大きくうねり出していくのだ。
さらに、身体から発せられる動きと熱によって空間に熱気が帯びてくると、身体はぶつかり合いとしか言い表せないように、音を立ててまさに肉の塊として目の前で衝突していく。それは教会というかつては神聖な儀式が行われていた時空間を超えて、もしかしたらそれよりも昔に存在していたかもしれない古代の祝祭のようでもあり、多種多様な裸体が見事なまでに皮膚の中に宿る快楽のようなものを体現していた。
私は他のパフォーマンスも見るため、なか2時間を抜いて3時間ほどのこのパフォーマンスを見たが、5時間見続けなかったことを本当に後悔した。
ウーリッヒはこの一年をみても大きなフェスティバルには必ずといっていいほど名前をみるような、オーストリアのパフォーマンスシーンの主要人物の一人であろう。たまたま友人が彼女のパフォーマンスに関わっていたこともあって何度か作品を観ていたが、間違いなく今回の作品が一番よかったし、初めて彼女の振付と身体が結実しているさまを観たのではないかと思う。
今回の『Habitat』には、前身として『more than enough』(初演2009年)とそれに続く『more than naked』(初演2012年)があるらしく、私は両者を観ていないが、要はウーリッヒ自身の身体的特徴とダンスやパフォーマンスにおける歴史的な身体の理想像との乖離から始まっている。ウーリッヒは身長も高く肩幅もあって肉付きも良く、つまりはがたいが大きい。
そのような身体が小刻み揺らしていくなかでリズムを作りだしていき、電子音によるテクノミュージック的なダンスへと繋がっていくと、その動きは理想像としての身体とは全く関係ない、動きのなかにある身体が生まれる。ここからウーリッヒの振付スタイルが生まれてきている。
一人で演じた『more than enough』から、集団的にプロフェッショナルなダンサーたちによって劇場で発表されたのが『more than naked』であり、空間的なコンテクストとよりバラエティーのある身体によって演じられたのが今回の『Habitat』であろう。
中盤に彼女一人だけがバレエシューズを履いて、かつて祭壇があったであろう場所で踊っていた。教会の広い空間に大きな裸の身体が踊るようすは、イメージとしてだけでも強い。さらに、バレエのステップからだんだんとテクノミュージックに合わせて揺れていく身体を目の前に、観客は理性的な理想像からはかけはなれた身体そのものを直視させられたのではないかと思う。
人間が裸になって踊る。とてもシンプルなことであるが、普段は隠された裸であるからこそ私たちは多くの意味を投影してきた。私は日本の舞台事情に明るくないが、オーストリアにおいてパフォーマーや俳優が裸で舞台に立つことはとくに珍しいことではない。公衆の面前であってもそれは変わらず、ウィーンで多くの「裸」のパフォーマンスを観る機会が多かったように思う。
さまざまなコードから抜け出したかのように見えて、裸はコードに縛り付けられた最たるものである。それは性的な欲望であったり、性別、年齢、身体的特徴であったりさまざまである。
しかし、5時間にも及ぶパフォーマンスはそのようなコードを再生産することなく、身体の言説を超えていくようなものであった。その点で、観客としてその場に居合わせることができたのは、自分のなかで身体に纏わりつくコードが解体していく様子を体現することでもあったし、社会のなかの身体ではく、器としての身体を垣間見たように思う。
丸山美佳プロフィール
現在、ウィーン美術アカデミー博士課程在籍。ギャラリーでアシスタントとして勤務しながら、早稲田大学卒業、横浜国立大学修士課程修了。