小野耕世のPLAY TIME
長編アニメ「レッドタートル」の監督インタビュー
1、 あらしの海
「あなたの今度のアニメの登場人物の顔は、目は黒い点(もしくは長円)で、鼻がとんがっているという、ごく単純な描き方ですね。まるで、ベルギーのエルジェが描く『タンタンの冒険』シリーズのタンタンみたいですね」
私がそう言いながら、メモ用紙の上にタンタンの顔を描いてみせると、62歳のマイケル・ドゥ・ヴィット監督は、その横に彼のアニメの主人公の男の顔をさっと描いてみせた。ただしその男は、タンタンとちがってひげを生やしている。
私は、9月1日の午後、六本木ヒルズのホテルで、日本・フランス・ベルギー合作のアニメ「レッドタートル ある島の物語」の監督にインタビューしているのだった。
オランダ生まれの彼は、これまでいくつかの優れた短編アニメを作ってきたが、とりわけ2000年に発表した「岸辺のふたり」(原題「父と娘」)という8分半の作品は、広島国際アニメフェスで大賞をとり、その年のアカデミー賞の短編アニメーション部門の賞を得て、作者の名は世界じゅうに知れ渡った。海に出かけて行ったまま帰らぬ父を、ずっと待ち続けていた娘の物語で、この短編のなかに、いわば人間の生涯の姿が凝縮されていたと言ってもいい。そのとき広島で、私は彼に初めてインタビューをした。彼の家族も来ており、私は家族との写真をとって、大きく引き伸ばして彼に送ったので、とても喜ばれた。
スタジオ・ジブリの鈴木敏夫氏は、この「岸辺のふたり」に感動し、短編ながら後にジブリにより日本で配給公開された。そして鈴木氏は、彼には長編アニメを作ることができるだろうと考え、ドゥ・ヴィット監督にして初めての長編「レッドタートル」が8年かけて完成したのだった。
そしてスタジオ・ジブリ作品として東宝で配給されることになったのだが、その最初の試写が8月1日に始まり、私がすぐにかけつけると、上映を待って試写室前に私といっしょに並んでいたひとりに、映画評論家の佐藤忠男氏の姿もあった。
映画は、黒い背景に赤い英文字でタイトルと監督の名が簡潔に記されるだけで始まるが、そこに風の音が鳴っており、すぐに嵐の海の場面に続く。
荒れ狂う波が、たちあがってくだけるなか、白いシャツ姿の男が、クロールで泳いでいる。彼が乗ってきたボートが、波にほんろうされている。男はなんとかすがりつこうとするが、ボートは岩にぶつかり壊れてしまう。この場面の海の色彩は、うす灰色といったらいいか、色彩が押さえられている。
この嵐の海の波や空の描写に、例えば葛飾北斎の有名な版画「神奈川沖浪裏」を思いうかべてもいいが、さらに複雑な、様式的であると同時にリアルな水の表情がとらえられている。それは、息をのむ描写といっていい。そして、ようやくのことで、黒い髪に白いシャツの若者は、ある島にたどりつく・・・。
これが、81分の長編アニメ「レッドタートル」の導入部である。
2、 竹林の島の秘密
「このアニメの舞台は、ひとつの島ですが、そのために監督はインド洋のセイシェル諸島にロケハンに行かれたとのことですね」
「そのとうりさ」とドゥ・ヴィット監督「なにしろ私は、生まれてから一度も熱帯地方に行ったことがないんだ。それで熱帯の島を見ておく必要があった。セイシェルに2008年の1月に行ったが、なぜセイシェルにしたのかというと、ロンドンから島まで飛行機の直行便が出ていたからなんだけどね」(笑)。
「私はこのアニメの島が、竹の林でおおわれていることがとても気になったのです。セイシェルには、竹も生えているのですか?」
「少し生えていたよ。」
「だけど、このアニメの島の竹林は、竹のようですが、日本の竹とはちがうように思いました。竹の葉も、いわゆる日本のどこにでもある竹の葉のようではない。それで私は、これは竹らしいけど、一種の<竹もどき>のような気がしたのです。この無人島に漂流した青年は、島から脱出しようと、竹を組んでいかだを作って海に出る。でも、なにかに襲われたような感じで、竹のいかだは折れて、ばらばらになってしまう。ほんとうの竹なら、そうかんたんに折れないと思いました。もっとも彼がいかだ作りに使った竹は、生えている竹を斬ったものではなく、竹やぶに落ちていた――というか地面に横たわっていた竹をひろってきて、いかだを組んでいる。だから、生え育っている竹ほどの強度はないのかも――とも考えました。それで、もしかしたら、この島はこの地球ではなく、どこか別世界、別の地球に設定しているのか、とさえ思ったほどです。まあ、これは基本的にはファンタジー映画ですから、そういう作りかたもあり得る。この地球の生態系とは似ているが、まったく同じではない自然環境を創造したのかなとまで想像したほどです。でも、これは私たちの住むこの地球上の物語なのですよね」
「そうだ。この世界のおはなしだよ。ただ竹について言えば、セイシェルにも竹はあったけれど、興味はなかった。私にインスピレーションを与えたのは、京都の嵐山や、日本の南の屋久島に生えていた竹林や、南フランスにある広大な竹の公園なんだよ。そうした場所にある高くまっすぐ伸びている強い竹をイメージして描いたが、この無人島の竹林は、あくまでもフィクシャス(架空)な竹なんだ。この孤島から男が見るのは、どこまでも横にひろがった海――水平線だけなんだ。だから、海から島を見たときには、その反対に垂直に、上に強く伸びるものが欲しいと私は思って、島は、まっすぐ立っている竹林でおおわれるようにしたのさ」
3、 セリフなし、アップなし、赤い色なし。
「いまおっしゃった海の風景と島の風景の対比、水平線と垂直線の対比――というのはおもしろいですね」と私。「つまり、このアニメは81分の長編ですが、登場人物のさけび声とか、うめき声はあっても、セリフとしての言葉はないですよね。にもかかわらず最後まで目が離せなくて、いっきに見てしまうのは、言葉のかわりに風景――つまり自然の描写が実にきめが細かく、微妙な色形などが、言葉にかわって雄弁だという気がしますね。でも例えば、赤い色は、映画のタイトルどおり、登場するレッドタートルは赤いですが、そのほかには美しい夕焼けの赤色を除いて、赤い色彩のものが出てこない・・・」
「そのとおり。それに気がついたのは、君だけだよ。赤は強い色彩だから、多用しないようにしたんだ。それから、さっきタンタンのマンガのはなしが出たけれど、この映画にもうひとつ無いものは、クロースアップ(大写し)なんだ。そのことは重要だよ。このアニメでは、クロースアップの必要はないんだ」
「そういえば、エルジェのタンタン少年のマンガにも、タンタンの顔のクロースアップはなかったと思いますね。その必要はない。タンタンの単純な顔でも、喜怒哀楽ははっきりわかるし、周囲の描写でタンタンの置かれている状況は、わかる。このアニメでも、単純な主人公の顔で、じゅうぶん彼がなにを感じているかは、すぐ見てとれますよね」
「クロースアップはなくても、普通のしぐさ(ボディ・ランゲージ)だけで、すでに感情はじゅうぶんに伝えられるからね。たしかにクロースアップは、登場人物への感情移入をしやすくするのだけれど、必ずしも不可欠の要素というわけではない。感情移入をひき起こす方法はほかにもある。そのうえ、このアニメのなかの人物たちの顔は、じゅうぶんに極端なクロースアップにも耐えられるように描かれているよ。たとえ、かんたんな顔に見えてもね(笑)」
「まさに、タンタンの顔がそうですね」と私。
「そしてもうひとつ重要なのは、登場人物たちを、可能な限り周囲の風景とのかかわりのなかで見ることなのだったからね」と監督。
「このアニメでは、風景描写が、その微妙な色調の変化とともに、セリフやクロースアップ以上に非常に雄弁な役割をになっていると思いました」
4、 カニとコウモリ、そしてカメ
三度見て気がついたのですが、男が嵐の海を泳ぎきって、夜、孤島にたどりつく。そして一夜明けて、朝、島の浜辺で倒れている男を見せるということになるのですが、このとき横たわっている男の全身を見せるのではなく、まず小さなカニたちを見せ、カニが、倒れている男のズボンに近寄り、ズボンの裾から中に入っていこうとする。つまり、カニたちから男の下半身へという見せかた。島で男が最初に触れるのが(知るのが)小さなカニたちということになる。以後、カニたちはこのアニメを通じて男のまわりに現れますが、カニの動きはユーモラスですね」
「このアニメでのカニの役割は三つあるんだよ。①まずカニというのは、どこの浜辺にもいて、ちょこちょこ動き、まずその存在自体がユーモラスでマンガ的だ。②カニのような小さい生き物にも死があり、大きな生命の流れ、つまり生態系のサイクルの一部をなしていること、人間の生死もそれにつながっていることを示したかった。③これは映画言語のひとつなのだが、主人公など人間の動きとは別にカニなど小生物の行動に観客の目をそらすことで、島では併行して別の出来事も起きていることを見せることで、時間経過を示すという役割がある」
「なるほど、このアニメでは、小さなカニたちの行動が、なかなか重要な意味をもっているのですね。カニたちは(その数は、場面によって変わりますが)、なんとなく島に漂着した男に好奇心をもっており、好意的に男を見守りつつ、カニのチームとして行動しているような感じがおもしろいですね。カニたちは、浜辺で死んだ魚をひっぱってきて、自分たちのカニの穴にひっぱりこもうとしますが、大きすぎて入らない――という場面は、ユーモラスであると同時に、生物の死についてもなにか感じさせる。また、島のなかには(海水ではなく)真水(まみず)の池もあるようで、そこにオタマジャクシが泳いでいる場面も出てきます。一方で、大きなコウモリが飛んでいる場面も一回だけあって、おやと思いました」
「コウモリは、虫を食べるなどしておもしろい存在なので、もっと多く登場させる予定だったのだけれど、はなしが複雑になるのでやめたんだよ」と監督。
「でも、いちばん重要な存在は、やはり映画のタイトルにあるようにカメですよね。日本の昔話にもカメが出てくるなど、親しまれている動物ですが・・・」
「浦島太郎のはなしは知っているよ」と監督。「このアニメを企画したとき、まず作品の軸となる海の生物が必要だと、いろいろ考えた。ある程度大きくて、存在感がないといけない。といって凶暴なサメのような生物ではまずい。それでおとなしいが、存在感のあるカメになったんだよ」
「カメはもの静かですが、愛らしさと一種の威厳がありますよね。このアニメを見て思い出したのですが、私は1980年に初めてマレーシアに旅行したとき、海辺の砂浜に産卵に来るカメを見ようと、観光客たちといっしょに、夜のビーチに寝そべって待っていたことがあります。たまたまそのカメは、産卵をしないで海に帰ってしまった――ということがあって、見ることはできなかったのですが、どこか神秘的な海の生物という印象がありますね」と私。
5、 夜空の星について
「このアニメは、全体に色彩が非常に抑制されていて、微妙な色あいに満ちていますね。島が舞台のおはなしなので、それを囲む海と、その上にひろがる空の描き方も、これまでのアニメとはちがう。例えば、星いっぱいの夜空でも、星はまたたかないし、流れ星もない」と私。
「普通の子ども向けのアニメやマンガでは、夜空は青く描かれることが多いけれど、これも一種の映画言語だね。私はそうしたくなかった」と監督。「たしかに、まだ夕暮れどきは空は青っぽく見えるが、日没後、まわりに人工の明かりなどない自然環境のなかでは、空は灰色で色彩はなくやがて黒くなる。それを私は美しいと思うんだよ」
それは、例えばディズニー・アニメの青い夜空のようにロマンチックすぎず、夜空のもつ深い色彩をこのアニメでは感じさせる。いや、時には「レッドタートル」の夜空は、灰色に近く、ややうすみどり色でむしろ白っぽく見えることすらある。月については、三日月の夜も満月の夜の場面もある。昼の場面では、空が海に映っているありさまも描かれるし、逆に大きなカメが青空に浮遊しているような幻想的な場面もある。このアニメのなかで、昼と夜、空と海が、いったい何カット出てくるか数えきれないほどだが、そのたびにまったく同じ色調の画面ではないのではないか。空とは海であり、海とは空である――と映画全体が語りかけているようにも感じられる。私たち観客も、空と海のなかを泳いでいる気分・・・。そうした空と海の色彩の変化、つまりそのときどき、画面画面の自然のきめの細かい表情がこのドラマを構成しているとも言えるので、どのシーンからも目が離せなくなってしまう。海と空の描写が、このうえなく重層的だからなのだろう。
6、 家族の肖像と最後の火祭(ひまつり)
「島に漂着した男は、初めのうちは、なんとか島から脱出しようとして、竹を組んでいかだを作りますが、三回試みて、三回とも失敗してしまう。そして四度目の試みで竹のいかだを作りかけるけれど、それを放り出してしまう。彼が女性と出会ったことで、これからはその女と島で暮らしていこうと決心したからなのですね」
「その通りだ」と監督。
黒い髪の男とちがって女性の髪は赤っぽいが、目は黒い点(長円)で、鼻がとんがっているという基本は、男と同じである。だがここから映画は夫婦から家族の物語となり、男の子が生まれて成長するまでのテンポはそれまでとは一転して早い。
男の子は、海から流れ着いたガラス瓶を拾い、興味をもつ。そのボトルに付いたコルク(ガラス?)を母親に抜いてもらうと、栓をはめたり取ったりして、不思議そうに手にして遊んでいる。外から来た人工の異物を知って、男の子が外の世界への興味を募らせていく過程が、描写はさりげなく簡潔だが、見ていて無理なくわかる。
「男と女が出会って、ふたり抱き合う場面は、アダムとイヴみたいですね」と私が言うと、ドゥ・ヴィット監督は笑った。
「そして、家族三人が並んで地面に棒で絵を描く場面がありますね。父親は人びとやいろいろな動物を描いて、外の世界に文明があることを小さな息子に示す」
「あの絵を描く場面は、非常に重要なんだ」と監督「あのとき女は、生まれて初めての絵を描くだろう? あそこで彼女が人間であることが示されるんだからね、動物なら絵を描けない。この場面で、家族の結束が示されるんだよ」
「このとき女性が描くのは、カメの絵でしたね」と私。「それが三人の関係と、子どもが外の世界へ出て行くことへの一種の伏線になっていますね。さきに私は、このアニメではレッドタートルのほかには、赤い色を用いていないと言いましたが、もちろん最後のほうで、赤い色彩が大きく派手やかに用いられますね。津波が押し寄せてきて、なんとか生き延びた家族三人が、流木を集めて夜の浜辺でたき火をする。赤い炎は、彼らの背丈より高く、夜空へと大きく燃え上がっていく・・・。この場面のために、赤い色彩をとっておいたのだと感じました」
「あれは歓喜の時なのだからね」と監督。
外の世界を夢見ながら、たくましい青年に育った子どもは、島を出て行く決意をする。このたき火は、災害を無事に生き延びた喜びと、息子の門出を祝うための出来事なのだった。
たき火の夜を経て、朝、青年は両親に見送られて、海へ旅立つ。さながらこの家族の守護神であるかのようなカメたちに先導されながら。そして、島にの残された男と女は老いていく。
7、 メビウス、マッケイ、そしてレンブラント
「エルジェの『タンタンの冒険』は、子どもの頃から親しんでいたよ」と監督。「そして、『レッドタートル』のアニメの色彩について言えば、亡くなったフランスのBD作家メビウスのとてもリアリスティックな絵にも触発されている。そして、アメリカの古典マンガ『夢の国のリトル・ニモ』の作者、ウィンザー・マッケイの色彩などにも大きな影響を受けている。もちろん私の好きな画家レンブラントの絵画にもね。それから、君にぜひ言っておきたいのは、『レッドタートル』の色彩とグラフィック・スタイルについては、多くのアーティストたちの感化があるけれど、最も重要な画家のひとりは、19世紀の日本の浮世絵の作者、河瀬ハスイだということだよ」
マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督とのインタビューの後、私は「レッドタートル」のアニメをもう一度、三度目の試写を見た。そして、ふと思ってことがある・・・。
男が島から脱出しようとして、竹による三度目のいかだを作り、沖に出ていこうとする。だが何故か、巨大生物に襲われでもしたかのように、いかだは破壊され、男は海中に放り出される。
このとき、海を泳ぐ男の目の前に、一匹の大きなカメが現れる。赤いカメだ。カメは男に近づき、正面から男を見つめる。このとき、男に向きあっているカメの顔は、かなり大きく見える。画面から男(つまり観客)を見ているカメの顔。
これは人間の顔のクロースアップとは違うが、カメの顔の一種のクロースアップではないか――と私は思った。この男とカメが正対している場面は一瞬なのだが、やや長い<一瞬>なのではないか。つまりこの長編アニメには、人物の顔の大写しはないが、男とカメの顔が初めて見つめ合うこの場面は、動物であるカメの顔が大きい。クロースアップのないこの映画のなかで、もしそれに近いものがあるとすれば、この場面なのだ。重要な場面であろう。そして、レッドタートルは雌であるはずなのだ。(ついでながらclose upはクロースアップと発音する。クローズアップとは言わない。いつもあるテレビ番組のタイトルにクローズアップ・・・という表記が用いられていることが気になってしまう)
「レッドタートル」という長編ファンタジーアニメを見て、誰しもがさまざまなことに思いをはせるのではないか。
私の感想のひとつは、男と女とは何かというもので、結局、母親から生まれてくる男というものは、生涯にわたって女性のおかげで生かされているのではないか――というものだった。(これは、私が男性であるからなのかもしれないが)。男性と女性は、別の時間を生きているのかもしれない。それがたまたま・・・いろいろな想いがこころをよぎってくる。
8、 絵本版「レッドタートル ある島の物語」
「レッドタートル」の日本公開に際しては「ある島の物語」という副題がポスターなどにつけられている。そしてこのアニメの絵本が岩波書店から刊行された。もちろんドゥ・ヴィット監督が原作で、美しいアニメの場面が多く用いられていて楽しい。構成・文として文章をつけているのが、作家の池澤夏樹氏である。その文章を読み、なるほどと感心したのは、島を擬人化し、この南方の孤島の側から、島の気持ちになって、この<レッドタートル事件>を語っていることだ。日本公開時のサブタイトルが「ある島の物語」だから、島の立場に立って、このおはなしを語ることがあってもいい――というよりも、語る権利がこの島にはあるはずなのである。その着想は悪くない。
ただ、この美しい絵本は、アニメを見たあとでご覧になることをお勧めしたい。当然、映画のストーリーが紹介されているからである。このすばらしいアニメを楽しんだあと、もう一度この絵本を通して、<島>の立場に立って、映画をあなたのなかで再構成してみることで、新しい楽しみにひたることができるはずだ。絵本の造本も見事でしゃれている。
「マイケルさん。私はこの8月に催された第16回広島国際アニメーション・フェスティバルに行ってきました。私があなたに最初にお会いしたのも、この広島アニメフェスでしたね」
日本を去ったドゥ・ヴィット監督に、私はメールを出した。
「今年の広島フェスで、名誉ディレクターとして招かれたのは、フランスのアニメ作家ジャン・フランソワ・ラギオニ氏でした。彼が広島に来られるのはこれで三度目で、私が最も尊敬するアニメーターのひとりです。当然のことながら、氏の作品の特集上映がなされたのですが、なによりも嬉しかったのは、彼の最初の長編アニメ『グウェン 砂の本』(1984)が上映されたことです。この作品は、私がこれまでの生涯で見た最も好きな長編アニメと言ってもいい作品なのです。とても詩的な美しいアニメで、『レッドタートル』を見たときも、『グウェン』を思い浮かべました。あなたは『グウェン』についてどうお思いですか?」
「信じないかもしれないが、実はまだ私は『グウェン』を見ていないんだ。とても見たいと思っている。でも私は、ラギオニ氏の短編『大西洋横断』(1978)
をフランスのアヌシー国際アニメフェスで見て、まったく圧倒された。とりわけその結末には深く感動したよ」
いまでも世界の多くのアニメ・ファンは、ラギオニの代表作として21分の短編「大西洋横断」をあげるだろう。今年の広島でも当然のことながら上映され、ファンの質問もこの短編に集中した。男女のカップル(夫婦)が、手漕ぎボートで大西洋を横断する物語。途中タイタニック号の沈没に出合ったり、夫と妻はそれぞれに手記を残し、あたかも無限の時間をボートで生きている印象。ポートの二人は島に上陸する場面もあるから、あるいはドゥ・ヴィット氏の「レッドタートル」になにか影響が――との思いがないわけではないけれども・・・。
だが、ドゥ・ヴィット氏が「グウェン」を見ていないのも当然だろう。この長編は1984年にフランスで公開されたが興行的には大失敗で、日本でも見ているのは私くらいのものだろう。(私は三回見たし、DVDも持っている)また今年の広島アニメフェスの国際審査員のひとりは、男性なのだが、一日おきに女装するスウェーデンのアニメ作家であった。とてもおもしろい人物だったので、この連載の次回には、長編SFアニメである「グウェン」と、この審査員などについて記すことにしたい。